試される胆力
栞は、不意に、オレに尋ねてきた。
オレに今、好きなヤツがいるのか? と。
その質問の意図は分からない。
分からないけれど、その問いかけに対する返事など決まっている。
「さあな」
彼女に嘘は吐きたくない。
だが、本当の気持ちを告げることはできない。
オレから言えることなんて、せいぜい、「月が綺麗」などと、少しばかり曖昧な言葉を口にするぐらいだ。
どんなに想っても、この気持ちは、彼女の傍にいるためには邪魔で、その気持ちを告げた所で、互いの枷……、いや、重いしこりにしかならなくなることは、十分すぎるぐらい分かっているのだから。
もう、5歳のガキじゃない。
その言葉の意味も、重さもとっくに理解している。
そして、その言葉が齎す結果も。
オレの返事が不服だったのか、栞は少しの間、百面相をしていたが、不意に、オレに強い瞳を向ける。
その決意を秘めた瞳はかなり好きなのだが……。
「その、好きな人ができたら、九十九は我慢しないでね?」
その瞳のまま、そんなどこか見当違いのことを言われるとは思わなかった。
「は?」
思わず、言葉を失いかける。
この場合、我慢するなとはどういう意味だ?
心の動くままに行動しろってことか?
「我慢って、お前……」
その真意を聞きたいような、聞きたくないような複雑な気持ちではあるが、確認しなければならない。
「いや、好きな人ができたら、わたしのために我慢してないで、その人にちゃんとアタックしてね?」
「あ、ああ、そう言う……」
やはり、期待しすぎは良くない。
それでも……。
「だが、好きなヤツができた後の方が、我慢する機会も増えるのは仕方ねえと思うぞ」
「へ?」
オレの言葉の意味が分かっていないため、彼女は不思議そうに問い返す。
こいつ、オレがいつもどれだけ我慢していると思ってるんだろうか?
このまま、ぎゅっと抱き締めたい衝動を、どれだけ押さえ込んでいると思っているんだ?
「思うがままの行動をとって、泣かせたくはないからな。四六時中近くにいたいと思っても、相手にとって重荷になるなら自重するのが当然だろう?」
相手を傷つけた時点で、傍にいられなくなる。
本来、「発情期」を理由にしても、栞に対して行った行動は許されるものではなく、そのまま、クビになることが当然の流れだった。
「相手の気持ちを尊重するってこと?」
「自分が好きだと思っても、相手に想われなければダメだろう?」
「なんとなく、九十九はもっとその辺り、強引かと思ってた」
「お前、人のことを一体、どんな目で見てるんだ?」
正直、少し、いや、かなりショックだった。
そもそも合意のない行動が良くないことぐらい理解はできるはずだ。
……「発情期」で、既にやらかしてしまったオレが言っても説得力はないのだが。
「いや、だって、今も手を離さないじゃない?」
「ああ、悪い」
言われるまで気付かなかった。
オレは、その手を離す。
栞はオレの握っていた部分を少し、見つめて何故か溜息を吐いた。
「お前は、触れられるのは嫌か?」
だから、思わずそんなことを口走ってしまった。
「はい!?」
「いや、オレから触られるのは嫌かなと」
割と今更な話だとは思う。
嫌なら、触れることは我慢するしかない。
だが、できれば、触れることぐらいは、許されたいとは思う。
それに、オレが確認すれば、栞は絶対に「嫌だ」とは言わない。
相手を傷つけることを嫌う女だから。
その本心に蓋をして、相手の願いをできるだけ叶えようとしてくれる。
「少し前にも言ったけど、触れられるのが嫌ならちゃんと言うよ」
やはり、栞は「嫌」とは言わない。
あれだけのことをした男に対しても寛容な心を見せつける。
だけど、その心はオレに対してだけではない。
誰に対しても、同じ言葉を返してしまうだろう。
「以前に比べて、ちょっと触れ過ぎじゃないかとか、回数増えたなとは思っているけど、護衛だからある程度は仕方ないでしょう?」
そこはかとない不満を口にする。
やはり、スキンシップが増えていることには気付いていたか。
仕方ねえじゃねえか。
オレはもっと栞に触れたいんだ。
だけど、触れる以上のことは自重するから……。
「そうだな。ある程度は我慢しろ」
オレはそう答えた。
「それに、異性からの接触はお前にとっても重要なことだ」
「ほへ?」
「お前は、男に慣れてないから、ちょっとばかり接触されたぐらいで過剰に翻弄されるんだよ」
「……おお」
これは本当のことだ。
栞は、オレだけではなく女慣れしてそうな来島や、明らかに慣れている兄貴からも翻弄されているし、下手すれば、直球なトルクスタン王子からの言動にも振り回される。
人間界の同年代の女でも、ここまで過剰に反応しないと思う。
彼女の人生にどれだけ男っ気がなかったのかという話だ。
いや、オレにとってはその方が良いが、護衛としてはちょっと不安が残るのだ。
「だから、オレで慣らしておけ」
「九十九で慣らすと言われても……」
そこで分かりやすく眉を顰めた。
「オレでは不足だと?」
「……そう言う意味じゃなくてね。それは、護衛の仕事なのかな……と」
ああ、なるほど。
護衛の範疇を越えることを気にしているらしい。
でも、そんなのは今更だ。
護衛を寝具にする女が何を言う?
「護衛の仕事だよ。ある程度の耐性も付くし、ちょっとした男除けにもなるからな」
「男除け?」
近付く男は少ない方が、危険も少ない。
「この『ゆめの郷』に来てよく分かった。お前は女だから、少し、護り方を変えないと、危険だと」
「ほ?」
これはオレの自覚が甘かったこともある。
そして、同時にオレ自身が油断していたと言うことも。
「お前を異性として見る人間がいることが分かったからな。正直、そんなのあの『元青羽の神官』ぐらいだと思っていた」
本当はとっくに気付いていた。
それでも、気付かないふりをしていたのだ。
栞を、「魅力的な女性」だと認めてしまえば、自分自身の気持ちを誤魔化すことが難しくなるから。
「わたしを異性として見る人間?」
「来島が一番分かりやすいな」
彼女の目にも分かりやすいのは来島だ。
あれだけ愛情表現を前面に押し出されていて、気付かないはずはない。
尤も、トルクスタン王子だって、栞に求婚はしているし、兄貴だって以前よりずっと彼女のことを女性扱いしているのだが。
「おお」
「おおって……」
だが、いくら何でも、その反応はあんまりではないだろうか?
「九十九の方が先にわたしを異性扱いした気が……」
と、栞がそう言いかけて止める。
その先を続けて良いか迷ったらしい。
だが……。
「だから、気付いたんだよ」
尤も、あの「発情期」がなければ、来島から掻っ攫われた時に自分の気持ちに気付くところだっただろう。
それに……。
「数年前に、クレスノダール王子殿下からも言われていたんだ。ちゃんと栞のことを異性として見て、守れと」
本来なら、その時に気付いてもおかしくなかったのに……、オレはあの時も気付かないふりをしていた。
「ふ、楓夜兄ちゃんから?」
「オレに自覚がなかったから、その……」
護るべき相手なのに、深く傷つけてしまった。
だが、厄介なのは、そのことを後悔している反面、そのことでいろいろ救われた気持ちになってしまっている自分がいることだった。
これまで、気付くこともなかった彼女への想いを自覚したことで、オレの世界が大きく変化した。
それだけではない。
何より、タチが悪いのは、あの「発情期」での感覚や感情の全てを、「甘い思い出」として、記憶に残してしまっていることだ。
あの時の栞は、本当に愛らしくて今まで見たこともない表情や反応、聞いたこともない声を返してくれた。
それが熱に浮かされたものであっても、その記憶を抹消することができない。
そして、そのことがオレの中にある「罪悪感」という存在を、さらに、暗く重たいモノとする。
だが、オレの最愛の主人は、とんでもないことを口にする。
「分かった。わたしは九十九に慣らされることにする」
「は?」
オレの暗い思考が停止して、彼女の言葉の真意を掴みかねる。
「九十九がわたしを異性として見ていなかったのと同じで、わたしも女性の意識が足りなかった。そう言うことだよね?」
「そう言うこと……なのか……?」
確かに栞の女性としての意識は足りない。
いや、完全に欠如している。
口が悪いわけでもなく、行儀が悪いわけでもない。
表情とか仕草とかそう言ったものは、完全に女性のものだろう。
だが、「女性としての危機意識」。
これは今も尚、存在していない。
だって、そうだろう?
密室。
男と二人きり。
それで、この距離。
どう考えても、オレの胆力を試そうとしている小悪魔にしか見えねえ!!
「だから、九十九」
もう、嫌な予感しかなかった。
オレは覚悟を決めて、次の言葉を待つ。
「わたしのこともっといっぱい触って!」
拳を握って懸命に訴えかけるその姿は悪くないが、その吐き出された言葉に、オレが意識を飛ばしかけたのは言うまでもなかった。
だが、その前に栞に言っておくべきことがある。
「このドあほおおおおおおおおっ!!」
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