今一番傷ついているのは
その凶刃が向けられた先が、自分だったら、なんとかなっただろう。
わたしには「魔気の護り」があるし、九十九が傍にいて、その刃が自分の身体に届くとは思わない。
そして、対象が九十九だったとしても、彼自身がなんとかしただろう。
だが、ミオリさんが害意を持って、尖ったナイフを向けた先は、何故か、彼女自身の喉元だった。
彼女は、自分で自分の首を掻っ切ったのだ。
「いや……」
思わず、目の前で起きたことが信じられなくて、思わず声が漏れた。
「見るな!」
九十九はそう言って、その手でわたしの目を隠してくれたけど、その刹那に一度、目に映ってしまった周囲に飛び散った鮮血や、地面に流れ落ちる血までは隠しきれるものではなかった。
何よりも、直前に見た彼女の顔が、わたしに向けられた瞳が、この目に焼き付いて、離れない。
「どうして?」
九十九に受け入れられなかったから?
そんなことで、自分を傷つける方法を選んでしまうの?
わたしには分からない。
魔界人は体内魔気に護られているため、その肉体は普通の人間より遥かに頑丈だと聞いている。
だけど、それは絶対に傷つかないというわけではないのだ。
高い所から落ちれば絶命するし、同じように体内魔気で護られている手で、自傷行為を行えば、肉体だって損傷する。
「ちょっと、それ、被ってろ」
そう言って、九十九は何か大きなもの被せて、わたしから離れた。
わたしの視界を覆い隠したと言うことは、この状況を見るなと彼は言っているのだろう。
でも、このまま護られたままで、いろと?
この事態を引き起こした一因にわたしがないと言いきれる?
それなのに、目を逸らしても良いの?
多分、今、一番傷ついているのは、九十九なのに?
それを主人であるわたしが受け止めなくても良いの?
それでも、わたしはこの場から動けずにいた。
本当なら、何か行動を起こさなければいけないはずなのに、手や身体が震えて、何もできない!
九十九が何かを深織さんに言っているっぽいけど、よく聞こえない。
先ほどまで風の音が、耳の中に残っている気がした。
だけど、九十九は治癒魔法を使える。
恐らくは、彼女を助けるだろう。
そして、それから彼はどうするのだろうか?
ここまで、自分への想いを貫こうとする彼女に対して、何の感慨もないとは思えないのだけど。
「栞……」
すぐ傍で、声がした。
目の前には九十九の気配。
「悪い、オレ……、無理だ……」
「無理?」
「深織に、治癒魔法……、使えねえ」
「え!?」
その弱々しい言葉は、九十九らしくなくて、わたしは思わず、大きな布を剥ぎ取って、彼を見る。
目の前にいる九十九の表情は悲痛と苦悶に満ちていて、まるで、あの時の彼のように痛ましく思えた。
あの時は救えなかった。
彼が苦しんでいることが分かったのに、わたしは自分を護ってしまった。
それなら、今度は……?
いや、迷っている暇はない。
ミオリさんに対して治癒魔法が使えないことをわたしに告げた意味。
彼は見捨てたいわけじゃないのだ。
『大いなる癒しの風!』
長ったらしい詠唱をしている心の余裕はなかった。
特に深く考えずに……、最大出力で自身の魔力を放出することしか考えなかった。
わたしの治癒魔法で、どれだけの効果が出るかなんて分からないけれど、瀕死の人間を前に、何もしないことなんてできない!
その結果……。
「「あ゛……」」
九十九とわたしの声が重なる。
わたしの起こした大きな竜巻に巻き上げられて、ミオリさんの身体は吹っ飛んだ。
「お前、出血中の人間になんて仕打ちを……」
「あ、あの魔法で死人はまだ出していないはずだから」
確かに攻撃的な魔法に見えるが、ああ見えても治癒魔法だ。
吹っ飛ばしながらも、ある程度、癒してくれる、はず?
「第一号を作る気かよ」
そう言って、九十九は、宙を舞っているミオリさんに向かった。
そのことが、少しだけ淋しい気持ちになったのは、何故だろう?
****
その深織の行動はオレにとって、完全に予想外だった。
いや、普通は予測すらしないだろう。
手に刃を握って、こちらに向かってくるわけでもなく、投げつけるわけでもなかった。
彼女は、自分の首元を掻っ切ったのだ。
「いや……」
目の前の光景を信じられなかったが、栞の声で、正気に返る。
「見るな!」
反射的に、栞の両目を手で覆い隠した。
身体が震える。
傷ついた人間を見たことはある。
自分が傷つけた人間もいる。
だが、自分で自分の身体を傷つける人間を、オレは初めて見たのだ。
「どうして……?」
オレの腕の中で、再度、か細い声がした。
落ち着け。
今、オレがすべきことはなんだ?
茫然自失になることか?
そんなわけねえ!!
まず、すべきことは……。
「ちょっと、それ、被ってろ」
この状態を、栞に見せないことだと判断して、召喚した外套を被せた。
昔から、鮮血なんて見慣れている。
尤も、見てきたのは、ほとんどが自分の血だったが……。
だが、崖から落ちて、かち割れた女の頭や、すっ飛ばした男の首だって見たことがあるオレと違って、栞がそういったモノを見たことがあるとは思えなかった。
そして、栞から離れて深織へ足を向ける。
「つ……、く……も……」
途切れがちに聞こえる声。
魔界人の強靭な肉体も、同じ強靭な肉体によって傷つければ、それなりの損傷になる。
自分の首を押さえたまま、その両手を赤く染めた女は口元に笑みを浮かべてはいたが、どこか虚ろな瞳でオレを見た。
だが、それを見ても何の感情も湧かない。
目の前で、自分の首を切るその姿はそれなりに衝撃的だったが、それだけだ。
それ以上の気持ちはなかった。
寧ろ、近付けば近付くほど、嫌悪感と忌避感が鼻に衝くだけだった。
―――― こんな女にオレも栞もこれまで振り回されたのか
そんな思考だけが頭を巡る。
こんな気持ちになるなら……。
「深織」
「つ……」
「オレは、救いようのない女を助けてやる気はねえ」
会いたいとは思わなかった。
再会しなければ、互いに何も知らないまま、綺麗な思い出だけを胸に残せたままでいられたのに。
「――――っ!?」
光のない深織の瞳が少しだけ見開かれた気がした。
いや、それは気のせいか。
確かに見た目は派手だったが、近くに行けば、頸動脈など大きな血管を避けながら、切ったことは分かる。
振り払うように薙いだ分だけ、刃についていた血が少し派手に飛び散り、血しぶきに見えたのだろう。
周囲の血は広がってきているが、それは止血をしていないためだ。
首を手で押さえているが、圧迫が足りていないのか、押さえ方が悪いのか、完全に止まってはいなかった。
だが、止血をしない以上、それなりに裂けた傷口の流血が簡単に止まるものではない。
だから、魔界人でも出血多量で死ぬ可能性はある。
治癒魔法を使えば、傷口は塞がり、これ以上の出血はなくなるだろう。
失った血に関しても、生きて、栄養を摂れば、体内で新たに作り出される。
だが、オレは、彼女に治癒魔法を使う気はなかった。
いや、「こんな女」に対して、今のオレは、治癒魔法が上手くできるとは思えなかった。
治癒魔法は使い手によって、その性能を大きく変える。
オレの治癒魔法は、生きる意思が強い人間に活力を与えるタイプだ。
どんなに大きな傷を負っても生きることを諦めない人間にこそ、自己治癒能力は大きく促進される。
だが、逆に自分の肉体を損傷させるような壊れた精神の人間にまで、その力が有効かを試したことはない。
試しても良いが、それで失敗したら、目も当てられない。
他人だから、どうなっても良いと切り捨てることができるほど、オレは非情にはなり切れなかった。
だが、この場には、もう一人。
治癒魔法の使い手がいる。
オレの治癒魔法が世界で一番、効果を発揮する人間が。
「栞……」
すぐ傍でオレの外套に包まれている女に声をかける。
「悪い、オレ、無理だ……」
「無理?」
「深織に、治癒魔法……、使えねえ」
思ったよりもずっと情けない声が出てしまった。
「え!?」
余程驚いたのか。
栞は、大きな布を剥ぎ取って、オレを見た。
オレは今、どんな顔をしていたのだろう?
一瞬だけ、栞は痛ましそうな顔をオレに向けたが、すぐに気付いて、行動に移る。
『大いなる癒しの風!』
彼女は、契約詠唱を破棄して、最短で言葉を紡ぐ。
だが、その結果……。
「「あ゛……」」
オレと栞の声が重なることになる。
栞の起こした巨大な竜巻に巻き上げられて、深織の身体が天高く舞い上がった。
いや、確かに助けて欲しいとは思ったが、これは傷を負った深織にとって、とどめとなるのではないだろうか?
「お前、重傷者になんて仕打ちを……」
「あ、あの魔法で死人はまだ出していないはずだから」
「第一号を作る気かよ」
あの高さから叩きつけられては、どんなに強靭な身体を持った男でも、その衝撃で死ねる気がした。
仕方なく、オレは、小さな黒い粒にしか見えないものに向かって行く。
だが、ここの結界、本当に頑丈だな。
そんなどうでもいいことを考えながら。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




