夢の中の蝶
「おや?」
暗い闇の中、自分の姿だけが薄っすらと見える不思議空間にわたしはいた。
両手や両足だけではなく、着ている服も含めて、全身が光っているわけではないのにぼんやりと浮かび上がっている。
「いつもの感じとは随分違うけれど……これも、夢……なのかな?」
このところ毎日のようにずっと視ていた夢は、はっきり見えるわけではなかったけれど、もっとフルカラーだった。
具体的には焼け付く炎、穏やかな風、眩しい光、力強い大地、清らかな水、広がる空間、静かな闇など、見た目の色だけではなくその熱や空気まで感じるほどリアルなものだった。
実は夢などではなく、現実にその場所へ行っていたのだと言われても、「ああ、やっぱり」と思えてしまったことだろう。
だけど、それらの夢は、現実に戻るとあまりよく覚えていないことの方が多かった。
夢を見たことは覚えているのだけど、それが断片的と言うか、ツギハギと言うか……。
3月に入ってから見てきた夢は、いろいろあったけど、そのどれもそんな不思議な感覚を持つものばかりだった気がする。
尤も、現実の方こそ夢のような出来事が多かったかもしれない。
まるで「胡蝶の夢」だ。
中国の孟子とか孫子とかそんな名前の人が、夢の中で胡蝶となり、目が覚めてからも実は胡蝶が見ている夢なのでは? と混乱したって話。
まさにそんな感じだと思う。
「来ましたね」
「へ?」
自分以外いないと思っていた空間に、別の人の声が聞こえたら、ほとんどの人間は驚くと思う。
しかも、その声はかなり高くて幼く聞こえるけれど、どこかで聞いたことがある気がしたのだから、余計にビックリするのは仕方ないよね。
その声の方向を向くと、そこにはわたしと同じように、不明瞭……、というより不透明な感じの黒い髪の少女……、いや、童女がそこにいた。
「はじめまして」
「え? あ? 初めまして?」
なんだろう。この違和感。
確かに会うのは初めてなんだと思う。
わたしにこんな幼児の知り合いはいない。
でも……、間違いなく、わたしは彼女を知っている。
だから、「初めまして」と初対面の挨拶をすることに対してかなりの違和感を覚えたのだろう。
「アナタには回りくどいことを言っても全く通じないと思うので直球勝負します」
その童女は、わたしの三分の二ほどしか無い見た目に反してかなり大人びたことを言う。
そして、わたしに対して敬語という辺り、その教育の高さが伺える気がした。
彼女はわたしをまっすぐに見て、第一球をど真ん中に投げ込んでくる。
「魔界に行くことはやめてください!」
「……今更?」
「ぐっ! 」
あまりにも癖のない投球だったので、わたしは素直に打ち返してしまった。
自分の半分も生きていないような外見の幼児相手に、大人気ない反応をしてしまったとは思う。
しかし、本当に「今更」としか言葉が出てこなかったのだ。
「ここまで色々とお膳立てされて『行きたくないから止めます』って言えると思う? せめて、もっと早く忠告してくれたら、もう少し考えることもできたのに」
周囲もいろいろと準備をしてくれて、さらに自分自身でも心の整理して、さあ、いよいよ行くぞ! って時に土壇場で「やっぱりNO! 」を言い出すって、かなり迷惑だと思う。
友人たちの旅行でそれをやらかしたら、その理由によっては二度と相手を「友人」と呼べない状況にまで追い込まれるかもしれない。
「し、仕方ないではありませんか! ワタシより、上位の存在がずっとアナタに干渉していたのですから。あれさえなければ、もっと早く警告することもできたのです」
彼女なりに言い分があったようで、慌ててそんな風に弁解をする。
上位の存在が干渉?
もしかしなくても、夢に出てくる金髪の女性のことかな?
確かに目の前の少女よりも様々な意味での力を持っている気がする。
何しろあの人は……。
「まだ間に合います! 魔界に行くのだけは、やめてください!!」
耳に響く子供特有の甲高い声で、思考が中断された。
「なんで?」
わたしは思わず尋ねる。
「危ないからです! 危険だからです! どうしようもないのです!! 諦めてください!!」
捲し立てるように次々と言葉を繰り出されたけど……。
「……危ないから魔界に行くことにしたのだけど?」
そう自分で決めた理由を口にする。
わたしの言葉で一瞬、彼女は口を変な形にしたが、思い出したかのように言う。
「魔界に行けば確実に死にます!」
「……うわあ」
思ったよりきつい言葉が飛び出してきた。
直球と言っていたけど、飾らないにも程があるだろう。
それにしても、確実かあ……。
確実なのかあ……。
明確な死の予言をした上で、彼女はこう付け加えた。
「魔界に行くことを止めるのなら、恐らくはもう少し時間を稼げます。このまま、母親と2人で生きていくことを選んでください」
確実に説得できる自信がある言葉だったのか、彼女は胸を張ってわたしにそう言った。
彼女が言っていることの意味はよく分からないし、結局のところ、絶対的な死の予知を回避できるわけでもないようだ。
それは、「時間稼ぎ」という言葉に全て集約されている。
「その場合、周りの人はどうなるの?」
「周りなんかどうでも良いではありませんか! 誰だって自分の身が一番、大事なのでしょう?」
その童女は拳を握って力説する。
自分が正しいと信じている瞳で、自分は間違っていないと確信する言葉で。
だからわたしは、はっきりと言った。
「……それ、無理」
「は?」
わたしの言葉の意味が分からなかったのか。
短い一言で聞き返す。
「考え方の違いだと思うけれど、わたしは他者を巻き込んでおいて、それでも自分だけが助かれば良いとはどうしても思えない」
「な、何故?」
信じられないと目で訴えている。
その中にはなんで分かってくれないのかと、わたしを責める色も含まれていた。
「勿論、自分の命を軽視しているわけじゃないんだよ」
わたしはふっと短く息を吐く。
「でも、周囲を犠牲にして、その傷を負ったまま生きていくような自信はないなあ。金髪のあの人みたいに、自分と大事な人だけが助かれば良い! 他は知らない! なんて割り切れたら、多分、もっと楽なんだろうけどね」
彼女が口にした「上位の存在」があの金髪の女性のことだと断言してみた。
多分、わたしには大事なものが増えすぎたのだと思う。
カゴの中の鳥のように外の世界を知らなかったあの人と違って、わたしは自由すぎたのだとも言える。
だけど、自分を支えてくれる人たちの存在を意識して、その上で周囲の他人を不要と切り捨てるような思い切りの良さを持つことなど、今となってはもうできないだろう。
「じ、自分と母親だけで良いではありませんか」
それは彼女の世界の狭さを表している言葉なのかもしれない。
自身と母親だけの世界。
それだけで満たされていたのだろう。
「自分と母親だけじゃ、今のわたしにはなってないなあ……」
「で、でも……」
納得はできないかもしれない。
それだけ、彼女とわたしが生きてきた世界が違うのだから。
「現時点で色々な人に迷惑をかけている。これ以上、甘えたくはないんだよ」
「迷惑って……。周りがそれを許してくれるのならば、それで良いではありませんか?」
その考え方を「甘え」と呼ぶのだろう。
これまでは周囲の優しさやその他の理由で見逃されてきたかもしれないけれど、今となってはそれに気付いてしまったわたし自身がこの状況を許容できない。
そんな考え方を無謀と言うかは分からないけれど、自身の言動に無責任でいて良いと言い切ってしまうほど、幼くはありたくなかった。
「5歳ぐらいの幼子ならそれでも良かったかもしれないけど……、この歳になるとなかなかねえ」
「え?」
明らかに彼女は動揺した。
わたしが彼女を表す最も的確な言葉を選んだからだ。
「改めて初めまして。昔のわたし」
そう言いながら、余裕を見せるべく笑みを浮かべてみる。
改めてそんな挨拶するわたしの顔を、彼女は驚愕の瞳で見つめるのだった。
「胡蝶の夢」は中国の思想家、莊子の作品です。
孟子は近いと思いますが、孫子(孫武)はかなり時代が違う気がします。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




