バラバラになる未来
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
栞がかなりの犬嫌いだって話は、水尾さんから聞いていて、知っていることだ。
そして、その原因となったのは、恐らく、ガキの頃に犬に襲われたからだろうと思われていた。
だが、当人自身から直接聞いたわけでもない。
その犬に襲われた恐怖体験は、栞も覚えていないはずなのだから。
「悪い。言っている意味が分からない」
だから、オレとしては、そう言うしかなかった。
「そうだよな。当事者じゃない笹さんに言っても仕方がないとは思うのだけど。当人にはもっと言えないから」
「……どういう意味だ?」
いや、今の台詞で、なんとなく分かった。
この男は「ミラージュ」の人間だ。
どういった理由からかは分からないけれど、栞を狙う紅い髪の男がいる国の人間。
そして、栞の犬嫌いは、小学生の頃に人間界で犬に、いや、魔犬に襲われたことにあったらしい。
だが、普通に生活している人間にそんなことが起きるはずはないのだ。
まず、人間界に魔犬……、魔獣と呼ばれる生き物が現れること自体、稀だと聞いている。
誰かが意図的に持ち込まない限り。
そして、その時、その場所には、ジギタリスの第二王子であるクレスノダール王子殿下と、後の大神官であるベオグラーズ様がいたと聞いていた。
だから、栞は、どちらかというと巻き込まれた側だと思っていたのだが、その前提がそもそも違っていて、始めから、彼女が狙われていたとしたら?
誰かが人間界に魔獣を持ち込み、栞を、オレたち兄弟が知らない場所で狙わせたとしたら、それは誰が、何のために? という話になる。
全ては過去に起きたことだ。
だから、仮に人間界へ戻ったとしても、調べることは難しいと兄貴は言っていた。
その事件が起きてから、時間が経ちすぎているため、その痕跡も残っていないだろう、とも。
だが、それを知る者が、目の前にいたら、オレはどうするべきか?
「笹さんは知らないかもしれないけど、栞は魔獣に襲われたことがある」
「それは、いつだ? 少なくとも、オレが知る限り、人間界で栞が魔獣の類に襲われたのは見たこともない」
「その頃の笹さんは今みたいに四六時中、一緒にいたわけじゃねえだろ?」
あの頃は、まだ確信がなかった。
いや、オレは確信していたが、兄貴からの許可が下りなかったのだ。
本当に間違いないと確定するまでは、彼女に張り付くよりも、自分自身を鍛えておけと。
だから、彼女が大阪に行ったことも知らなかったし、そこで厄介ごとに巻き込まれていたことも気付いていなかった。
しかもその場所で、ジギタリスの王子殿下と、後の大神官となるほどの存在に出会っていたなんて思いもしなかったのだ。
「その魔獣は、お前が持ち込んだものか?」
先ほどからの疑問をオレは口にした。
敵意を剥き出しにする黒く大きな魔犬を、彼女の記憶を映し出して見たことはあるが、何も知らない小学生にとっては男女の関係なく恐怖だったことだろう。
実際、栞はその時の記憶を封印されているようだが、無意識に傷となっている。
当人も覚えていないほどの犬嫌いがそれを表しているだろう。
少しでも、その恐怖を与えた存在がいることがオレにとってはかなり不快だった。
「持ち込んだのは、違う」
だが、それを赤い髪の男は否定する。
「それに、狂化した上、操ったのも別の人間だった。だが、アレは、俺の子飼いだった。その管理責任の一端は俺にもある」
「事情はよく分からんが、お前がやったんじゃねえなら、別に気に病む必要はねえだろ?」
目の前の人間が行ったわけではなかったことにホッとする。
栞の記憶を覗き見た限りでは、あの魔犬は、四肢を断たれても尚、動いた上、彼女に襲い掛かったのだ。
結果として、栞が恐怖のあまり暴走し、魔犬の頭を文字通り粉砕した上、もっと厄介な方向へ転がりかけたのだが。
それでも、そんな悍ましいことを栞にさせたのが、この男ではなくて良かったと心底思えた。
死んだ生き物の身体を物同然に操るとか、真っ当な思考の持ち主ではできないことだろう。
少なくとも、オレはやろうと思ったこともない。
だが、相手の恐怖心を増長するには間違いなく有効だ。
死んだはずのものが動き出す、「動く死体」など、人間界でも国や宗教に関係なく、恐怖の対象でしかなかった。
尤も、オレからすれば、そんな発想ができてしまう人間こそが一番、怖いんじゃねえか? と思ってしまうのだが。
「だけど、俺が育てた魔獣が、栞を恐怖に陥れたのは間違いない」
妙なところで融通の利かない真面目な男はそう言った。
話を聞いた限りでは、その魔獣は飼い主の意思とは別の場所で連れ込まれ、利用されたとしか思えない。
だから、そこまで気にする理由はオレにはよく分からなかった。
「笹さんは、知らないんだ」
「何を?」
「栞が、どれだけ犬に苦手意識を持っているか」
「見たことがねえからな」
水尾さんが言うには、かなり可愛いらしいけど、実際、見たことはなかった。
ただ、「犬」という単語そのものを避けたがっている気がしてはいる。
「そのきっかけが、俺の犬だった。それだけで、嫌だと思わん?」
「別に。悪いのは持ち込んで、狂化して、操ったヤツ、だろ?」
それでも、自分が育てた犬が、そんな阿呆で杜撰な計画によって、無惨にも砕け散る様を見るのはきつそうだなとは思う。
「まさか、あの場に王族がいるなんて思わなかったらしいからね」
「は?」
あの場に王族は二人もいたはずだぞ?
「……ってことは、栞はただ巻き込まれただけ、か?」
「そういうこと。もし、その場所に栞がいると知っていたら、ライト様が止めていたと思うよ。貴重な魔獣がバラバラになる未来しか見えなかっただろうからね」
実際、バラバラ以上、粉々という状態になっているわけだからな。
「じゃあ、狙いは誰だったんだ?」
分かっていることをあえて聞く。
「笹さんは既に答えを知っているだろ? 大神官候補だった男だよ」
ある意味、最初の予想通り、だったわけか。
そうなると、セントポーリア王の血を引く栞とジギタリスのクレスノダール王子殿下が巻き込まれたことは、ミラージュ側にとって誤算だったわけだ。
実際、魔獣に手を下したのは大神官ではなく、クレスノダール王子殿下だった。
もし、大神官だけだったら……?
いや、あの人も結構、容赦はなさそうだぞ? と、思い直す。
ああ、でも、クレスノダール王子殿下にそれ以上の損壊行為はしないように止めたって、クレスノダール王子殿下自身が言っていたな。
今より、甘かった可能性はあるのか。
いや、その出来事があったから、あの方も、変わったのかもしれないな。
自分の敵は完全に叩き潰す、と。
「ミラージュは、魔獣を育てるのか?」
基本的に、魔獣を飼いならすことは難しいと言われている。
知能や意思疎通の問題もあるが、人間に対して友好的な魔獣が少ないため、愛玩動物とするのはかなり無理があるらしい。
「その辺りは想像にお任せするよ」
流石に、簡単には教えてくれないらしい。
先ほどのも、栞に関わることだったからだ。
それ以上、踏み込ませはしない。
「それなら、神獣は?」
「神獣?」
来島が訝し気な顔をする。
当然だ。
神獣は魔獣以上に扱いにくい。
魔獣とは別に知能が高すぎて、人間を見下す傾向があるためだ。
だが、オレが確認したいのはそこじゃない。
「例えば、『翼が生えた大蛇』とかな」
「…………」
分かりやすい鎌のかけ方ではあるが、別に口を滑らせてくれることを期待しているわけじゃない。
単純に、伝えたかっただけだ。
「あれも、どうせ、お前たちの仕業だろ?」
それを、オレが知っていることを。
クリスマスに投稿するような話ではなかったですね。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




