最強の主人
この女はどれだけ気付いているのだろうか?
「いっち、にぃ、さんっ、しぃ……」
リズミカルにカウントする声が、部屋に響いている。
息が弾んでいるせいか、その声が酷く艶めかしいものに聞こえて仕方ない。
いや、それは別に良いんだ。
この女の声がいつも可愛い上に、たまにだが、妙に扇情的なものになることは、長い付き合いで、オレも理解している。
だけど……。
「もう少し強く押しても大丈夫だよ?」
従者とは言え、異性であるオレに、筋トレのサポートさせているのは、傍から見れば、かなり問題がある行動なのではないだろうか?
いや、彼女にサポートの申し出をしたのは確かにオレの方だった。
栞が選んでいた筋トレは、部活動で得たものだったためか、誰かのサポートがあった方が良い種類のものが多かったから。
腹筋運動をしている時に、栞の両足が身体を起こすたびに僅かだが、ずれていくのが気になり、つい、「動かないように両足を押さえてやろうか? 」と言ってしまったのだ。
それが間違いだった。
本当に、何気なく、下心なく言った言葉ではあったのだが、「お願いするね」と上目遣いで可愛らしく許可された時に、いろいろと問題があることにうっかり思い至ってしまった。
今は、前屈のために後ろから背中を押している状態だが、腹筋運動で両足を押さえていたオレに向かって、躊躇なくその上半身を近づけるとか、本当に勘弁して欲しい。
役得ではあったが、いろいろと心臓に悪すぎた。
彼女は、カウントと腹筋運動に忙しくて気付いていなかったとは思うが、本当に、いろいろヤバかったのだ。
栞が一人で腹筋運動をしていた時に、位置的に、そんな体勢になってしまうことに気付いていなかったオレもどうかと思うが……。
だが、引き受けた以上、今更、辞めるということはできない。
寧ろ、辞めたくはない。
許可されて、好きな女の身体に触れる機会。
しかも、顔を紅くして一生懸命な表情を見ることもできるのだ。
これを逃す手はなかった。
これは、布団の中とはまた違った感覚と感情がある。
「これぐらいか?」
もう少し強く背中に触れると、先ほどよりもさらに熱が伝わってくる。
少し、汗ばんでいるのか、着ている服が少しだけしっとりとしてた。
「うん! いっち、にの、さん!」
そう言いながら、ぐにゃりと、前傾姿勢になる。
「すげぇ……」
驚きのあまり、思わず手を引っ込めたくなった。
なんとなく、軟体動物を見ている心境になる。
「そうかな?」
前傾姿勢で10カウントをした後、身体を起こして不思議そうな顔をする。
「確かにある程度、前にはいくけど、床には着かないし、わたし、『股割り』もここまでしかできないからね」
そう言って、オレに背を向けたまま両足を左右に開脚する。
確かに後ろから見た限り、180度までは開いていないが、それでも140度以上は開いている気がする。
オレよりは十分、股関節が柔らかい。
正面から見ようとしない理由は、察してくれ。
「十分だと思うぞ」
「それでも、180度ぐらいぱかっと開いた方がかっこいいよね。柔らかい方ではあるらしいけど、なんか、中途半端なんだよ。対戦したチームの一塁手で、捕球時に股関節が地面に着きそうなぐらい凄く足の開く選手がいてさ。憧れだったな~」
そこまでくると気持ちが悪いと思うが、栞にとってはそうではないらしい。
本当に目がキラキラしていた。
そして、以前、彼女の体幹が妙に鍛えられていると思ったのは、気のせいじゃなかったようだ。
オレの肩に担ぎ上げられても、ある程度のバランスをとることができるのはそのためだったのだろう。
「身体を鍛えると言うより、気分転換に近かったから、受験勉強中にもやっていたし、魔界に来てからも割とやってたんだよね」
筋トレ、ストレッチを迷わずに行えるということはある程度、メニューが頭にあって、身に付いていると言うことだ。
少し、我流っぽい部分があるので、変な癖がついてしまっていたようだが、注意すれば当人も気付いて直せる程度の物だった。
オレのように日課とはいかないまでも、それなりの頻度で身体を動かしてはいたらしい。
「ただ、九十九はもっと凄いね。身体への負荷の掛け方が全然、違ったから」
身体を動かす程度の彼女と、鍛えることが前提のオレとのメニューが違うのは当然だろう。
「それでも、オレにそこまでの柔軟性はねえぞ」
股割りのような柔軟運動は苦手だった。
柔軟をした方が怪我をしにくいと分かっていても、治癒魔法があるために、少し、疎かにしている面はある。
「わたしでも、九十九に勝てる部分があったか」
何故か栞は嬉しそうにそう言った。
何を言ってるんだ?
もともと、オレは彼女に勝つことなんてできないのに……。
オレは溜息を吐いた。
「おや、溜息? 幸せが逃げちゃうよ?」
栞はオレを揶揄うように人間界の迷信を言った。
「馬鹿言え。長く息を吐くことは、身体に良いんだぞ」
正しい呼吸法ならば、寧ろ、健康に繋がるとされている。
「うん。知ってる。そうじゃなければ、体操の中に深呼吸を組み込む意味はないよね」
やはり揶揄われたらしい。
「それに、今のオレは十分、幸せなんだよ。だから、息を吐いた程度で逃げるような小さい幸せの一つや二つなくなった所で何も問題はない」
好きな女が目の前にいて、笑ってくれている。
傍にいることを許されている。
しかも、今なんて、その身体に触れることを許可された。
これを幸せと言わずしてどうする?
「そうなの?」
不思議そうな顔をする栞。
「九十九は、こんなにもわたしという存在に縛られているのに?」
「どういう意味だ?」
「わたしがいなければ、もっと自由に動けるって思うことはない?」
「ないな」
寧ろ、オレは栞を縛り付けたいぐらいなのに……。
ぶ、物理的な意味ではなく、精神的な意味で……、にしても、いろいろとマズい感情だな、これ。
「九十九は、ドMなの?」
「Mっ気については、多少、あるかもしれんが、『ド』はいらんと思う」
オレは一体、何を答えさせられているのだろうか?
だが、確かに彼女からのお願い、要望はもっと叶えてやりたいと思うし、多少の無理難題は引き受けるつもりもある。
それに、栞から与えられるものなら、肉体的な痛みであっても問題ないと思う程度の感情はあった。
まあ、精神的なものは本当に勘弁願いたいが。
「ああ、九十九はSっぽいよね」
「何を根拠に?」
それはそれでオレをどんな目で見ているか気になるところである。
「…………まあ、いろいろ?」
その間を深読みするべきなのだろうか?
確かに、多少構い倒して困った顔を見たいとは思うけど、それって「S」ってほどではない気がする。
好きな女の子のいろいろな表情を見たいために、ちょっかいを出したくなる感情というのは、男なら、大小関係なくあると思うのだ。
「でも、九十九が、本当に幸せなら、何も問題はないか」
「おお」
寧ろ、望みすぎると罰が当たる気がする。
急に、栞がいなくなるとか、今のオレに耐えられるとは思えない。
今のオレにあるのは、5歳の時の感情とは全く別種のもの。
大切だ。
大事だ。
手放したくない。
そんな感情はあの頃からあったが、今はそれ以上に、大きな感情が支配している。
彼女が幸せであることを願う気持ちは勿論、ある。
だけど、それは、オレの一番近くであって欲しいと思ってしまうのだ。
分かっている。
それは、遠くない未来に壊れることも。
栞ももう18歳だ。
この世界では、いつ、誰かのものになってもおかしくはない年齢。
「逆に聞くが、栞は、今、幸せか?」
「うん」
オレの問いかけに迷いもなく答えてくれる主人。
「言語を覚えたり、勉強したりするのはちょっと大変だけど、美味しいものが食べられて、本も読めて、絵を描くことが許されて、生活の心配もいらない。かなり贅沢な話だよ」
彼女は、人間界にいた頃より、ずっと不自由な生活を強いられているのに、それでも笑ってくれる。
「特に絵はね。まさか、また描けるとは思ってなかった。しかも、本まで作っちゃったなんて、人間界以上の成果だよ」
本については、オレの功績ではない。
そのことがちょっとだけ悔しかった。
でも、栞は嬉しそうにオレに向かって眩しさが溢れるような笑みを見せる。
「全部、九十九のおかげだよね」
「オレは大したことはしてねえ」
「ううん」
オレの言葉に栞は首を振る。
「九十九はいろいろわたしの願いを叶えてくれている。だから、わたしも足手纏いにならない程度に、もっと頑張るよ!」
そう言って、最強の主人は、無敵の笑顔をオレに見せつけるのだった。
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