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しぼう

作者: 神在月

 今はベットの上でろくに身動きすらできずにいるが、私は学生時代には本気で競泳をやっていた。力はそれなりにあったようで、常に県大会では入賞圏内にいた。

 とにかく一番になりたくて、毎日毎日必死でトレーニングを重ねていた。

 あの頃は、泳ぐことが全てで、それ以外のことは考えた事もなかった。早くなりたくてひたすら泳いだ、それが何より気持ちよかった。

 しかし、泳げば泳ぐほど、何か自分には超えられない壁に気がついてしまい、大学進学とともに競泳から足を洗った。

 それでも、泳ぐ事自体が嫌いになったわけでなく、近くのスイミングクラブで定期的に泳ぎ続けていたので、競泳を止めて10年経っても、体脂肪率は10パーセントを切っていることが、自慢の一つだった。


 それは、桜の花がそろそろ咲きそうな3月の終わりに突然訪れた。

 微熱が続き体の倦怠感が全くとれない、それに関係あるかないかは分からないが左手の親指が少し痺れる、それでも実生活にあまり大きな影響はないので、そこまでは気にしてなかった。

 年度末の仕事が忙しかったので、疲れが溜まったためだと思っていたが、流石に2週間もそんな症状が続いたので、病院で診察してもらうことにした。

 最初の診察では特に異常はないとのことで、解熱鎮痛剤を処方され様子を見るようにって言われた、だがその時採血してもらった血液検査では、血中中性脂肪の数値が異常に上がっていた。

 それまで血液検査で異常が出たことはなかったし、健康マニアとは言わないが、食生活にもそれなりに気をつけていたので意外だった。

 数日様子を見たが、良くなるどころか日に日に悪化してるような感じなので、やむなく別の病院に行ってみることにした。

 そこでも特に異常はないと言われたが、血液検査で気になったことを告げると、市内にある大学病院に紹介状を書いてくれた。

 大学病院であれこれ検査をして、生検で異常を見つけた医師の指示ににより、MRIで全身検査を行った結果、大変な事がわかった、手足の筋肉が脂肪化し初めていて、さらに内臓にも脂肪が貯まり出していた。

 いや、より正確に言えば内臓も脂肪化し初めているらしい。

 症例はあまり報告されていないが、全身の組織が脂肪に変化していくという、原因も治療法も全くわかってない奇病に犯されていると宣告されたのだ、指の痺れも脳細胞か神経の一部が脂肪化したからかもしれない。


 この病気は進行が早く、発症してから2~3ヶ月以内に全身の組織が脂肪化し、多臓器不全に陥って死に至るという恐ろしい病気だった、治療法は現在の時点ではまだ確立されてないので致死率は100%、私に残された時間も長くて2ヶ月と宣告された。

 死が現実のものとして目の前に提示された割には、ある意味今の世の中を達観していたつもりになっていた私は、死ぬこと自体にはそんなに恐怖は感じなかった。

 人間遅かれ早かれいずれ死ぬ、それが早いか遅いかの違いでしかない、確かにまだやりたいことは色々あるが、それが自分にとってどこまで必要かわからないし、この閉塞感漂う世界から消え去るのも存外楽かもしれない、そんなことを考えたりもした。


 最初に手足の筋肉がどんどん失われた、あっという間に普通の生活が送れなくなり、何をするにも介護が必要になって入院することになった。まあ、入院しても治療方法は無いのだが、普通の生活が送れないのではしようがない。

 その頃から、次第に記憶も失われ始めた、思い出がどんどん侵食されていく。これは脳細胞が脂肪化しているためだろうが、このまま何も分からなくなると思うと、初めて恐怖を感じた。

 記憶なんて要所要所しか覚えてないものだから、失われたことには気がつきにくいもの、実際のところ普段の生活でも思い出せない事はたくさんあった、というより思い出せないことの方が多いのだろう。

 ただ、今は思い出せないことが明らかに増えた実感がある、何を実際に忘れてしまったのかってことは、一人では分かりにくいが、見舞いに来てくれる友人と話していると、分からないことが多すぎる。このまま記憶を完全に失えば、自分が自分である証明すら出来なくなってしまうのではないか、それが一番怖い。

 自分が自分である所以って、結局記憶がその土台になっているはず。いくら思考できても、記憶が全くなければ、自分が何者か判断のしようが、なくなるのではないだろうか。

 自分が自分であると言えるのは、それが自分だと記憶が出来た時だと思う、所謂自我の発露とでも言おうか。

 だから、このまま記憶を失って行けば、いずれ私の意識は自分が誰かわからなくなる。

 そうなった時、私という自我は消えてしまうのでは無いか、たとえ体が生きていたとしても。

 そんな状態で生きていても、本当に私が生きていると言えるのだろうか。

 それに、いくら考えてもその考えたことを記憶できなければ、考えてないのと同じではないのか。


 しかし、痴呆症で自分が分からなくなった人を、死んだと言わない。だがそれはただ生活しているだけであって、その人個人としては存在しているのかどうか、わからないのではないか。

 それでも喜怒哀楽の感情は残るだろう、記憶の蓄積ができなくても、その場は楽しかったり怒ったり、思考する事ができる以上普通の人と同じではないか。

 ということは、自分が自分と話からなくても、体が生きている限りは自分であることには違いない。まあ、そうなったらそうなったで、こんなことも考えなくなるのだから、気楽でいいのかもしれない。


 この病気の唯一の救いは痛みを感じる事がほとんど無いことらしい、実際手足が動かなくなっても痛いと感じたことはなかった。

 このまま徐々に衰えて、死を迎える精神的な恐怖はぬぐいきれないが、苦痛に苛まれるわけでないのは救いかもしれない。

 約30年間生きてきて、結局何も残さず消えていく。人間の一生なんて長さの違いこそあれそんなものかもしれない。

 後世に名を残す人なんて、ごく一握り。後の多くの人は死んで20年も経てばその存在さえ忘れられてしまう。


 自分って一体なんだろう、思考することそれ自体が自分なのか、考えているそのこと自体が自分であり、私そのものなのか。

 我思う故に我ありってことなんだろうが、それが他の人とどう違うか、何をもって区別すればいのか。記憶がなくなるとそれが分からないのではないか。

 結局のところ自分は何者か、っていうことは思考するだけでは永遠にわからない気がする。

 それに、いくら考えても何らかの方法で考えたことを残さなければ、考えてないのと同じではないか。

 無人島で一人、数十年かけてこの世の真理にたどり着けたとしても、それを自分以外の他者に伝えられなければ、それは考えてないのと同じではないのか。

 私も、もう他者と意思の疎通を取ることが難しくなりつつある、後少しすれば相手に意思を伝えることもできなくなるだろう、そうなった時自分の証明は自分では出来なくなる。

 それに、最後には自分が何者だったか、思い出すことも出来なくなるだろう。こんなことを考えていたことも、また忘れるのだろう、まあそうなる前に死んでしまうのかもしれないが。

 それでも、死ぬまではあれこれ考え続けるのだろうか、脳が思考できる間は……。それにどれだけの意味があるかはわからないが。

 既にいい人生だったって言えるかどうか、忘れた事が多くて判断できない。

 自分が何者かも、わからなくなって死ぬのはやはり怖い、でもその恐怖すらわからなくなるかもしれない。

 今はとてつもなく怖い、怖いことが怖いと思えなくなると思うのが本当に怖い。


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