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ショートショート「蝶」

作者: 兼藤伊太郎

全身から汗が吹き出した。「温室はかなり暑いぞ」という彼の忠告に従って、上着は脱いでいたのだが、シャツが肌に貼り付いた。わたしはネクタイを弛めた。彼はランニングシャツに短パンのなりで、とてもではないがその服装からは彼が超一流の学者であることは窺い知れまい。

学生の時分、彼の評判はことごとくが変人、変わり者、良くて独特。友人は少なかった。それはわたしにしたことで同じだったわけだが、わたしには彼のような非凡さは無く。ただただ人見知りで人嫌いであったに過ぎない。

わたしと彼は学科は違ったのだが、馬が合った。些細な点ばかりが共通したわけだが、それでも無二の親友と呼べる友人同士になった。その付き合いは学校を出ても変わらなかった。わたしは勤め人に、彼は学者になった。昆虫学者だ。時が経ち、わたしはしがない勤め人に、彼は超一流の学者になった。卓越した論文を次々に出し、新種の発見すらしてみせた。彼の名は一般の新聞にまで載ったほどだ。

「だから言わんこっちゃない」と、額に汗の玉を作ったわたしを見て彼は笑った。

「まさか、これほどとはね」と、わたしは腕捲りして額を拭った。「で、見せたいものとは何だね?」

「蝶だ」

わたしが彼と知り合った頃から、昆虫の中でも蝶は彼にとって特別な存在であった。彼の昆虫に対する偏愛のきっかけは、幼い頃与えられた蝶の標本だったとかいう話だ。彼の部屋には無数の蝶の標本があったものだ。

温室の奥に進むと、少し開けたところに出た。光に溢れている、とわたしは思った。色とりどりの光が瞬いていたのだ。目が慣れてくると、それが蝶であることがわかった。

「どうだい、美しいだろう?」と彼は言った。

「ああ」とわたしは目を細めながら言った。「この世のものとは思えんほどだ」

「ふふ」と彼は笑いを溢した。「確かに、これはこの世のものとは言えないかもしれない」

「どういうことだね?」

「こいつらは、わたしの手で作り出されたものなのだよ。品種改良もしたし、遺伝子の組み替えもした。とにかく、ありとあらゆる手段を使って、美しい蝶を作ったのだ」

「そんな労作ならば、人々に知らしめせばいいものを、なぜこんなせまっ苦しい温室なんぞに閉じ込めているのだね?」

すると彼は首を横に振った。「こいつらはここの、この温度、湿度の中でしか生きられないのだ。外気に触れると、その鱗粉は燃えてしまうのだ」

わたしと彼はしばしそれに見とれていた。

それから数日、わたしは新聞に彼の名を見つけた。また何か発見をしたのかと思ったが、それは彼の訴えられたという記事だった。研究費を私的に使い込んでいたというのだ。それも、生半可な額ではない。じきに逮捕されるかもしれないということだった。

わたしは一も二も無く、彼のもとへ駆け付けたかったが、しがない勤め人にはしがないとはいえ仕事があり、夜まで自由にならなかった。

自由になると、わたしはあの温室へと急いだ。彼はそこにいるに違いない。

たどり着いた温室は、その窓が破れていた。そこから、火の粉が漏れていた。それは蝶たちだった。彼の作り出した蝶たちだ。蝶たちは、外気に触れその鱗粉を燃やしながら、夜空を舞っていた。それは実に美しい光景であった。わたしはしばらくそれに見とれていたが、涙が溢れるので我に返った。きっと、彼はもう生きてはいまい。

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