痛い視線
先ほどから、視線が痛い。
いや、こんな時はいつも痛いのだけど、なんとなく、今日はいつも以上に見られている気がする。
やっていることはいつもと変わらないはずだが、なんだろう?
先ほどから酷く落ち着かない視線が自分に向けられている気がしているのだ。
「どうした?」
自分を見ている相手の方から、声が掛けられる。
「なんとなく、集中できなくて……」
そう答えて、わたしは大きく息を吐いた。
「珍しいこともあるもんだな」
そう言いながらも、九十九は報告書の続きを書いていく。
わたしに目を向けつつも、手を止めない辺り、流石だとしか言いようがない。
そんな彼に対して、流石に「集中できないのはあなたのせいだ」とは言いにくかった。
それに報告書を書きながら、定期的に様子を見られるのはいつものことでもあるし。
その視線の鋭さに、まるで、自分の観察日記を付けられているような気分になってしまうところも。
「そうかな? たまにあることだよ」
わたしは、筆記具を下ろした。
九十九が日課としてごく自然に報告書を書くことに対して、わたしはいつも同じ感覚で絵が描けるわけじゃないのだ。
本気で漫画家になりたいなら、それではダメなのだろうけど、気分が乗らない日だって当然ながらある。
趣味で絵を描いているだけだから、少しぐらい息を吐く余裕ぐらいあっても良いだろう。
「ちょっと休憩っと」
腕と背中を伸ばす。
「茶でも淹れるか?」
九十九はそう言いながら、手を止めた。
「いや、良いよ」
わたしは、そのままテーブルから離れる。
「どうした?」
「ちょっと気分転換に筋トレでもしようかと」
身体が鈍っているせいか、どうも、いろいろな部分の動きが悪い気がする。
なんとなく、身体だけでなく、頭の動きも悪い。
それに、こんな精神状態で、良いものは描ける気がしなかった。
「ちょっと待て!」
「ぬ?」
九十九がいきなり大きな声を出す。
「日本人感覚のまま、床で筋トレしようとするな! ちゃんとマットを準備してやるから少し待ってろ!」
九十九は本当に気が付く男だ。
でも、わたしとしては、部活中、地面で普通に筋トレをしていたので、そんなに気になることでもないのだが……。
屋外競技って、結構、そんな感じだよね?
あれ?
わたしの部活が女子としてのアレやコレを捨てていただけ?
考えているうちに、結構な広さがある橙色のマットが床に敷かれた。
「ありがとう」
わたしは素直にお礼を言う。
確かに、筋トレをするなら、マットがあった方が良いのは確かだ。
「でも、このマットだと、側方倒立回転とか、倒立前転とか普通にできそうだね」
なんとなく中学時代を思い出した。
マット運動だけじゃなく、跳び箱とか平均台とかも……。
ちょっと懐かしい。
「それじゃあ、筋トレじゃなくて、マット運動だぞ。……って、側転はともかく、お前、倒立前転もできたのか?」
「うん。倒立前転も、倒立からブリッジするのも、マットなしでできたよ」
家の布団でも練習したけど、部活が始まる前に、かなり練習したから。
「いや、倒立系をマットなしでするなよ。危ねえぞ?」
「うん、確かに危険だよね。背中を地面に強打した時は、死ぬかと思った」
背中に激しい痛みを感じる前に、呼吸が一瞬止まり、青空が妙に綺麗に見えたことだけは鮮明に覚えている。
「……って、失敗してんじゃねえか!!」
「過去のことだよ?」
「オレの知らんところで、お前が、痛い思いをしていた事実が嫌なんだよ」
本当に、どこまでも過保護な護衛だよね。
「痛い思いが嫌なら、ソフトボールって競技はやれないよ? 打席に立てば、死球とかもあるわけだし」
幸い、わたしは頭や顔に死球を食らったことはないが、他の部員が頬に当たり、口から血を流すところは見たことがある。
野球よりもソフトボールは投手との距離が近いから、自分に向かってくるのを避けるのは難しかったりする。
打球だっていきなりバウンドが変わったりするし、普通に強打を食らったら、グローブ越しでもかなり痛い。
何より、擦り傷、切り傷、打撲って日常的な光景だった。
「オレ、お前がソフトしているところを見なくて良かった。見てたら、つい飛び出していたかもしれん」
大きな溜息を吐く過保護な護衛。
「それは、ちょっと困るな」
他校の生徒というだけでも、アレなのに、少々の怪我で乱入騒ぎとか本当に勘弁して欲しい。
でも、九十九は元彼女であるミオリさんのプレイを見たことなかったのだろうか?
「だけど、正直言えば、少しぐらいは見てみたかったと思う気持ちもある」
「へ……?」
その意外な言葉に、わたしは少し驚いた。
「来島のヤツも見ていたみたいだからな」
ああ、そう言えば……。
「……らしいね」
あの人はそんなことを言っていたね。
「『らしい』って、お前……」
九十九がどこか呆れたような目でわたしを見る。
でも、仕方ないじゃないか。
「あの頃のわたしには、試合前に周囲を見るような余裕が全然なかったんだよ」
わたしは、対戦したチームの選手名すらまともに覚えていなかった。
もし、少しでもプレイ以外のものを覚えていたなら、ミオリさんとの出会いも、印象も、全然違ったものだったのかな?
「だから、本当に気付いていなかったんだ」
ソウが細かいプレイを今も思い出せるほどしっかりと見ていてくれたことも、ミオリさんもわたしが一年生から先発出場していたこと覚えているほど意識されていたことも、わたしは何も気付いていなかったのだ。
「あの人たちがわたしを気にしていたなんて……」
「あの人……たち?」
「ソウとミオリさん」
「来島はともかく、深織については仕方ないと思うぞ?」
「それでも、彼女のことを少しでも意識していたら、少しぐらい何か違ったとは思わない?」
互いに面識があれば、もっと修羅場になっていた可能性もあるけど……。
「いや、深織のことは忘れろ」
九十九はきっぱりと言い切った。
「酷いことを言うね」
仮にも、自分の元彼女だというのに。
「覚えていても仕方ねえだろ。お前を殺そうとした時点で、オレはあの女を許せない。それに、恐らく、もう二度と会うこともないヤツだ」
「そうだね」
でも、わたしに向かってそう言う九十九は、あのミオリさんのことを、忘れることはないのだろう。
そう思うと、いろいろと複雑な気持ちになってしまう。
それに……。
「でも、あんな強烈な女性、忘れたくても忘れにくいかな」
わたしに対しても、九十九に対してもある意味、全力投球、全身全霊で体当たりをかましてくるような女性だった。
逞しい、と言えば聞こえは良いが、傍迷惑と言ってしまえばそれまでである。
「そうだな」
どこか遠い目をする九十九。
その辺りは、わたしよりも彼の方がいろいろと言いたい気持ちはあるのだろう。
そして、九十九が言う通り、わたしはミオリさんに会うことはないと思っている。
仮にその機会が巡ってきても、今度は九十九が迷いもなく排除するだろう。
そんな気がしているのだ。
そのことについて、本来は九十九の元彼女であるあの人に対して申し訳ない気持ちになるべきだとは思う。
ミオリさんが言った通り、わたしが九十九を縛り付けていることは確かなのだから。
でも、そんな彼の行動をどこか嬉しいとも思ってしまうわたしは、少しだけ、この「ゆめの郷」に存在する「感情を揺さぶられる効果」とやらに負けてしまっているのかもしれない。
「筋トレ、するんじゃなかったのか?」
わたしの気持ちが沈んだことに気付いたのか。
九十九がそう声を掛けてきた。
「うん、やる!」
せっかく、九十九が用意してくれたのだ。
それに、今は、いろいろごちゃごちゃ考えても仕方ない!
わたしは、体育会系らしく、動いて、悩みを吹き飛ばすことにしよう!!
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