それぞれの背景
「えっと、どうしたの?」
栞が心配そうな顔でオレの様子を窺う。
「別に」
本当のことなど言えるはずもない。
自分のことを信頼して、眠っている人間に手を出そうなど、よく考えなくても恥ずべき行為だった。
その上、吹っ飛ばされるとか。
それだけ、オレがしようとしたことは、彼女にとって嫌な行動だったということが分かる気がした。
それに、ずっと気になっていた、あの崩れ落ちるような眠り方。
単純に、眠っているだけではないということも理解した。
「分身体」が出てきやすいのは、栞の意識がない時らしい。
つまり、眠っているように見えていたあの状態は、意識を失うような昏倒に近いものだったということだった。
「えっと、ごめんね?」
「何の謝罪だよ?」
謝るのはオレの方だろ?
「えっと、寝ちゃったから?」
「お前が寝るのはいつも通りだから、今更だけど……」
オレは大きく息を吐いた。
「それでも、お前はもう少し、自分の性別とオレの性別を客観的に見た方が良いと思う」
今回の話は結局、そこに行きつくのだ。
「ほ?」
だが、伝わらないことは分かっていたから、オレは紙と筆記具を栞に差し出す。
客観的に見ることができないなら、自分の絵ならどうだろうか?
「オレがテーマを言うから、それに合わせた絵は描けるか?」
「難しくなければ?」
そう言いながら、栞は嬉しそうに受け取る。
どれだけ、絵を描くことが好きなんだ?
他人から勝手に描くテーマを決められるのって、嫌なことじゃないのか?
「どんな『お題』?」
「お題」……?
ああ、テーマのことか。
そう言われて、少し考える。
先ほどの状態を客観視させたいが、それでも、全く同じ状況というのは恐らく、オレの方が抵抗ある。
何より、「女の胸に引き寄せられる男」ってどうやって説明すればよい?
一歩間違えなくてもセクハラ発言でしかない。
「……男が女にひっついて泣く……図?」
何か違う気がするが、オレにはこれが限界だった。
「ふむふむ」
栞は少し視線を上の方に向け……。
「ひっつく部分の指定は?」
よりにもよって、そんなことを確認した。
そこを指定させる気か?
「……胴体」
それでも、やはり露骨なことは言えない。
壮絶に自爆している感が強いが、オレの方がセクハラをされている気分になるのは何故だろう?
だが、口元に分かりやすく笑みを浮かべる栞を見ていると、そんなことはどうでも良くなってくる。
「楽しそうだな」
オレがそう言うと……。
「うん!」
何かを楽しみに待っている子供のような笑みが返ってきた。
そこまで喜ばれてしまうと、別の意図があったオレの方が戸惑ってしまう。
「お題があると、絵は描きやすいんだよ」
そんなものなのか?
オレは美術の課題が得意ではなかったので、その辺はよく分からない。
口元を緩ませながら、時々、表情を変えたり、空中で指だけをくるくると動かしたりしながら、栞は素早く手を動かしていく。
この状態はかなり好きだった。
何より、この栞の姿を知る人間はかなり少ない。
そのためか、今だけは、自分だけのモノになったような、そんな錯覚を覚えるのだろう。
そのことに気付いて、苦笑したくなる。
そんなこと、あり得るはずもないのに。
「これでどうだ!」
暫くの後、自信満々な顔で3枚の絵が差し出された。
やはり、1枚では自分が満足できなかったらしい。
「早くなったな」
そんなに時間が経っていない。
気のせいかもしれないが、腕の動きが大分、変わった気がする。
「絵については、慣れだね。でも、こんな鉛筆画のようなラフじゃなくてしっかり描こうとすれば、どうしても時間はかかるよ」
普通は、ここまで描き込んだら下描きのような絵でも、もっと時間はかかると思う。
まず、栞がオレに渡した絵の一枚目を見た。
『女が首に縋りつきながら上を向いて泣き叫び、男は逆に下を向いて涙を落としている』
こいつらに何があったのだろう?
いや、あんな漠然としたテーマで何かを想像できそうなドラマ性を持たせていることに驚きなんだが。
二枚目。
『男が女に両腕に抱き締められてうっとり目を閉じながら、幸せそうに涙を流している』
だから、こいつらに何があったのか?
女の表情は穏やかで、その両腕で宝物を包み込むようにしっかり男の頭を抱き締めている。
これは……、近いな。
だが、なんとなく、この男に腹が立つ気がするのは何故だろう?
描かれている人間が、どこか、あの赤い髪の男に雰囲気が似ている気がしたからだろう。
そして、最後。
『男が女の肩に顔を置いて、背中を抱え込むように泣いている』
やはり、何か背景を考えてしまう。
さらに、気のせいかもしれないが、この男、オレに似てないか? 黒髪だし。
どうせなら、登場人物を2枚目の絵の方にしていただきたい。
しかも、相手の女の背中をかなり強い力で握り締めているようで、服の皺の描き込みは、素人目に見ても凄いと思う。
だが、こんなみっともない状態ってどうなのだ?
「この絵が近いか」
「何が?」
そう言って、2枚目の絵を差し出した。
「自分のその絵を客観的に見てどう思う?」
「客観的に見て?」
「仲良しさん?」
その言葉に少し、苛立ったのは気のせいじゃない。
オレは、絵にまで焼餅を焼くような男だったようだ。
これは、新発見だな。
嬉しくねえけど。
「お前が眠りに落ちる前、オレにやっていた図が、周囲から見ればそんな感じだろうよ」
「へ?」
栞はきょとんとした顔を見せて、少し、考え……。
「そっか……」
その絵を見ながら、何かを思い出すように何故か嬉しそうに笑った。
「いや、そこは笑うところじゃねえからな? 知らないやつが見れば絶対、誤解する」
それは栞にとってマイナスにしかならない。
オレにとってはプラスだが。
「他の人に見せる気はないよ」
それは、それで問題だと何故気付かない?
「あなたが、人前で誰かに甘えたくなるような人じゃないことは知っているから」
絶句するところだった。
落ち着け、落ち着け。
この女にあるのは、主人として考えるオレへの心遣いであって、それ以上の感情はない。
「あのな~。オレは良いが、お前が困ることになるとは思わんのか?」
少し、本音がはみ出た。
「なんで?」
「人前でしないって……」
その言葉の意味が分かっているのか?
「密室でこんだけ密着して、オレが誤解したらどうするんだよ?」
「誤解?」
そして、そこで疑問を抱くとか。
この女の危機意識はどうなっているんだ?
「その、うっかりその気になったり……とか」
一体、オレは何を説明させられているのだろう?
いや、これは自白か?
「その気? つまり、えっちな気分になるって話?」
「……オレも男だからな」
幸い、意味は通じたらしい。
これ以上、深く説明しろと言われたら、言葉を選べる自信はなかった。
栞は黙って、自分が描いた絵と、オレを交互に見る。
そこでいろいろ考えたのだろう。
「分かった。九十九が困るなら、もうしない」
そう言って、少しだけ淋し気に微笑んだ。
そうなんだ。
本当に困るんだ。
自分が持っていた栞への想いを自覚した以上、彼女の方から積極的に接触を計られるのは洒落にならない。
全ての行為を役得だと割り切ることができるほど、オレの方に余裕があれば良かったのだろう。
だけど、経験が少ないオレには、そこに、どうしても「我慢」の二文字が生じてしまうのだ。
「でも、九十九の元気が出たなら、わたしは、主人としての役目を果たせたのでしょう?」
だけど、そんなオレの気持ちを知らない彼女は、平気でそんなことを口にする。
「こんなことをしなくても、お前は、いつも主人の役目を果たしてくれてるよ」
「へ?」
「そう思っていなければ、オレがわざわざ誓うことなんかしない」
だから、これ以上は頑張らなくて良い。
オレが護りたいのは、栞の心も身体も含めたその全てなんだ。
目の前で傷つくことも許せないし、知らないところで傷つくのはもっと許しがたい。
だが、何よりオレ自身が彼女を傷つけたくはなかった。
「そっか。それは、嬉しいな」
オレの言葉で本当に嬉しそうに笑ってくれる。
この笑顔を護るためなら、なんでもしてやろう。
それが、過去の思い出を、自分の手で断ち切るようなことでも。
オレが自分の意思で、唯一の主人として選んだのは、弱いのに涙を隠して笑うような強い女だ。
その運命に振り回されていても、自分だけの足で立って前を向き、強い瞳を向ける気高い王族。
決して、母親の後ろに隠れて涙を零すことしかできないただの幼馴染じゃない。
だから、それ以外の「不要な存在」を切り捨てることに、何一つとして、迷いはなくなったのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




