母親代わり
ある日突然、仁理香から接朗あてのメールが途絶える。ここのところ、日に十通程度のペースでいい感じに来ていたメールが、ここ三日ほど全く来ない。もしかしたらあの古い携帯が壊れたのかもとは思ったが、接郎は携帯に電話をかけてみる。呼び出してはいるが電話に出ない。仕方がないので、『重要―返事をよこせ』というショートメッセージを出した。しかし、それにも返信は無い。そして翌日、接朗は再び仁理香に電話をした。
「は~い。接朗。何?」楽しそうな声だ。
「どうしんだ?急にメールが来なくなって心配したぞ」
「ああ、ごめん。ちょっと忙しかった」
「……何やってるんだ?学校に行ってる?」
「ちょっと」
「今から会えないか?」
「ごめん。ちょっと忙しい」
「そう……じゃあ、日曜日は?」
「う~ん、どうかなあ」
「何か予定があるの?」
「分からない」
「へ?」
「じゃあ、明日の夜にメールするねー」
しかし、翌日の夜になっても仁理香からメールは来なかった。頭に来た接朗は日曜日の朝早くまた電話をかける。
「おい、どうしんだ?昨日メールをくれるって言っただろ?」
「ああ、ごめん」
「お前どうしたんだ?大丈夫か?」
「……あのさあ、私、お母さんの代わりの人ができたんだ」
「へ?お母さんの代わり?」
「私のお母さん代わりになってくれるっていう人がいてさ、最近毎日、会ってる。香織さんていう人」
その話を聞いて接朗は「そいつは怪しい」と言いそうになったが、それをぐっと堪えて、その場は仁理香との会話を続けて情報を聞きだす事を優先した。
「そう……。いつ知り合ったの?」
「ちょっと前」
「……良かったね」
「で、ちょっと相談したい事があるんだ。プレゼント何がいいかなあと思って」
「……」
仁理香の性格なら、他の事を忘れてその「母親代わり」という人に没入してしまうのは分かるが、その人が何を考えているのか本当に心配だ。何か意図があって仁理香に近づいているに違いない。接朗は『写メ送って』って言おうとしたが、仁理香の化石のような携帯にカメラなんて付いていないと思って思いとどまった。
「ねえ接郎、今から買い物に行こうよ?プレゼント探すの付き合ってくれる?松浦の駅で待ち合わせ」
「今日はその人は来ないの?」
「夜会うんだ」
「そう……」
# #
一時間後、接朗と仁理香は松浦のデパートにいた。
「どこで知り合ったの?」
「二戸浜のセンター街」
「いつ?どうして知り合ったの?」
「う~ん、先週の火曜日かな?学校の帰りにちょっと二戸浜に行ったんだ。そこで声をかけられた」
「何て?」
「その人の娘に似ているんだって」
「へ?仁理香に似ている人なんてそうそういる分けないだろ?」
「なんで?」
「……で、その娘さんに会った?」
「う~ん、その人の娘さんは半年前に行方不明になっちゃったんだって。やっぱり誘拐されたのかな」
「で?」
「『私は両親がいないんだ』って言ったら、じゃあ少しお話ししたいって」
「……」
「ねえ、プレゼント何がいいかな?」
「どんな人なの?」
「やさしい人。それに話していて面白い」
「……。あのさあ、僕がメールしても返信くれなかったでしょ。最低限の返事ぐらいしないといけないよ。毎日会ってたの?」
「へへへ。そう。写真見せてあげようか?」
「え?写真持ってるの?」
そして次の瞬間、接郎はすごく驚き、そして心配になる。その女の写真を見たからではない。仁理香がカバンからiPhoneを出したからだ。
「え?仁理香、携帯変えたの?」
「うん。前のは古いから、新しいのに換えたほうがいいって」
「で、でも、前の携帯はお母さんが困った時に見ろっていうメモがいっぱい入ってるんだろ?前の携帯はどうしたの?」
「引き取ってもらった」
「へ?ドコモのお店で」
「そう」
「仁理香、それ手放しちゃだめだろ。何考えてるんだよ。返してもらいに行こう」
「いいよ別に」
「いや行こう」
「行かない。もういいんだよ。お母さんの事は忘れるんだ」
「それとこれとは別だろ?」
「べつじゃないよ」
「いいや、別だ」
「お母さんが買ってきた箱の物も捨てた」
「へ?……何で?」
「生活を変えて新しくするんだ」
「だってお前、お母さんが亡くなる前に仁理香のこと心配していろいろ買っておいてくれた物だろ?」
「接郎だって生活変えるために転校したって言ってたでしょ?」
「まあ……そうだけど……いつまでも昔の生活に縛られていてもしょうがないけどさあ……」
仁理香はスマホでその女との自撮りツーショットを何枚か見せてくれた。優しそうな、しかも綺麗な人だ。
「優しそうだね。プレゼントを上げようって思ったのは仁理香から?」
「ははは。そうだよ。本人がプレゼントくれって言う分けないでしょ」
「……」
その時、仁理香は下を向いて唐突に吐き捨てるように言った。
「アルバムも捨てたんだ」
接郎の顔がますます曇る。
「…………仁理香、大丈夫か?」
接郎は「仁理香、母親代わりの人もいいけど本当の母親の思い出も大切にしろよ」と言いそうになったが、その言葉を飲み込む。香織さんをお母さん代わりとしようとしているから本当の母親を無理に忘れようとしているという単純な理由ではないように思えたからだ。仁理香はしつこく「母親の思い出の品を捨てた」と言い続け、何か接郎を攻撃するような目つきをしている。まるで自虐的な行為を接郎に知らせて、八つ当たりをしているようだ。それならば、まずは八つ当たりを受け止めてあげて、その理由、仁理香の深い気持ちを突き止めるべきだろう。さらに接朗は考え直した。「もっと単純に考えてみよう」と。香織さんの事に夢中になって誘拐犯の捜索を忘れているのなら、それはそれでいいかも。それに、その人が本当にいい人なら、仁理香にとってもいい事ではないか。現に仁理香は顔色が良くなり、肉付きもよくなって本当に美少女になっていた。
「ねえ、プレゼント何がいいかなあ」
# #
二日後、めずらしく仁理香からメールで「見せたいものがあるから夕方、接朗の家に行く」というメールが着た。どうしたのかとやきもきしながら待っていた接朗だったが、玄関を開けて入ってきた仁理香の姿を見た時、接朗の心は、その底から掻き乱された。
仁理香は髪を切っていた。ショートボブ。冷たいほど整った目鼻立ちとそのシャープな髪型はお互いを引き立てあい、まるで仁理香の回りだけは時空が異なっているのではないかと思われるような美しさだった。そして接朗は込み上げる感情を抑えきれなくなって涙を流してしまう。
「仁理香、すごく似合ってるよ」
「そうでしょ。香織さんがこの方がいいって」
「……だけど、僕は前の長い髪が好きだった。真っ直ぐに伸びた仁理香の髪が」
「そう?私は短い方がいいと思った」
「なあ仁理香、自分を大切にしろ」
「え?してるよ」
「髪には霊力が宿るって言われているだろ」
「だいじょうぶ。私の場合は関係無いよ」
「……」
それから先は言葉にはならなかった。高校生の男子が中学生の女子を前にして泣いてしまったのだ。
# #
香織さんという女性に会う機会はすぐに来た。翌日、仁理香からメールが来る。
「今度の土曜日にピクニックに行こうって」
仁理香が香織さんに接朗の事を話したところ、「仲のいいお友達がいるなら、その人も呼んでピクニックに行こう」という話になったそうだ。
穏やかな初夏の朝、接朗の家の前にワンボックスカーが止まり、仁理香と女が下りてくる。女は接朗を見ると丁寧にお辞儀をした。四十代前半だろうか。上品で優しそうな人だ。
「西脇香織と申します。いつも仁理香がお世話になっております。ありがとうございます」
接朗はこの挨拶に少しムカついた。自分の方が先に仁理香の面倒をみていたのに……。しかしまあ、そんな嫉妬をしてもせん無い話だ。三人は車に乗って、開けた草地で他の人が絶対に来そうもない場所を探した。それから車に積んであったテーブル、イス、パラソル、食料を出して、青空の下での食事を楽しむ。仁理香は隣に座る「香織さん」と楽しそうに話していた。接朗といる時にも見せた事がない無邪気な顔。そして女の方も、仁理香にサラダを分けたり、仁理香がコップをテーブルの端に置く事を注意したりと、本当に我が子のように接している。しかし接朗はやはり違和感を拭えなかった。たった半年前に娘が行方不明になっているというのに、こんなにくつろいでピクニックを楽しむものだろうか。もしもそれが死別だというのなら、そういう事もあるかもしれない。しかし行方不明だというのなら、まだ必死でどこかを探しているのが普通ではないか。だから女がテーブルの席を立って伸びをしながら仁理香の後ろに立った時も、接朗は女の行動を注視していた。
女はイスに掛けてあったトートバックの中を探している。仁理香の方は両肘をテーブルに付いて顎を乗せ、正面の接郎をボーっと見ている。いかにも満腹で幸せという顔だ。それから女はテーブルから十メートルほど離れた草むらに行き、仁理香に背中を向けたまましゃがみ込んだ。極めて不可解な行動だ。仁理香が後ろを振り向いて、女に声をかける。
「香織さん、どうしたの?大丈夫?」
その時、接郎の目はしゃがんだ女の背中に釘付けになる。背中の真ん中がぼこっと浮き上がったかと思うと、そこから幼児ほどの大きさの顔が突き出てきたのだ。頭上に一本の角が生え、浅黒い皮膚。そしてその顔つきは皺だらけで老人のものだった。信じられない事に、女の身体の中から別の生物が出てきた、しかもそれは皮膚を裂いて出てきたのではなく、何か三次元の物理法則を超えた原理によって、新しい質量がぬるぬると女の背中から滲み出してきたという事た。それは右腕と左腕を順番に出し、胸、腰、足、と女の背中から抜け出てぼとっと地面に落ちた。身長六十センチ。猫背でがに股だった。接朗の頭には『小鬼』という二文字が浮かぶ。上半身は裸で浅黒い肌。下半身はこげ茶の毛で覆われている。女の方は小鬼が身体から出てきた瞬間に少し身体がガクっと揺れたが、そのまま地面に崩れ落ちるように倒れて、死んだように動かなくなってしまった。
小鬼はその半分動物のような姿に似合わずに白木の短刀を持っていた。そして短刀の鞘を抜くと、両手でそれを上向きに持ちかえた。
「香織さん」
仁理香はその小鬼には全く気が付いた様子がなく、立ち上がって倒れた女に駆け寄ろうとする。なぜか小鬼の姿は全く見えていないようだ。接朗は焦りまくる。
「仁理香、危ない。小鬼がいる」
「え?なに?」
接郎は席を立ってテーブルを回りこみ、仁理香を追って走り出す。
「仁理香」
しかし小鬼の方はひょこひょこと跳ねるように歩くと仁理香のすぐ目の前に立って下から仁理香の腹を刺そうと構えた。このまま走っても間に合わないと思った接朗は、頭から小鬼に向って飛び込んでタックルを食らわせる。小鬼の短刀は一瞬の違いで仁理香の腹には届かなかったが、左手の内側に当たってそこを切った。小鬼は接朗の両腕に肩の部分を掴まれて押し倒され、『ぎゃー』っという声を上げる。仁理香がその時やっと反応した。
「接朗、何そいつ?」
接朗はそのまま地面に小鬼を押さえ込もうとしたが、小鬼の身体はぬるぬるしていたので接郎の手をすり抜けてしまう。倒れこんでしまっている接朗、呆然としている仁理香を尻目に、小鬼はまたひょこひょこと歩いて女が座っていた椅子に登り、バックの中に頭を突っ込んだ。そして中から引っ張り出したのは小さな拳銃だった。仁理香は再び小鬼を見失ったようで、不自然に揺れるトートバックを不思議そうに見ている。
「仁理香、小鬼が見えているか?」
「見えなくなった」
小鬼が拳銃を今度は接郎に向けて近づいてきたので、接郎は焦る。そしてとっさにテーブルの上のコーラのペットボトルを掴むと蓋を開け、親指で蓋をしながらそれを五~六回強く振った。噴出すコーラを小鬼に向けてブシューっと吹きつける。コーラは小鬼の顔と胸にもろにかかってシャワシャワと音を立てて流れた。
「ギャー」
小鬼は顔をゆがめて怒り、顔にかかったコーラを手でふき取ろうともがく。
「仁理香、泡がたっているところ。見えるか?」
「見えた。接朗。こいつ殺してやる」
しかし仁理香が小鬼に向って歩き出そうとした時、小鬼は拳銃を持ったまま仁理香を回避するようにひょこひょこと駆けって倒れている女に近づくと、その背中に頭を突っ込んで、またその身体に入っていった。現れた時とは逆にその身体の中に文字通り「入って」行ったのだ。そして次の瞬間、今度は女の身体自体が薄れていき、接郎の視界からも消えて行った。
「仁理香、大丈夫?」
接朗が仁理香に声を掛けると、仁理香はしゃがんで下を向いたまま涙をポロポロ落としていた。接郎はなんと声をかけていいか分からないまま、仁理香の前に立ちつくす。その時、仁理香の手から血がしたたり落ちた。
「仁理香、血が出てる」
「たいした事ないよ。私なんてどうだっていいんだ。生きていたってしょうがないのに。私のせいで香織さんが変なのに取り憑かれたんだ」
「……おい、何言ってるんだよ。あの女は母親代わりとか言ってお前を騙して近づいてきたんじゃないか」
「違うよ。私と仲良くなった香織さんにあの変なのが取り憑いたんだ。探しにいかなきゃ。たぶん、あっちの世界に行ったんだ」
仁理香は肩を震わせ眼を大きくカッと見開いている。必死に怒りを堪えているのだ。接郎は怒りで仁理香がどうかなってしまうのではないかと思い、それを防ぐために必死で会話を繋ごうとした。
「あっちって?」
「鬼が棲んでる世界」
「……お前、行けるの?」
「私はまだ行けない。完全に鬼になっていないから。完全な鬼になったら行けるってお母さんが言ってた」
「え?」
「完全に鬼になるんだよ。怒りが身体を支配して。そんな事、絶対嫌だと思っていたけど……もういいや」
「……」
接郎はなんとか話題を変えて仁理香の気を他の事に向けようとする。
「あの小鬼、たしかに仁理香の言うとおり、仁理香と仲良くなった香織さんに憑いて身体を乗っ取っていたんだな。気持ち悪い奴だなあ」
「あいつ、絶対探し出して殺す」
「でも見えないんだろ?まずどうやって戦うかを考えなきゃ」
「……うん」
「……それより仁理香、血が垂れてるぞ……ナイフなんかで傷つける事はできないって言ってたじゃないか」
「切られる時が分かれば傷はつかない。身体が固くなるから。でも見えない時に切られると駄目なんだと思う」
「どういう時には仁理香にも小鬼が見えた?」
「うん、接朗が抑え付けて『ギャー』って鳴いた時、それとコーラが掛かってシュワシュワしている時。それからまた見えなくなった」
「そうか。僕はずっと見えていた。香織さんの背中から出てくる所から最後にまた戻るところまで。でも最後は消えちゃったんだけどね。香織さんの身体と一緒に」
「だからむこうの世界に行ったんだ」
「しかしさあ、これはかなり不利だな。仁理香にはあいつが見えないんだから。急に現れて襲われたら防げないな……」
「う~ん……」
「仁理香、あの小鬼は何だろう?」
「う~ん、分からない」