決戦
接朗は急いで元自分の携帯に電話をした。
「にゃ~んだ、お前か」
「仁理香が瘴鬼と戦いに行った」
「お前は行かなかったのかにゃ~」
「おい、しらじらしいんだよ。手紙で瘴鬼の居場所教えたのお前だろ」
「うん?」
「僕がちょっと眼を離した隙に車で出て行った。僕もこれから行く。自転車だけど」
「結構だ。しっかり死んでこいにゃ~。あっ。とタヒんで来いって言わないといけないんだった。お前がタヒんで、姫が怒り心頭に達して本成りになるんだにゃ~」
「……やっぱりお前のたくらみなんだな?おい。誘拐犯を差し向けたのもお前だろ?」
「うん?」
「……でも、僕が助けに行くしかないじゃないか。仁理香には瘴鬼が見えないんだから」
「だよにゃ~」
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接朗は沙紀から届いた鈴つき紙縒りネックレスを無造作にポケットに突っ込むとすぐに駆け出した。海沿いの崖の上に向けて。自転車だと三十分はかかる。
高台に上がった時には夕焼けの真っ最中だった。海岸の崖の上の草原。全く視界を遮る物が無い中で、海の上の広大な空間が圧倒的な朱色に染まっている。遠くで仁理香が「香織さん」と対峙しているのが見える。瘴鬼に意識をのっとられた香織さんだ。仁理香もその事が分かっているから、手出しができずにただ向き合って薙刀を構えているだけだ。接郎は自転車から降りて草むらに足を踏み入れる。
「おい仁理香、一人で勝手に戦うな」
遠くから接郎が声をかける。
「接朗こそ勝手に来ないでよ」
「お前、見えないんだろ?瘴鬼が」
「まだ瘴鬼はでてきてないよね?まず香織さんの身体から出てくるところを待って……」
仁理香と香織さんとの距離は四メートルほど。斜め左下に刃先を構える仁理香の動作には一点の迷いも無く、『薙刀とセーラー服』この最も合わなそうな二つの要素が、仁理香の周りで緊張感を漂わせながらも美しく共鳴しているように見えた。接郎は仁理香をサポートするために、しかしどうサポートしたらいいか分からないまま仁理香に駆け寄る。
その時、香織さんが近づいてくる接郎に気づいた。そして肩に掛けたトートバックの内に手を突っ込むと、小さな拳銃を取り出して接郎に向ける。接郎は焦った。香織さんと接郎との距離も四メートルに縮まっている。拳銃を撃つのに最適な距離だ。仁理香が制するよりも先に香織さんは簡単に引き金を引いてしまうだろう。しかし仁理香の動きは素早かった。とっさに駆け出し、香織さんが拳銃のセーフティーを外した時には、すでに仁理香は間合いを詰めて薙刀を振り始めていた。左下から斜め上に向けて。ビュッという空気を切る音がして、薙刀は香織さんの右手の甲を斜めに切り裂く。拳銃が遠くに弾き飛ばされた。
「香織さん、ごめんね。痛いよね」
仁理香が涙声で叫ぶ。
香織さんは拳銃が落ちた方に走っていき、それを拾うために屈んだ瞬間に動かなくなった。いかにも不自然な動作停止だ。瘴鬼が香織さんの身体から出ようとしているのだ。香織さんの身体に入っていては、俊敏さで仁理香にかなわないと思ったのだろう。仁理香に見えない状態になって拳銃を撃てば、最も安全に攻撃できる。
「接郎、小鬼は出てきた?」
「今、出てくる所だ」
接郎は香織さんの身体に向かって駆け出す。瘴鬼が香織さんの身体から出掛かっているところを押さえつければ、仁理香に切らせる事ができる。しかし瘴鬼の動きは早く、接郎が香織さんに近づいたときにはすでにぼとっと地面に落ちる瞬間だった。接郎はとっさにポケットから沙紀特製ネックレスを取り出すと地面に頭から落ちた直後の瘴鬼に飛び掛って、起き上がろうとする瘴鬼の首にかろうじてネックレスをかける。「やった」と接郎は瘴鬼が蟹股で草むらを飛び跳ねるとシャラシャラと鈴の音がした。
「仁理香、見えるか?今、鈴の付いた……」
「見える。見えるよ接郎」
瘴鬼はシャンシャンと音がするネックレスを嫌がり、取ろうとして暴れだした。両手をネックレスに近づけるが、自分の手ではそれを触ることはできないと分かると、顔を醜く歪め両足をバタバタさせる。手に持っている白木の短刀でそれを切ろうとするが、短刀を介してもネックレスに触れる事はできないようだ。それから下を向いて首を振ったり、猛烈に飛び跳ねてそれを落とそうとしたりしたが、紙縒りでできているネックレスはしなやかに瘴鬼の首周りにまとわりついて離れなかった。沙紀グッジョブだ。しかし仁理香が駆け寄ってくると、今度は瘴鬼は一目散に逃げ出した。仁理香が追いかけるが、瘴鬼は小回りを利かせて方向転換し、すばしっこく逃げ回る。接郎も駆けながら言った。
「仁理香、はさみ撃ちにしよう。お前、瘴鬼の向こう側に回れ」
「わかった」
仁理香が瘴鬼の前に出ると瘴鬼は反転して後ろに逃げた。そして接郎はその瞬間を逃さず瘴鬼に頭から飛び掛かる。そしてうまい具合に瘴鬼の両脇をガッチリ掴む事ができた。瘴鬼の下半身は動物のような毛に覆われているが、上半身はすべすべの肌でぬるぬるしている。「このぬるぬるが人間の身体に入る時の助けになるのか」と接郎は変なところに関心しながらも、そのぬるぬるした胴をしっかり掴んだまま立ち上がり、瘴鬼を抱き上げて前に突き出した。こうなれば身長と体重で勝る接郎に圧倒的に有利だからだ。
「仁理香、今だ。薙刀で……」
しかし瘴鬼は短刀を下向きに持ち直すと、両手で思いっきり接朗の左腕を刺した。接朗は電気が走るような痛みを感じ、その先の手の感覚を失う。そしてバタっと瘴鬼を手放し落としてしまった。
「接郎、大丈夫?接郎?」
仁理香が叫ぶ。
接郎が左手を押さえて前かがみになっている一瞬の間に瘴鬼は今度は自分から接郎に飛びつくと、左半身をよじ登ってシャツの襟を掴む。そして短刀を接郎の首筋に当てた。接郎のどんな動作よりも早く、一瞬で頚動脈を切れる位置だ。
「接郎」
仁理香が叫ぶ。瘴鬼は「ッゲゲッゲ」という笑い声をあげて仁理香の方を振り向く。牽制しているのだ。仁理香の動作が止まる。
接郎の頭の中を思考がぐるぐると駆け巡った。家族もいない身だから自分が殺されてもかまわないと、とっくに覚悟はできているが、ここで自分が死んで香織さんも元に戻らなかったら、仁理香のこちらの世界での親、親代わり、友人はすべていなくなってしまう。そうなれば仁理香はこちらの世界でのいい思い出は無くなり、絶望と怒りだけを抱えて鬼の棲む世界に行くことになる。それだけは避けなければならない。……そして接郎は選択をする。この状態では自分は助からないだろう。それならば、香織さんだけは何とかしたい。それにはとにかく瘴鬼を殺す事だ。仁理香に瘴鬼を殺させる事だ。
「仁理香、僕は大丈夫だから。早く瘴鬼を切れ」
しかし仁理香は薙刀の構えを解いてまっすぐに立てて攻撃しない意思を示したが、接郎が右手で瘴鬼の首をギュッと掴んだので、瘴鬼はピッと短刀を外側にはねた。接朗は切られたと思い覚悟を決める。しかし接朗はそれでも叫んだ。
「仁理香、僕は大丈夫だ。いいから瘴鬼を切れ」
そして接郎はガクっと膝を付く。
「接郎、接郎」
仁理香が叫びながら駆け寄ってくる。
接郎が首筋に右手を当てる。しかし手に血は付かなかった。もう一度首を確かめる。まったく傷はなく、痛みも全く無かった。手の触れた先にはぶつぶつした小石の感触。シャツの下に着けている、白石を織り込んだ紙縒りネックレスだ。なんと、沙紀からもらったいかにも嘘臭いお守りが効力を発揮したのだ。
「仁理香、僕は大丈夫だ。ぜんぜん切られていない。いいから瘴鬼を追え」
瘴鬼は香織さんの方に走って行った。そして香織さんの近くで拳銃を拾うと今度はそれを仁理香に向ける。距離が十メートルはある。いかに仁理香が俊足でも拳銃を引く方が早いだろう。しかし仁理香はものすごい怒りの形相で瘴鬼に向かって突進して行った。瘴鬼が拳銃を引く。
その時、今度は瘴鬼の前に倒れていた香織さんが突然瘴鬼に飛びついて押し倒した。そしてそれでも瘴鬼は引き金を引いてしまったのだろう。バンという音がし、一瞬の静寂の後、香織さんがごろっと仰向けに転がる。香織さんの腹部から血がどくどくと流れている。そして香織さんが「うっ……」と小さな声を出して腹部の傷を両手で押さえた。
「香織さん。香織さん」
仁理香が駆け寄る。瘴鬼の方もさすがに自分の依代を撃ってしまった事に焦ったようで、すぐに香織さんの身体に入り込もうとした。しかし倒れている香織さんの身体に脚から入って、腰、胸と沈んでいっても、沙紀のネックレスがじゃまをしているらしく、首から上の部分は香織さんの身体に入らない。その隙を仁理香は逃さなかった。ビュっという風を切る音と共に、薙刀が瘴鬼の首をはねる。首は五メートルほど空を飛び、草むらの中にボトっと落ちた。
瘴鬼の身体のほうはネックレスが外れて香織さんの身体の中に消える。そして次の瞬間、香織さんの身体はすっと薄れ、消えていった。草むらには鈴付きネックレスと、血の後だけが残った。
「香織さん……」
仁理香がうつむいて呆然と立ち尽くす。接郎もようやくその場に駆け寄った。仁理香はうつむいたまま接朗に言う。
「接朗、ここでお別れ。お友達になってくれてありがとう」
「え?」
「香織さんを助けに行く。あっちの世界に。助けなきゃ」
「で、でも……」
「接朗。さようなら」
「仁理香、だめだ。行くな」
しかし次の瞬間、仁理香はしゃがみ込み、その姿はすっと消えてしまった。
「仁理香、戻って来いよ。必ず戻ってこいよ」
接郎が力無い声で言う。