少年の意識
背中越しに忍ぶように笑う声を聞いて、オレは心底ホッとしていた。
魔界に行くと決めたあの日から彼女はずっと張り詰めていて、どこか泣き出しそうな雰囲気だったんだ。
それでも周りを気遣って、なんでもないことのように感情をぐっと抑え、努めて笑う。
その姿は痛々しく見えて仕方がなかった。
彼女の友人から誘われた泊りがけの温泉旅行に行く許しがあったのも、その気晴らしのためだった。
少しでも前に進む気持ちで魔界に行けたらとそう願って。
そうでなければ、日常から遠く離れた旅路への許可など降りるはずもない。
人の少ない山奥など狙ってくださいと言っているようなものだからだ。
行ったこと自体に間違いはなかったと思う。
彼女の悪友……いや、友人も魔界人であることが分かった。
魔界は広いため、再び会えるかは分からないが、それでも他の人間に再会するよりは確率が遥かに高い。
だが、個人的にどうしても見逃せないことがあった。
あの旅行にて、彼女たちが温泉で襲撃されたとか、オレが彼女に対してうっかりやらかしちまったとかそんなものはどうでも良くなるようなこと。
あの日、オレにしては珍しく寝過ごした日に……、彼女の全身からから少しだけ、火属性の魔気を感じたんだ。
ここ最近、彼女はオレと行動を共にしていることが多かったためか、ずっと微量の風属性の魔気を身に纏っていた。
その気配を完全に除去した上で、その火属性の魔気は存在していた。
自然にそうなることは考えられない。
人間であっても、体内魔気は存在する。
そして、同時に属性の強さも。
彼女の友人である若宮恵奈は地属性。
オレと同じ中学出身の深谷清哉は水属性が強い。
唯一、初対面だった来島の妹は光属性だと思う。
兄妹で違うことは、魔界人には珍しいが、人間としてはよくある話だ。
そうなると該当するのは一人しかいない。
彼女と友人関係にあるのは知っていたし、あの男が男女問わずスキンシップが多いことも知っていた。
それでも、薄っすらと彼女の全身を護るように覆っている膜のような魔気の状態を見過ごすわけにはいかなかった。
彼女自身はこれっぽっちも気付いちゃいなかったが。
結果として、その纏っていた魔気は、彼女自身の暴力的な魔力によって吹き飛ばされることになる。
しかし、それでも、一時的とはいえ、他者によって彼女の気配が染められていたのは、消しようがない事実だった。
彼女が、他人の魔気に染まりやすいのは仕方がない。
魔力が完全に封印されているため、本来、自身の護りとなる体内魔気が表に出ていないのだ。
身体の表面を護る表層魔気と呼ばれる防護膜が無いのだから、いくらでも染まってしまうことだろう。
もっとも封印されているとはいえ、その体内に魔力が本当にないわけではない。
身体の奥深く眠っているはずの深層魔気に関しては、他者が無理矢理魔力を通そうとしても簡単に揺らぐことはないはずだろう。
だが、本来、表層魔気も他者からそこまで影響を与えられることはない。
自分から発するものとは違って、移り香なんて微弱な存在はすぐに消えてしまうはずのものだから。
深い身体的接触だったり、密閉された空間で時間単位となるほど長く接触していたりすれば、特に意識しなくても魔気が移ることはあるが、単純に短時間での接触では、わずかとはいえ護りに近いほどの魔気が移ることはほとんどない。
但し、それは無意識での話。
他者への魔力干渉や感応は、意識すれば可能なことだ。
分かり易いのは対象に対して、魔法を使うこと。
これが一番、他者に影響を与えることができる魔力干渉である。
相手の方から激しく拒絶されない限りは、他人に対して魔法を施せる。
オレが使える魔法の中では、治癒魔法が代表的なものだろう。
相手の身体に備わっている治癒能力の促進というのはかなりの干渉だと思われる。
そして、それ以外の魔力への干渉というのは、普通はあまり考えられない手段。
やったことはないが、目的の相手に対して、意識的に自分の体内魔気を巡らせることができれば、可能かもしれない。
通常、所有物に施す印付と言われる行為だ。
だが本来は、自身の魔気に護られているため、他者による印付を受け付けることは絶対にないはずだった。
だが、ここに例外が存在する。
体内魔気が完全に封印されている状態であるため、他者の魔気を表面上、抵抗なく受け入れてしまう人間。
それを知った上で、見せつけるように頭から足の爪先まで、ねっとりと火属性の魔気で染め上げやがった。
単純な接触では絶対にあそこまではならない。
それも、当人に怪しまれないほどの短時間での行為なら尚更だ。
つまり……、アイツも間違いなく魔界人ってことだろう。
それも短時間で印付ができるほど魔気の扱いに長けている。
意識的に印付をするのは難しいことだ。
少なくともオレは、魔法を使わない限り、所有物に対して短時間で印付なんてできない。
オレが魔界人だと気付いた上での行動だったのかは分からない。
しかし、印付は魔界人にとって、所有権の主張である。
一般的な魔界人ならかなりの挑発行為と取るだろう。
先に風属性の魔気が張り付いていた以上、やっていることは既に印付された他の魔界人の所有物に手を出す行為ということだからな。
だが、オレが気に食わないのはそれだけじゃねえ。
アイツは……、彼女を「所有物」扱いしたのだ。
簡単に印付できるのを良いことに、意図的に満遍なく染め上げたというのはそういうことになる。
オレが一番腹を立てたのはそこだった。
彼女はオレのものじゃねえし、誰のモンでもねえんだよ!!
彼氏を挑発するためだけにやって良いことじゃねえだろうが!!
気付いた時にはそう叫びたかった。
油断があったとはいえ、自分の護衛対象に対して、それだけのことをされて、よくオレはあの時、耐えることができたと思う。
アイツの煽りに乗せられることもなく、その場の態度も変わらずにそのまま過ごすことができた、と。
勿論、本当は何の別の目的があってやったのかもしれないがそんな事情は知ったこっちゃない。
焼き餅からくるオレに対しての当て付けか、何の護りも持たない友人を憐れに思ったか、
それら以外の理由があったのか。
それを確かめる気はもうない。
正直、今の無防備な彼女をアイツに会わせたくねえ。
人間としては憎めないと思う。
ずけずけと言うところはあるが、素直で人当たりも良い。
他人に対して気を使えないというのでもない。
そして、妹をすごく大事に思っていることを最近知った。
オレ自身は身内を大切にできるその部分はかなり評価したい。
だが、あの一件で一気にそれまでの評価がひっくり返った。
……というか、どう見たって、アイツは友人狙いだっただろ?
いや、その前提が違うのか。
友人の方を狙っているように見せかけて、実は彼女の気を引きたがっていた?
これが正しい気がする。
考えてみると、なんとも……回りくどい。
そして、気が長い話だ。
さらに言ってしまうと、多分、全く彼女には通じてねえ。
本気で気付かずにそのままスルーするタイプの人間だからな。
手段を間違えたというしかない。
オレでも気付くようなことに、全く気付いてないのがその証拠だろう。
……気の毒になってくるな。
今にして思えば、オレが寝過ごしたのも魔法を使われた可能性がある。
導眠魔法や誘眠魔法は寝ている時にかけられたら、効果は倍増するのだ。
同じ部屋にいたなら気付かれずに魔法を使うことは可能だっただろう。
この女のどこが良いんだ? とは言わない。
良い女だとは思わないけれど、悪い女ではないことも知っている。
少なくともオレや兄貴は彼女に対して、「護らなければ」と思う程度の価値を見出していた。
異性としては……、まあ、うん。なくはないと少し考えを改めている。
小柄だし、異性に対する警戒心も欠けているところはあるけれど、周囲に対する気遣いとか、感情の制御の仕方とかを見る限り、見た目ほど幼くはないと思う。
今は厚着だから分かりにくいけど、その下に女性らしい柔らかく温かいものが隠されていることも知っている。
少なくとも行きずりの夢魔なんかよりはよっぽど……。
「お、重い?」
彼女の慌てたような声が背中から聞こえてきた。
オレが一身上の都合により、体勢を変えたからだろう。
「いや、大丈夫だ」
寧ろ、あまり突っ込んでくれるな。
「飛んでいるのに、抱えている物の重さを感じるって不思議だね」
「地球の重力の影響はあるからな。鳥や飛行機だってその重さを無視して飛ぶわけじゃないだろ?」
魔法も揚力を作用させるだけで重力を無視しているわけではないんだ。
無重力状態にする魔法もあるかもしれないが、オレの契約している魔法の中には今の所、存在しない。
「ぶ、物理の世界?」
「オレの記憶違いでなければ、お前は物理法則のある世界で生きているはずだが?」
少なくとも魔界よりは分かりやすい世界だと思っている。
「生物、化学は好きだけど、物理だけは……」
そう言いながら、彼女はオレの背中で力を抜いて、無警戒に身体を預けてくる。
この女……、人をテーブルか何かと間違えてないか?
そう思ったが、今更、それを言っても彼女はキョトンとするだけだろう。
突っ込むだけで疲れる予感がする。
彼女に対して、恋愛感情は持たない。
多少、胸の内を擽られ、何かを刺激されることがあっても、それはちょっとしたご褒美のようなもんだとオレは思っていた。
捻じ曲げて、押し込めて、蓋をする。
その歪さを自覚した時はもう取り返しがつかないほど遅く、そのことでオレは死ぬほど激しく後悔することになるのだが、この時のオレは当然ながら、まだ何も知らなかったのだ。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




