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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

イノセンス

作者: 扉園

 短刀を手首に当て、強く引いた。

 鋭い痛みの後に赤い筋が入り、生命が滲む。次々と紅い玉が生まれる。醒めるような輝き。それは徐々に溢れ出した。僕は腕をゆっくりと差し出す。

 生命の雫が移行されていくのを感じながら、僕は彼女に囁いた。

「……足りないなら、求めて。与えるから」



 僕は灰色にくすんだ町を歩いていた。

 深い霧は辺りを覆い尽くし、数m先の視界は白に支配されていた。灰色屋根の家々を横切り、崩れかけた石の橋を渡る。下では川が静かに流れている。木々が立ち並び、強風に吹かれて淋しげなざわめきを発していた。沁みる凍えに、外套の前をしっかりと締める。

 行く当ては無かった。ただ足を前に動かして、無為とも思える時を過ごしていた。

 濁った眼をした中年女性が僕を横目で見る。ぞっとしたけれど、僕の碧眼も同じ様相かもしれない。

 半ば腐蝕した木造の教会が右手に現れた。三角形の屋根と高い先頭が不気味にそそり立っている。路地裏をちらりと見ると、死体が打ち捨てられていた。皮膚のあちこちが黒く変色している。黒死病と呼ばれる、悪魔がばら蒔いている病気だ。これに目を付けられたら、誰でも命を刈り取られてしまう。

 おぞましい意識に取り付かれ、僕は慌てて視線を逸し、早足で町を歩いた。何処を進んでも見慣れない景色。永久に見知った世界は現れないだろう。

 僕は、故郷から逃げていた。

 頭に溜まる粘り気のある記憶。数ヵ月まで僕は両親と妹と、薬屋を営んでいた。薬草を調合し、病気の人に分け与えた。貧しいながらも平穏な日々だった。だけど、それが破られた。

 伝染病が媒介し、町に襲いかかった。たちまち死者が積み重なった。芳香性のある軟木を燃やしたが効果は無く、死は猛威を振るい続けた。また、家畜の異常死が相次いだ。それは常に血みどろで倒れていた。夜中に謎の影を見たという者もいた。町に霧が立ち込め、人々は死に震え、鬱屈した日を過ごした。やがてストリゴイが現れたという噂が立った。

 ストリゴイ。死せる生者の魔物。他殺死、突然死、自殺などが原因で亡くなった死者はストリゴイに変化し、人々を様々な方法で苦しめるという。住民は魔物の仕業と確信し、死者の犯人を探した。

 白羽の矢が当たったのは、僕の祖父だった。

 三ヶ月前、落馬して命を落とした。優しい祖父だった。しかし家族以外には気難しい性質で、変わり者と言われていた。祖父が亡くなった時は、病が流行りだした時と一致した。

 噂はたちまち広がり、祖父は死後ストリゴイになったと囁かれた。住人の想像は膨らみ、生前祖父は悪魔と結託しており、魔女に薬を売っていたという話すら流れた。徐々にストリゴイか確かめるべきだという声が上がり始めた。両親は根の葉も無い噂に怒り、散々否定していたが、近隣住民の圧力には勝てなかった。

 真相を確かめるべく、祖父の墓が掘り返される事になった。幼い妹は家に置いてきたけれど、僕は両親に付いていった。夜明けを迎え、白み始める曇り空。立ち並んだ墓石。祖父の墓の前には人々の群れが出来ていた。町唯一の祭司が傍らに立ち、祈りの文句を唱えると、見物していた人々も同様に唱和した。その後、墓守がスコップで掘り返していく。棺が現れた。蓋を開けると、すえた匂いが鼻を付いた。白布が取り払われ、うつ伏せの姿が顕わになった。墓守が慎重に身体を返す。その様子に、誰もが息を呑むことになった。

 誰かの震えた呟きが宙を漂った。

「ストリゴイだ……」

 祖父は死を迎えたはずなのに。死後硬直をし、地中に埋葬をされたはずなのに。

 その死体は、まるで生きているかのようだった。

 肌は朱をさし、痩せ型だった筈の身体は膨らみ、生気が宿っていた。爪や髪は伸び、新しい皮膚が生成されている。透き通る様な青い瞳は見開かれていた。唇には血が付いていた。それは僕らが見ている前で、顎を伝っていった。微かに鼻や目からも滲み出ており、赤く、鮮血以外考えられなかった。僕は両親の影でそれを見た。信じられなくて目眩がした。それは、悪魔の所業としか思えなかった。

 祭司は胸元で十字を切り、一身に神に祈りを捧げた。匂いのきつい香が焚かれる。懐からトネリコから出来た杭が取り出された。悪魔の使いを罵る言葉を吐き、神の御使いは杭を振り上げた。杭は真っ直ぐに祖父の胸に突き刺さる。引き抜いた瞬間、真っ赤な血が噴き出して辺りに飛び散った。それは僕の足元まで飛び、靴を濡らした。小さな悲鳴が周囲から漏れる。それから祭司は懐から釘と針を取り出した。死者の額に釘を打ち込み、身体に針を突き通す。心臓が損傷され、身体を塞がれた今、ストリゴイは二度目の死を迎えた筈だ。人々は安堵の息を漏らし、遺体を元の地中へ戻して帰っていった。

 だけど、悪夢は終わらなかった。ストリゴイは病の嵐を送り続け、更に何名かの命が死神に持って行かれた。家畜が不審死を遂げたばかりか、浮浪者の惨殺死体が見つかった。また、亡霊が夜中に浮遊しているのを住人が目撃した。人々は口々に事件を囁きあった。人々は死を恐れ、祖父の墓の周りにある土を取って護符にしようとした。中には飛び散った血を採取しようとする者も出た。しかし、呪い返しは効果があるようには思えなかった。

 ある日、死者である筈の手が墓土から突き出ているのが発見された。手は血だらけで、何かを掴むかのように曲げられていた。恐怖が最高潮に達した人々は、ストリゴイを完全に葬り去る事を所望した。

 再び穴は掘られた。棺の蓋は壊されていた。脆い木製の蓋は穴が開き、奥には恐ろしい光景が広がっていた。祖父は手を突き出した状態のまま、身体が捻れていた。布は赤に染まっており、周囲は鮮血に溢れて床を満たしている。ストリゴイが犠牲者の血を吸ったのは明白だった。杭も釘も役立たずに終わったのだ。

 祖父は燃やされる事になった。火葬は邪悪な魂を浄化する確実な方法とされている。薪を高々と積み、無残な遺体が横たえられた。火が点され、高価な燃焼促進剤を加えた。それでも焼くのに数時間掛かった。ストリゴイの身体は燃えにくいのだそうだ。高々と上がる焔。僕は淡々とした場景を、ただ眺めていた。

 時間を掛けて骨と灰になった祖父は、川に捨てられた。祖父の存在は跡形も無くなった。それから騒ぎがぴたりと止み、病の突風も下火になっていった。人々は喜び合い、悪魔を罵る歌を作った。

 だけど、僕達には第二の悪夢が訪れた。

 掌を返したように人々の態度が変わった。身内からストリゴイが出た。それは悪魔の下僕とみなされるのに充分だった。魔術で使う麻薬、毒物を作っているという噂が消えず、町中に浸透した。何処を歩いても邪眼にも等しい白い目。やがて店は廃業した。

 その頃から、僕に対する両親の眼がおかしくなった。異質な者を見る視線。余所余所しくなり、内面的な拒絶が滲み出ていた。僕は両親の眼が耐え難く、遂に心情を打ち明けた。両親は僕にこう告げた。

 お前は頭に胎盤の断片を付けて生まれ、非常に明るい青色の瞳をしている。死んだらストリゴイになるかもしれない。

 僕は非常に難産だったとは聞いていた。けれど、胎盤の破片が付いた事は何も知らなかった。両親の瞳は茶色。妹も明度の高い茶だ。だけど、僕は祖父の血を濃く受け継いでしまった。それらは、魔物に変化する可能性の一部。残酷な結果を示唆する予言。

 家族の中で一番怪物に近いのは、僕だった。

 僕は何も言えず、家に篭った。棺桶の中で横たわった祖父の顔が頭から離れない。

 僕も死んだらストリゴイになってしまうのだろうか。邪悪な力によって夜な夜な蘇り、生者を脅かすのだろうか。自分が卑しく穢らわしい者に感じる。妹だけは悲しんでくれたが、事態は変わらなかった。家族との亀裂は益々大きくなっていった。

 ある日、両親と妹はいなくなっていた。

 忽然と消えてしまった。僕に何も告げずに。がらんとした屋内。思い出は埃を被り、死んだように静まり返っている。町にも両親にも見捨てられ、僅かな路銀と品と共に、僕は路頭に彷徨い出た。

 僕は外套を強く握り締め、苦しさを和らげようとした。何処にいても空虚の亡霊が付き纏う。閑散とした町並み。新たに生き直す余力も僕には無かった。ただ夢遊病者のように道を歩くだけ。全てが色褪せた灰色の世界。鼠が暗闇へ走り去っていく。

 死は恐い。けれど、この旅路は死に向かって歩いているようなものだった。恐れが染みていく。

 僕は擦り切れた土地を歩き続けた。食料は既に底を付いているのに空腹は覚えない。全ての感覚が麻痺してしまっている。幾つもの閑散とした町を抜け、僕は道を外れて進んだ。

 暫く行くと、罪人が晒されていた。傍らには肌に黒い斑点を浮かべた老人がいる。彼は血を瓶に集めていた。罪人の血は重病に効果があると言われている。僕は目を逸らし、足を早めた。何処の町も黒死病の恐怖に怯えていた。感染の恐怖は最早沸かなかった。寧ろ僕が死んだら病を与える側になり、見知らぬ地を恐怖に陥れるかもしれない。僕は疲れた身体を引きずり、人気の無いところを選んで歩いた。茂みに入り、植物の間を進み続けた。

「っ……」

 鋭い痛みが左腕を襲った。野生のイバラに引っかかれたのだ。白い袖が破れている。袖を捲ると幾筋もの線が走っていて、押すと赤い血が滲み出てきた。傷薬を少量持っていたものの塗る気にならず、そのまま長袖で隠した。鈍痛が腕を覆う。注意して辺り見ると、イバラに囲まれている事が分かった。僕はいささか注意深く足を動かした。

 茂みを抜けると、眼前に古びた教会があった。

 使われなくなって久しいのか人気は無い。入口の扉は半分取れかけ、風で軋んだ音を立てている。僕は辺りを見渡し、慎重に教会へ入った。

 時に抗えなかった建物は既に廃墟と化していた。下は水浸しになっていて、木が生えている。木造の壁は腐食で朽ち果てていて、至る所に蔦が絡まっていた。天井も同じような状態で、半ば自然に還っている。聖なる象徴の十字架や壇上にある分厚い聖書は、風化して半ば崩れている。淡い光が上方から漏れ、水面に反射して細かい光がちらついていた。

 僕は緩慢とした動作で列席の一つに座った。吸い込まれそうな静寂を湛えた景観をただ眺める。

 恐ろしいけれど美しくもある景色。永遠と言われている神の国も、この様に朽ちてしまうのだろうか。人と同じように腐敗するのだろうか。

 ぼんやりと見つめていたら背後から音がした。

 反射的に振り返ると、そこには少女が立っていた。

 僕より少し年上くらいだろうか。長い髪や衣服は薄汚れ酷く痩せている。透き通る様な顔色に、怯えた表情を浮かべている。彼女の瞳を認識した途端、僕は驚きに息を呑んだ。

「君は……」

 僕と同じ色。その澄んだ色と相対するように、両手が朱に染まっていた。口元にも赤が付着している。それは、血としか思えなかった。

 彼女は後退り、立ち去ろうとした。

「待って!」

 僕の静止の声に足を止める。僕は列席から立ち、彼女に歩み寄った。足元の水溜りが揺れる。僕は小さな声で、こう問いかけた。

「……君はストリゴイなの?」

 彼女は首を横に振ったものの、こう返した。

「……分からない」

「血を飲んだの?」

 彼女は微かに頷き、渇いた血が付いた自分の手をぼんやりと見つめた。微かに震えている。

「血を飲まないと、苦しい……」

 魔物は人間の血を啜るという。だけど、それは夜に現れる。彼女は生きており、死んではいない。それなら 彼女は魔女なのだろうか。僕は彼女がなんであろうと構わなかった。不思議と恐怖は沸かなかった。

 逆に、彼女の存在が酷く僕を落ち着かせた。

 僕は彼女の手を握って、列席にいざなった。彼女は一瞬躊躇したけれど付いて来てくれた。想像より暖かい 手をしている。僕が冷たいのかもしれない。

 僕達は中央の席に座り、薄明るい神の家の成れの果てを眺めた。

「……僕はストリゴイになるかもしれない」

 廃墟に視線を委ねながら僕は言った。彼女の意識を感じながら、淡々と今までのあらましを語った。祖父の ストリゴイとしての死、自らの疑惑も。

「僕が死んだら悪魔の下僕になり、住人を訪ねて疫病を与えるかもしれない。死を撒き、生を壊す存在に……」

 僕は此処で言葉を切った。無意識に二の腕を強く握っていた。袖には赤黒くなった血がこびり付いている。

 長い間、僕達は何も言わなかった。

 日が落ちて次第に光が陰ってくる。古ぼけた教会はなけなしの輝きを失い、明度が暗くなっていく。

 彼女は俯いて、か細い声を出した。

「……始めはそうじゃなかったの。お母さんが死んだら、急に喉が渇いて。水じゃだめだった。血が欲しくなった。血が……。悪魔憑きと言われて教会へ行っても治らなくて。教会へ行っても治らなくて……」

 彼女は手を服の裾でこすった。何度も何度も。

「羊の血を飲んだ。私、血を飲んだ……」

 澄んだ青色の瞳には、絶望が揺らめいていた。

「私、魔女かもしれない……」

 魔女は死ぬと、ストリゴイになると言われている。僕と同じ境遇。魔に染まった第二の生がある存在。正しい生の人々に忌まれ、恐れられる怪物。

 けれど、僕は一つの光明を見出した。

「僕の血を飲んだら、ストリゴイじゃなくなるかもしれない」

 呪いから逃れようとする為に、祖父の血を飲む住人。一見矛盾しているようだけど、効果があると言われている。毒を以て毒を制す。そう町では言い伝えられていた。ストリゴイになる僕の血を分ければ、彼女は呪われた存在から解放出来るかもしれない。

 彼女は僕の顔をじっと見た。僕は左袖を肘まで上げた。数本の引っかき傷が露わになる。イバラで痛めた傷は微かに膿んでいた。

 死の恐怖に束縛された空間。亡霊が跋扈する霧に覆われた世界。僕の悪い血を全てあげれば彼女が治るというのなら、構わない。全てあげる。死んでストリゴイになり、心臓を杭で刺されるかもしれない。燃やされ、川に流されるかもしれない。祖父のように。

 それでもいい。彼女がいれば恐くない。

 僕は小さな短刀を懐から取り出した。薬草を刻む時に使う道具だ。それを手首に当てて、力を込めて横に引いた。鋭い痛みの後に筋が入り、命が滲む。赤。生命の根源である赤い血。次々と紅い玉が生まれていく。醒めるような輝き。僕は溢れる血液を見て、ゆっくりと腕を差し出した。彼女は緩慢とした動作で口を近付ける。僕は生命の雫が移行されていくのを感じながら、彼女に囁いた。


「……足りないなら求めて。与えるから」


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