無理に抑え込んだとしても
栞が風呂から上がった気配がする。
顔を上げてすぐにそれを見たかったが、今はこの報告書に集中しよう。
昨日みたいにすぐに見ては、あっさり理性が陥落してしまうからな。
栞が近づいてきた気配がしたので……。
「上がったか」
ゆっくりと顔を上げた。
そこには風呂から上がって、白い肌がうっすらと桜色に近付いた栞の姿があった。
「うん。良いお湯でした」
そう言いながら、警戒心もなく笑う栞。
この女……、相変わらず可愛いじゃねえか。
その頬を少し赤らめているため、どこか照れたような顔にも見える。
それでも、心の準備をしていたために、理性を崩落させるほどの直撃は避けられた。
「この紙と筆記具を少し借りて良い?」
そんなオレの心境など知らない彼女は、机に広げた紙の中から一枚手に取る。
「あ? ああ、良いぞ」
また絵でも描く気か?
許可をしたものの、彼女の濡れた黒髪から落ちる雫が気になった。
「ただその前に、髪。また雫が落ちている」
「ふえ?」
そう言って、オレは栞の背後に回る。
髪の毛が長いって大変だよな。
肩までのセミロングでもこうなのだ。
栞は、昔、腰まで髪の長さがあったと聞いている。
その頃は、もっと大変だったことだろう。
タオルで丁寧に水気を取りつつ、風魔法を温く調整する。
これぐらいの温度なら、熱くもないし、髪も傷まないだろう。
この黒くてツヤのある髪の毛は好きなのだ。
彼女は長旅で髪が傷みやすい環境にあるのだから、できるだけ、綺麗に保ってやりたい。
「栞……」
オレは囁き声で、彼女の名を呼ぶ。
「何?」
聞き取ってくれたようで、栞は反応してくれた。
「少し、話がある」
いつまでも黙っておくわけにはいかない。
彼女に……、条件を話しておくべきだと思った。
このまま隠してやり過ごそうとしても、どうせ、あの人たちと合流すれば、露見することだ。それならば、今のうちに話すべきだろう。
その上で、判断して欲しい、とも。
「丁度、良かった。わたしも話がある」
「え?」
「そのために少し、書かせて?」
栞はそう言って、オレに髪の毛を乾かされながら、紙に何やら書いた。
絵のために欲したのではなく、会話のために必要としたようだ。
『この部屋、盗聴とかされている可能性はある?』
そして、その内容を見て納得した。
だから、オレは口にする。
「ない。その類の魔法具は、この宿に泊まると決めてから、全て、壊してある」
その手の魔法具を野放しにする気はない。
どんな目的かは分からないが、他人の睦言、秘め事をこっそり聞き出そうなんて碌な輩ではないだろう。
妙な気配がする道具は前もって、全て叩き壊しておいた。
少し離れていた間に、いくつか追加されていたのだが、それも含めて、念入りに。
目的が目的のために、道具を破壊したことに対して、請求書が送りつけられることはないだろう。
「そうか。じゃあ、筆記で話す必要はないね」
背中越しでも分かりやすく、栞はホッとしていた。
「ついでに、その上で、防音の結界も張ってある。少なくとも、この周辺、半径1キロの範囲内は完全に音が漏れない」
結界用の魔法具このスカルウォーク大陸に来てからいろいろ買い込んでいるため、結界の維持に神経は使わない。
これらは、万一の荒事対策の意味もある。
こんな場所では、悲鳴や大声は日常かもしれないが、破壊音や爆発音など非日常的な音が鳴り響けば流石に踏み込まれる可能性はある。
関係のない人間たちを巻き込むのは本意ではない。
「いつの間に?」
「ここに来た時から。その手のヤツは変な気配がするからな。人間界みたいな完全に機械なら分からない可能性もあるが、魔界の道具は基本的に魔力を帯びる」
だから、魔法具のほとんどは集中すればどこにあるか、その気配で分かる。
因みに、あの高級宿泊施設は、これまでになく魔法具の気配が多かった。
「カルセオラリア製も?」
「カルセオラリア製のものがあれば、余計に分かりやすい。どうしても、動力は魔石に込められた魔力になる。壊す方は、物理でいけるからな」
カルセオラリア製のものは、外からの魔力に抵抗が高いものが多いだけで、中に魔力がないわけではないのだ。
外側に余計な魔力が纏わりついていない分、動力源が分かりやすくなる。
「そっか。それなら、安心かな」
「なんで、そんなことを気にしたんだ?」
今までそんなことを気にしたことはなかったのに。
まあ、警戒心が芽生えるのは悪いことではないのだが。
「いや、お風呂に入っている時に考えたんだけど……」
そう言いながら、栞は話し始める。
彼女の口から「風呂に入っている時」という単語が出て、少し反応しかかったのはここだけの話だ。
悪かったな!
十代の男なんて、そんなもんなんだよ!!
こうして、栞の髪に触れている時とか、ハイネックの隙間からちょっとだけ見える首筋とか、それだけで、こんなにも……。
「わたしが気になったのは、そもそもなんで別行動の条件に、『同じ布団』という言葉が入ったのか、という点なんだよ」
だが、オレの青少年特有の思考は、現実的な彼女の真面目な声によって、切り替えられる。
「ちょっと待て」
そんな話を後ろから聞くわけにはいかない。
オレは正面に回って、栞に向き合うように椅子に腰かけた。
「お前の考えを聞かせろ」
オレがそう言うと、彼女は少しだけ、その大きな瞳を瞬かせた後、口元を緩めた。
「拙い考えだよ?」
「それは聞いた後で判断する」
何でも、別視点から見ることは大事だ。
オレが見えてないものが、栞の目に映っていないとは思わない。
「だが、その前に、茶を準備する」
「へ?」
「風呂上がりだろ? 喉が渇いている状態で、話は辛いぞ?」
「あ、うん。でも、本当にお茶だけで。お菓子は、その、時間的にちょっと……」
少し、恥ずかしそうに顔を赤らめて、下を向く栞。
なんだろう、この女。
オレの理性をどうしたいんだ?
「分かってるよ。単体で飲める、さっきの薬草茶なら大丈夫か?」
オレがそう答えると、栞は嬉しそうに笑って頷いた。
これは、本当に、自分の理性を試されている気しかない。
風呂上がりに好きな女が同じ空間にいるってだけで、かなりの状態なのに、自分を全面的に信頼して気を許して笑ってくれるなんて、どこのラブコメ漫画かよ!?
オレは逃げるように、簡易厨房に向かった。
ここの宿泊施設は、全てを自分でする古いタイプの施設のためか、通販ボックスはあるけれど、厨房にそれなりの備品がある。
あの以前宿泊していた施設よりは、厨房が整っていて使いやすい。
先ほどまで、飲んでいた「鎮める草」を取り出す。
心を落ち着け、安心感をもたらし、飲みすぎると、男にとっては一時的に自信を喪失させる効果がある薬草茶。
なんとなく、この状況では、オレもこの薬草茶を飲んだ方が良い気がしてきた。
どう考えても、栞が危険すぎるだろう。
薬草の束を握り締めて、暫し、本気で悩む。
確かにちゃんと頭は切り替わるのだが、暫く栞を見ていると胸の奥が妙にムズムズしてくるのだ。
その上、変なスイッチが入ってしまいそうになる。
具体的には、栞を「抱き締めたい」とか、「触れたい」とか、そんなどこか邪な感情が一気に湧き起こるのだ。
心を揺らす結界の対処は出来ているはずだから、これは、単純にオレの精神の問題なのだろう。
兄には「未熟」と笑われている気がする。
少し、薬草を見つめ、大きく、一息吐いた。
確かに薬草で抑えるのは、苦痛だけど楽な方法ではあるだろう。
だが、これからも栞の傍にいる以上、ずっとこの薬草に頼り続けるわけにはいかないのだ。
なんとか自分の意思で抑えよう。
薬草茶で気持ちを鎮めたところで、栞への気持ちまで抑えられるわけではない。
それに、無理矢理、抑え込んだとしても、かえって、苦しい思いをするだけのような気がしたのだった。
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