もう少し気にかけていたら?
「ここは……?」
移動魔法を使った直後、栞はオレの腕からするりと抜け出し、周囲を確認する。
「昨日、泊まった宿だな」
そう言いながら、オレは部屋の明かりを付ける。
「これって不法侵入になるのでは?」
「朝のうちに連泊の手続きはしていた。だから、問題ねえ」
栞はあの宿に戻りたくないと言っていた。
だから、念のために連泊の手続きをしておいたのだ。
勿論、連泊したからと言って、昨日のような甘い時間が何度もあるとは思えないが、それでも、何かを期待しなかったと言えば嘘になるだろう。
「せめて、入り口から入ろうよ」
栞は入り口を使わなかったことで落ち着かないようだ。
基本的に、彼女は人間界では「常識人」と呼ばれる部類に入るのだろう。
「悪い。ちょっと急いでいたからな。それでも、この手の宿泊場所は正当な手続きをしていない人間は入れないようになっている。だから、大丈夫だ」
連泊の手続きをしているため、鍵は持っていた。
だが、せめて、宿の入り口に移動するべきだったと今は反省はしている。
どれだけ、オレに余裕がないのだろうか。
「でも、なんで判断するの? 魔気?」
「いや、普通に部屋の鍵を持っているが?」
この「ゆめの郷」は鍵を持ち歩くことが少ない。
だが、基本的にはどの国にも宿泊施設に鍵はある。
他の宿泊施設に泊まったことがあるはずの栞は、何故かそのことを忘れていたようだった。
「ここは『ゆめの郷』だからな。鍵での宿泊客管理だと、行った先で紛失の可能性もあるんだよ」
酒場に行って落とすこともあるが、まあ、宿泊先以外のところで行為を楽しみたい人間もいるわけで……。
出先でなくすこともあるから、鍵を持っている時は、外ではするなとトルクスタン王子は言っていた。
初心者に何の指南だ?
「皆、うっかりになるの?」
「そう言うことにしておけ」
聞かれてもそう答えることしかできない。
オレの答えに納得がいかないような顔をしつつも、栞はそれ以上の追及を避けた。
いや、避けたのは「藪蛇」か。
どこかずれた質問ではあるが、知識はともかく経験の少なさでは、オレもそこまで大差はないのだ。
だから、回りくどい言葉ではなく、どうしても、直接的な答えになってしまう。
「ところで、九十九はこんな所で泣きたいの?」
「男が、外で簡単に泣けると思うか?」
「男女関係なく、感情次第では?」
栞はそう言うが、少なくともオレにはできん。
結界の有無に関係なく、誰が見ているか分からないところで、感情を剥き出しにするなど、大きな隙は作れない。
「それに、オレは泣きたいんじゃねえ」
「……というと?」
栞は、いつものように不思議そうな顔を向ける。
「まずは座れ」
そう言うだけで、栞はすぐ近くの長椅子に座る。
何も疑わない眼差しに、少し、胸がざわついた。
何だろう?
この何も知らない子供に悪戯するような心境は……。
彼女の良心を利用する行為だからか?
だが、許されるなら、遠慮をする気などない。
オレは、もともと余裕がない人間なのだ。
「少し、胸貸せ」
「む……?」
オレの言葉を問い返したのかよく分からない反応。
だが、拒否されなかったのを良いことに、そのまま栞の胸元にもたれかかった。
勢い余って、そのまま、長椅子に倒れ込む。
「ふぃっ!?」
これまでに聞いたこともない声が、彼女の口から飛び出したので……。
「どんな悲鳴だよ」
そう言いながら苦笑する。
「こ、こ、この状態は!?」
流石に驚いたのか、動揺を隠しきれていない。
「肩でも、どこでも貸してくれるんだろ?」
オレはいけしゃあしゃあと言い切った。
嫌なら、拒否すれば良い話だ。
別に強制する気はない。
あわよくば……、というだけだ。
「な、泣くの!?」
それでも、素直な主人は、オレのそんな黒い感情に全く気付かない。
「泣くんじゃなくて、オレは今、落ち着きたいんだよ。張り付くだけだ。特に何かしたいわけじゃねえ」
いや、本音を言えばいろいろしたい。
だが、自分はその立場にないことは理解している。
そうなれば、許される範囲でいろいろするしかないだろう。
……と言うか、この状態を許してくれるとは、正直思っていなかった。
だって、胸だぞ?
顔に当たってるんだぞ?
どれだけ、気にしない女なんだ?
あれだけの目に遭っても懲りてないのか?
それとも、それだけ気を許されているのか?
だが、どれも違う気がする。
本当に何も気にしないような女なら、ここまで、身体を強張らせてもいないだろう。
やはり、緊張して、いや、まだオレが怖いのだ。
どんなに平気そうに振舞っても、一度、根付いた恐怖心が簡単に薄れるはずもない。
それでも、自分の怖さを隠して、オレのことを心配してくれる。
それに……。
「悪いな」
そんな言葉が零れ落ちる。
「な、何が?」
「お前の身体を借りて……」
だけど、この役目は彼女であって欲しかった。
事情を何も知らない他の女では癒せない。
「でも、助かった。思ったより、ダメージ、でけぇ……」
それも、事実だったのだ。
深織の豹変は本当に見ていて辛かった。
オレに関わったばかりに、深織があそこまで堕ちてしまったと思うと、居たたまれない気持ちになる。
深織が「入学式」と口にしたが、申し訳ないことに、オレはその日を特に意識していなかった。
だけど、決して短くはない期間、深織から想われていた結果が、こんな歪んだ形になってまったことは間違いないのだ。
もし、人間界にいた時に、オレがもう少し深織のことを気にかけていたら……?
少しだけでも、何か、結果が違ったかもしれないと思う。
少なくとも、この「ゆめの郷」で、罪を重ねてしまうことだけは避けられたのではなかったのではないか?
そんな悔恨がずっと頭を回っていたのだ。
だから、オレは栞が警戒して、緊張していると分かっていても、そんな彼女に縋りついて、甘えたくなった。
それほど、オレ自身が弱っていたのだ。
どれだけ情けないのだろう?
こうならないために、いろいろ手を尽くしてきたはずなのに、根本的なところで、どうしても、「幼馴染」に甘えたくなる。
そんなオレの言葉をどう受け止めたのか分からない。
ただ……。
「うおっ!?」
何故か、後頭部を掴まれ、胸に押し付けられた。
違った。
頭を撫でられているのだ。
いや、これは気付いてないのか?
わざとか?
わざとなのか!?
そう思ったが、何も言わない。
頭を撫でられる心地よさと、頬に当たる柔らかさに、夢見心地となる。
だけど、同時に、いろいろと不味いことになったので、少しだけ、身体を動かして体勢を変えた。
……男って辛い。
「どうしたの?」
「……気にするな」
頼むから、聞くな。
いろいろと答えにくい。
でも、察せられても、かなり気まずい。
いや、でも、これって仕方なくねえ!?
好きな女から抱き締められて、その上、顔に胸が当たっていると言うのに、全く反応しない男っているのか?
少なくとも、オレはいろいろ大変なことになっている。
幸い、栞はそれ以上、追求してこなかったけれど、この状態がバレたらどうしようかと気が気でなかった。
だが、気付くと栞は、オレを撫でる手を止め、寝ていた。
頭上から規則的に可愛らしい呼吸音が聞こえてくる。
だが、これは本当にどうなのか?
彼女は本当にオレの性別を忘れているのではないだろうか?
ここは、素直に「据え膳」と思って、手を出すべきか?
しかし、それは護衛として、いかがなものだろうか?
主人の安眠を護るのも務めだと思う。
男としては、断腸の思いではあるのだが……。
でも、少し、触るぐらいなら……?
既に顔は当たっているわけだし、何かの弾みでうっかり手が触れてしまっても、気付かれないのではないだろうか?
そんな邪なことを一瞬でも、考えてしまった時、オレの身体は宙を舞い、超至近距離から発射された空気の大砲によって、天井に叩きつけられるという稀有な体験をすることになったのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




