プロローグ5☆
学校は終わりのチャイムがなり響き、部活に向かう者、遊びに向かう者、家に帰る者。たくさんの人々が動き出す。放課後だ。
紡も帰る支度をして教室を出る。葵に一緒に帰ろうと誘われることはない。帰る方向が違うのだ。
それに午後は紡はバイトがある。学校と家との間にある喫茶店だ。そこは結構古くからある喫茶店で、客層は子育てを終えた主婦やお爺さんやおばあさんなどの常連が主な客層だ。
そこに混じり学校帰りの生徒がちらほらいる。
その仕事場についた紡は店の制服に着替え、エプロンをする。前髪が邪魔にならないように髪留めをし、ゴムで髪の後ろを縛る。紡の仕事するときの格好だ。
学校帰りの生徒は主に、仕事着の紡を女の子だと思ってそれを拝もうとしてくる男子だったりする。前髪を避けたことによって露わになるパッチリとした瞳。長いまつ毛、接客業のためにいつもにこやかに笑う紡は完全に可愛い顔立ちの女の子に思われているのだ。
「今日もよろしくお願いします」
紡はこの喫茶店を営んでいる老夫婦に微笑みながら挨拶する。
「お願いするわね」
「…よろしく頼む」
はじめに喋ったにこやかに挨拶したのが奥さんの方で、無愛想に頭を下げたのが旦那さんの方。二人は紡の祖母と仲がよく5歳から祖母に育てられた紡も、祖母と共にここに来たときに知り合った。その縁で今働かせて貰っているような感じだ。旦那さんは寡黙で、奥さんはお喋り。端的に説明するならその言葉が当てはまる。旦那さんは意外にノリがよかったりするのだが。
カランカラン。喫茶店の鈴の音が来客を告げた。
「いらっしゃいませ」
紡は笑顔を浮かべ頭を下げた。
「おっ、今日はムギさんいるんだ。よっしゃ!」
そういってガッツポーズをした客は紡と同じ学校の紡と同じ学年。紡と同じクラスの中川涼太だ。ムギさんとは紡のことを店の常連がそう読んでいて、それを聞いた涼太が紡のことをムギさんと呼ぶようになった。ムギちゃんと呼ぶ客もいる。
だが、涼太は紡=ムギさんとは知らずにいる。
「おや?涼太君はおばちゃんでは不満かね?」
奥さんが紡の横でおどけたように話す。
「いえいえっ!!おばちゃんなんてそんなっ!まだまだ若くて綺麗じゃないすかっ!」
涼太は奥さんにそういってニカッと人好きのする笑顔を浮かべる。
「あらっ!若い子にそういわれると照れちゃうわ~」
パンッパンッパンッ!!
「あ痛!やめっっ!グベラッ!!…」
奥さんが左手を頬に置きながら右手で涼太の背中を叩く。それを見た旦那さんが涼太にギロッと今にも人を殺しそうな視線を浴びせ、カウンター内から奥さんの横に移動した。
「…こいつはやらん!…もし口説き落とそうとするなら……それ相応の覚悟をしろ」
視線をモロに受けた涼太はダラダラと汗を垂らした。
「も、ももも…申し訳ございませんっっっ!!!嘘です嘘です。お世辞です!おばちゃんでは到底満足出来ませんンンンーーーーー!!!!!!!!!」
涼太は背中に受ける痛みに涙を滲ませ死ぬ気で謝った。誤って失礼なことをいうくらいに。
「あらっ、そう。お世辞だったの?……おばちゃん悲しいわぁ」
奥さんはしくしくとわざとらしい動作をして顔を覆った。涼太は奥さんの嘘なきを見てから、ギギッと音がなりそうなぎこちない動作で、旦那さんの方を見た。
「…死ぬ覚悟は出来ているらしいな………………………………」
涼太はこの世の終わりのような顔をした。
「んな理不尽なぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!」
涼太の断末魔の叫びが店内に響き渡った。
▽
「涼太君。いい人だったわ。なのに…なのにぃ…」
奥さんは両手を合わせて沈痛な面持ちになった…。
「…あぁ、惜しい奴を亡くしてしまった…」
旦那さんは下を向いて歯を食いしばる。
「えっ、えーと、うわ〜ん?」
紡は空気を読んで棒読みで泣いた。
「勝手に・俺を・殺すんじゃ・無ーーーーーーーーい!!!!」
涼太が吠える。
「あらっ!涼太君が蘇ったわ!あなたっ!」
「…そうか、よかったな。…….………………………………………チッ………」
「オイっ今舌打ちしたよな!ってちゃっかりカウンター戻ってるし!」
「…してない」(ギロッ)
「ぴぃぃぃぃ!さっ、サーセンしたーっっ!!気のせいでした空耳でした!」
「.そうか」
「ふ…ふふ……ッ…ーー!」
紡はこの空間が楽しくて堪えきれず笑ってしまった。今日は何故だか笑いの沸点が低くなってしまう。そのことを感じながら一瞬暗い顔をして今度は完璧な笑顔を浮かべる。
「ーーハハッ!涼太君は相変わらずノリがいいわねぇ!」
「まぁ、こういうふうにノリノリでいたほうが楽しいからなぁ」
(ぶっちゃけ、おじさんの視線はマジで怖いんだけどな。…あれはノリで出来る視線なのか…)
中川涼太は身震いした。
「ところで今日もいつものやつでいいのかしら?」
「ああ!カフェラテを頼む!」
涼太は笑って注文した。
「それでは、お席までご案内しますね」
「あぁ、それは私がやっておくわ。ムギちゃんはカフェラテを作ってくれるかしら?」
紡が涼太を案内しようとするがそれを奥さんが止めた。この店ではラテアートをやっていて、紡は何度か練習しハートを失敗せずに描けるようになっている。
「はい。分かりました」
頷いてから旦那さんの元に行く。そこでエスプレッソを貰いミルクピッチャーを使いハートの形のラテアートを作る。
(…ここをこうして…うん。上手く出来たな)
そして、涼太の元に持っていく。
「お待たせしました」
声をかけてから涼太の前にカフェラテを置く。
「おぉ!美味そうだな!ムギさんが入れてくれたのか?」
「最初のエスプレッソを入れてませんが、ラテアートを作ったの僕です」
紡は頭を下げてから、「ごゆっくりどうぞ」といった。
「ムギちゃんムギちゃん。今日は上手く作れたねえ!」
奥さんが右の手の先を振りながらいった。
「はい。上手く出来ました。…それと、作れたのは指導してくれる人が上手かったからです」
紡が笑顔を浮かべながらそういうと奥さんが軽快に笑って、「そんなことないわよ」といったが、満更でもなさそうだ。紡は心を切り替えて仕事へと打ち込む。
▽
「ムギさんの入れてくれたカッフェだぜ!味わって飲まなくては!」
コクリと一口涼太はカフェラテを飲む。
(ふむ…これは豆が違うな!豆が……多分)
中川涼太はコーヒーの豆の違いが分かる男だ。ブラックは苦すぎてしまうので、あえてミルク成分の強いカフェラテを選ぶ。
(そう。本当に美味いと思うものを頼む…。それが大人だ)
ふう、と一息つく。この空間は心地がいいと涼太は思う。可愛い看板娘、多少古いが居心地のいい店内、可愛い女の子、騒がしいが気のいいおばちゃん、可愛いムギさん、視線が殺人鬼のような親父さん、そして一番の理由はなにより…ムギさん。
「このカフェラテはムギさんが作ってくれたものなんだよな…」
そう考えてハートのラテアートを見てグッときた。次はそのことを頭に入れて飲んでみよう。涼太はうんと一つ頷きカップに口をつける。
「…………美味い」
それはまるでこの世の飲み物ではあり得ないくらい美味しいと涼太には感じられた。ムギさんの(作った)ハートが入っている。ムギさんのハート…すなわち心が。
「…愛は最高のスパイスだな」
フッ…。右手の肘をテーブルにつけ、拳を作り傾けた顔にそっと添える。ふと外を見ようと思って涼太は窓を見る。窓ガラスに反射して自分の座っている席の後ろに人影があることが分かった。涼太は悠然と振り返り人影を見る。この店のおばちゃん店員だった。
「…愛は最高のスパイスだな………フッ……」
おばちゃんがそういって颯爽と涼太の元を去る。
おばちゃんが去ったあとには頭を抱えた涼太だけが残っていた………。