最後の確認
「え……と、後は、言葉……ですかね」
魔界について聞きたいことはまだまだある。
でも、これも大事。
意思疎通できないとすっごく困るのだ。
いくらなんでも日本語ってわけはないだろう。
九十九たちは日本語が上手だけど、それは勉強したんだろうし。
「死ぬ気で覚え……」
九十九が何かを言いかけた時、彼の頭から、奇妙な音が響いた。
「普段の日常会話に支障はないはずだけど、読み書きについては申し訳ないけど、勉強してもらうしかないかな」
あ、あの……雄也先輩。
今、九十九の頭を笑顔で殴りませんでしたか?
「言葉は何故か通じるから、私も困らなかったわ。文字に関しては周りに習って、なんとか恥ずかしくない程度には覚えられたかしら?」
「言葉は通じるのか。皆、日本語ってこと? でも、読んだり書いたりは勉強の必要があるってことは……」
「日本語と違って多岐にわたるわけじゃないから、そんなに苦労はないと思うよ」
「それにシルヴァーレンの文字自体はほとんどアルファベットそのものだから問題ないんじゃね? 他の大陸についてはオレも分からんが」
シルヴァーレン?
わたしが向かう国の名前はお花と同じ名前の「セントポーリア」だったはずだ。
……九十九が他の大陸と言ったのだから、大陸名かな?
「アルファベット……、英語も中途半端なのに、これから新たな言語を叩き込むの? ちょっと無理かも……」
ううっ。
受験勉強からようやく解放されたと思ったのに~。
「あら、私も15から覚えたんだけど?」
「ぐっ!」
前例がいるとなると、初めから白旗は振れない。
ましてや、それが身内だと言うのなら遺伝を理由に逃げることも不可能だ。
アルファベットそのものだという九十九の言葉を信じて頑張るしかない。
しかし……何故にアルファベット?
なんかイメージ違うよね?
ファンタジーならルーン文字みたいな記号に似たものが基本かと思っていたのに。
「本を読んでいれば自然と覚えられるわよ。魔界の書物は日本と違う部分が多いから、興味を惹かれるはずよ」
いつもどおり、母は呑気なことを言ってくれる。
英語の絵本だって英和辞典なしでは読めない娘だと分かっていないのですか?
「文字の他に不安なことはないかい?」
雄也先輩が優しげな微笑みで次の質問を促してくれる。
言葉についてもよく分かった。
それなら、一番気にかかっていることを聞いてみよう。
「魔法……、使えないと生活できませんか?」
これまでの質問とは違うが、ある意味、コレは重要なことなのだ。
今のわたしは魔法を一切使うことが出来ない。
でも、魔界で日常的に魔法を使う必要があるのなら、わたしはどうしたら良いのだろう?
生活そのものができないと困るよね。
「使う必要はないよ」
でも、わたしのそんな迷いを断ち切るかのように、あっさりと雄也先輩は口にした。
「魔界で魔法……。一般的には光熱水費が浮くぐらいじゃねえか? それ以外だと移動費用とかもか?」
九十九までそんなことを言う。
「自衛や特殊な事例を除けば、私もあまり使った覚えはないわね」
母も思い出すかのように口にした。
「じゃあ、魔法使いってなんなの?」
そんな根本的な疑問が浮かんでくる。
魔法は賢者たちの叡智による万物の結晶とか、できないやつは落伍者とかそんな分かりやすい方向性のものはないの?
「魔法が使えても、必ずしも使う必要はないってことだな。魔力のでかさは一種の自慢になるかもしれないが、普通に城下で暮らしている人間たちはそこまで多用していなかった気がする」
「城内でも無闇に使うことはなかったわね。兵とかは鍛錬のために魔法の訓練は欠かしてなかった気がするけど……」
「争いが絶えなかった時代は攻防のために必要だったみたいだけどね。使いたくなければ強制的に使ってくれとは言わない。ただ……、魔界人はいざと言うときに自己防衛は出来るように最低限の魔法を身につけて、時折、勘を鈍らせないようにはしているんだよ」
なるほど……。
昔ならともかく、今は使えなくても生きていける世界なのか。
それを聞いて少しだけ安心する。
でも、続く九十九の言葉に、それは甘い考えだと思い出す。
「普通の魔界人ならそれでいいかも知れんが……、お前は狙われている。だから、魔法が使えないままってわけにはいかんだろ」
背筋がぞっとした。
自分が魔界に行く理由。
それは、この人間界での被害を減らすためだけのつもりでいたのだけれど……、それだけじゃないんだ。
「それに、栞は王家の血を引いている。困ったことにかなり濃いものを。封印されているとはいえ、魔力が暴走する危険性はゼロとは言えない。私は体感したことないけど、王族のそれは周りに大きな被害を与えるものだと聞くわ」
母がそう口にすると……。
「魔力の暴走……。これは一般的な魔界人でも起こりうることですからね。だからこそ、皆、自衛手段を身につける必要があるのですが……」
さらに雄也先輩が補足してくれた。
「魔力の……暴走……」
その言葉だけであまり良い印象はない。
ゲームキャラとかでも、「暴走」という文字が修飾語として付くと、正常じゃない扱いをされる。
「簡単に言うと、理性が吹っ飛ぶとか、魔法が勝手に暴発するとか制御不能に不能な状態になることだな」
「つい最近、栞ちゃんは暴走しかかった人間を見ただろう? あれが一般的な暴走状態と考えて問題ないよ」
雄也先輩の言葉で、松橋くんのことを思い出す。
もともと精神的に弱っていた彼は、わたしの言葉で追い詰められ、動揺して、わたしの目から見ても分かるぐらいの変化をした。
そう言えば、彼や夢魔はどうなったのだろうか?
彼らとは、春休みに入ったからもう会うことはない。
同じ高校に受かっていても、わたしはもういなくなってしまうから、その確認もできない。
近い内に魔界に戻ると言っていた彼が、わたしとの約束をしっかりと守ってくれることを信じるしかないのだろう。
「え? そうなのか?」
その場にいなかった九十九は驚きの声を上げる。
そう言えば、あの時、いなかったね。
わたしの近くにいたのはいつもと違って九十九ではなく、兄の雄也先輩だった。
「あの紅い髪の男か?」
「あの人がわたしごときの言葉であんな状態になるとは思えないな。別の魔界人と会話する機会がありまして……」
あの紅い髪の人は落ち着き……というか、妙な余裕を持っている。
いろいろと分かった上で、常にわたしより上位にいるような印象。
あんな次元が違うような人の心をそう簡単に乱せるとは思えない。
「その件については、大した問題じゃない。それにもう、済んだことだ」
「それは、そうかもしれねえけど……」
どうやらご不満の様子。
でも、あの人は九十九を餌にしようという夢魔の関係者だったのだから、被害者である彼に伝わっていないとは思わなかった。
なんか意味があるのかな?
「それより、栞ちゃん。他に聞きたいことはない?」
そして、相変わらず弟を無視して話を続けようとする雄也先輩。
先ほどから、ちょっと九十九が気の毒に思えてくる。
同時に彼はよく心が折れないなあとある種の尊敬を覚えてしまう。
「ま、まだいろいろと分からないことがある気がしますけど、すぐには思いつかないので、魔界に行ってからお聞きしようと思います」
本当はまだまだいっぱい知りたいことがある。
でも、多分、それは向こうで覚えればいいことだ。
ふと時計を見ると、結構遅い時間になっていたことが分かった。
わたしの我が儘や好奇心で、これ以上皆を遅い時間まで付き合せるのも悪い気がする。
「そうか……。それでは、話はここまでと言うことで大丈夫かな」
「うおっ! もうこんな時間かよ。はえ~な」
「結構ゆっくり話し込んでいたのね」
片付けをしながら、母も時計を見る。
「じゃあ、栞ちゃん。明日の正午に魔界へ行くということで良いかな?」
「はい」
最後の確認に応える。
わたしは、覚悟は決めたんだ。
もう、今更、迷うはずがない。
「では、少しでも遣り残したことがあるならそれまでに済ませておいてね」
そう雄也先輩は笑ってくれたのだった。
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