素性
土曜日、接郎は仁理香の家に行った。お母さんが亡くなって一人で住んでいる仁理香がちゃんと生活できているかどうか、接朗がどうしても見に行くと言いはったからだ。最初は嫌がっていた仁理香だったが、「友達だから家にも行きたい」という接朗の言葉で、しぶしぶ了承した。
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「ここから結構大変だよ」
早朝に仁理香が接郎の家まで迎えに来て、それから二人は自動車で隣町に行くと山道の入り口で車を止めた。仁理香は山道を少し歩くと、いきなり道から反れて森の中の急勾配の斜面を登りだす。接朗は相当山奥に入るかと思って覚悟を決めたが、十メートルほどの丘を越えると今度は下り坂になり、やがて目の前が急に開けた。周りを濃い木々に囲まれた小さな窪地だ。片隅にはその一枝だけが見事に紅葉している楓の大木が立っていて、その下に低い小屋が見えた。今にも崩れ落ちそうな、錆びたトタン屋根のボロ小屋だ。柱は傾き、窓は割れ、木の壁も朽ちかけていた。接朗は驚いたが、最初に小屋の事を言うのは気が引けたので、最初の一言は楓の木について聞く事にした。
「この楓、枝が一つだけ紅葉していて面白いね。一年中そうなの?」
「そう。これお母さんが好きでねー。ねえ、こっち来てよ」
仁理香が楓の幹の反対側に立って地面を指差す。
接郎がそこに行くと、いきなりガクっと膝が落ち・・・いや、地面に穴が開いてそこに接郎の身体は落下した。ジャボっという音がして、両足が泥水に浸かる。落とし穴だ。
「……」
接郎はあまりに古典的な悪戯にあきれかえって声も出ない。
「ねえ、大丈夫?」
接郎がムッとした顔で黙って手を差し出すと、仁理香がそれを掴んでグッと上に引っ張った。片手だけで接郎を軽々と吊り上げる。華奢な身体なのに、本当にすごい力だ。接郎は仁理香の真正面に立ち、両肩に手をおいて真剣な顔をしていう。
「お前さあ、友達を作ろうと思ったら、こういう事はするな。だから学校でも友達ができなかったんじゃないか?」
「もういいんだよ。接郎が友達だから。『何があっても仁理香と絶対友達だ』って言ったよね?」
「……」
「ねえ、言ったよね」
「……ねえ、この小屋さ、これ雨漏りとかするんじゃない?」
「だいじょうぶだよ。寝る所には雨は入って来ない」
内部はもちろん電気も無く、小さな窓からの光でその室内が見えるようになるまで、接朗にはずいぶん時間がかかった。仁理香は接郎にズボンを脱ぐように言い、接郎が恐怖を感じながらもしぶしぶそれに従うと、仁理香はそれを小屋の外にあるタライでじゃぶじゃぶ洗って、楓の枝から垂れている紐に干した。そして仁理香は小屋に戻るとボロボロの座布団を接朗にすすめ、カメから水を汲んでお湯を沸かし始める。
「パンツまる見え~」
「お前が悪いんだろ?」
「ははは」
「小学生かよ」
「……ねえ、驚いたでしょ?」
「はあ?何が?」
「小屋がボロボロで」
「お前、そんな事よりズボンをぬいでここにいる事が気になって、この際、小屋なんてどうでもいいさ」
「ははは」
「仁理香、お金は大丈夫なのか?お前、パラグライダーも自分で金払っていただろ?」
「お金はね、山に隠してあるんだよ」
「それならいいけど。食べ物は?」
「どこにあるか教えてあげようか?」
「いい。誰にも言うなよ、それを。それより食事はどうしてる?」
「まあ魚取ってきたり、適当に……ねえ、お茶いれたよ」
「ああ。ありがとう」
「ねえ接郎、これを見て」
仁理香はそう言うとすぐそばに置いてあるアルバムを接朗に渡した。何度も何度も繰り返し見ているのだろう。角が擦り切れてボロボロになったアルバムだ。それを空けると仁理香と両親の写真がいっぱい貼ってあった。仁理香が小学校低学年の時の写真のようだ。両親は優しそうで、仁理香はその愛情を一身に受けているように見えた。所々にかわいい文字で手書きのコメントが書かれている。
「仁理香、良かったな」
「え?何?」
「お前、両親に愛されて育ったんだ」
「……」
「僕は……ちょっと安心したよ」
これを仁理香は毎日見て両親の事を思い出しているのだろう。そう思うと接朗は涙腺が緩みそうになった。
「なあ、お母さんは鬼じゃないの?」
「違うよ」
「お父さんは?」
「お父さんは鬼とはぜんぜん関係無い」
「……」
「お母さんも鬼の子なんだけど鬼にはならなかったって」
「へえ。でも仁理香は鬼になったの?」
「まだ途中なんだけどね……」
「……」
接朗はふと部屋の片隅に、新しい段ボールの箱が置いてあるのに気がつく。その他の物はすべて朽ちかけていると言ってもいいほど古いのに、その中にあってその段ボール箱だけが新しく、現代日本の消費社会の匂いを漂わせていた。生活に立ち入って悪いとは思いながらも接朗が聞く。
「あの箱は?あれだけ新しいね」
「ああこれはね、お母さんが春に持って来たんだよ。私が高校に入ったらこれを使うようにって。まだ来年なんだけどね。ははは」
そう言うと仁理香は箱の中から新しい文房具、洋服、参考書などを取り出して接朗に見せた。
「セーラー服もここに入っていたんだよ」
仁理香のお母さんは自分の命が終ろうとしている事を知り、仁理香が来年高校に進学した時のために準備をしていたのだ。そう思うと接朗はついに涙が抑えきれなくなり、目頭を押さえて下を向いてしまった。
「どうしたの?」
仁理香が接朗の近くに寄ってその顔を下から覗こうとすると、接朗は顔を見られないように、……仁理香の肩を引き寄せるとグッと抱きしめた。
「ははは。どうしたの?」
仁理香が笑う。
# #
帰りがけに二人はまた魚料理屋に行った。しかしここでちょっとした事件が起こる。仁理香が料理を食べている最中に、他の客が頼んだ肉じゃがが、間違って仁理香たちのテーブルに運ばれてきたのだ。それを見たとたん、仁理香の顔は引き攣り、口を押さえて猛烈な勢いでトイレに駆け込んでしまった。吐いているのだ。肉料理を見ただけで吐いてしまうというのは本当だった。
車の中で接郎が聞く。
「ねえ、小さい時から肉は食べられなかったの?」
「…………そんな事ない。最近」
「どうして?何か切欠があるの?」
すると仁理香はまた口に手をあてて、必死に嘔吐をこらえるしぐさをし、車を止めて路肩で吐いてしまった。
「ごめんね。もう聞かないよ」
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その晩、接朗はスカイプで沙紀と話していた。
「仁理香は身体が鉄のように堅くなるって言うんだ。本人が意識していれば刃物じゃ切られないって言ってるんだけど拳銃だと……」
「へー。金鬼かも」
「え?」
「もしかして苗字は金井じゃない?」
「……そうだけど。金井仁理香」
「へー。へー。へー。まだいたんだー金鬼が。へー。へー。へー」
「……」
「ねえ接見、昔は日本で金が豊富に採れたって言うでしょ。黄金の国って。でも急に採れなくなったよね。何で?」
「さあ……」
「人間があんまりたくさん採るから金の神様が怒ったんだ。それで人間の女の中に自分の分身を入れて、金鉱がもう見つからないように隠させたって。その末裔が金鬼」
「ほんと?」
「ふふ。でも二十年ぐらい前からまた急に金鉱が発見されるようになったんだよー。知ってる?……見つけた企業は発表してないんだけどね」
「……」
「それは金鬼の一族が滅びたからだろうって言われてたんだけど、まだ生き残りがいたんだ。……ねえ、金鬼一族の女は絶世の美女だって言うんだけど」
「…………まあ、その片鱗はあるかも」
「えええ?いいなー接見。写メ送ってって言ったのに……」
「あっ、そうだった。今度」
「……絶対、送ってよね」
「そう言えば、仁理香のご両親の写真を見せてもらったけど、普通の人に見えた。っていうか、仁理香が子供の時の顔も今とはぜんぜん違って別人みたいなんだけど。今はなんというか、雰囲気があって……」
「綺麗になったんでしょ?」
「それで沙紀に聞きたい事があるんだ」
「なに?」
「父親は鬼とは関係無いって。それで母親は鬼の子だけど鬼にはならなかったって。仁理香は鬼の子で、だんだん鬼になっていくって言うんだよ。……何で仁理香だけ……」
「へえ。自分で選んだのかな?お母様、もう亡くなっているんでしょ?」
「春にね。亡くなったそうだ。……なあ沙紀、鬼って何?沙紀の家に妖怪事典があっただろ?それに載っていたよな、鬼も。っていう事は鬼も妖怪の一種なのかな?」
「鬼は人間のDNAの中で生きている。そういう生き方を選んだ種族なんだ。妖怪はぜんぜん違う。もともとそういう生き物」
「人間のDNAの中に鬼になる遺伝子があるって事?」
「そう。もちろん全員じゃないけど。その一族の子孫の……」
「それなら鬼はすごくたくさんいてもいいんじゃないか?何十万人も。もしかした人間に混ざって生活してるって事?誘拐犯の奴らとか?そんなんなら、どこかから秘密が漏れて、世の中に存在が知れ渡ってていいんじゃないか?なんでそういう話になってないんだ?」
「いい質問だね」
「……」
「鬼の遺伝子を持っているだけでは鬼にはならない。それを発現させる環境か行動があるって言われている」
「じゃあ仁理香の場合は?」
「……それは分からないけど」
「仁理香が鬼になるのは止められないのか?」
「止められないだろうねえ。一度発現してしまうと」
「う~ん。かわいそうだなあ、だんだん鬼になっていくなんて」
「鬼になるのがかわいそう?」
「ああ」
「接見、それは違うかもしれないよ」
「……じゃあ鬼になった方が幸せだって言うのかよ?鬼の方が強いから?」
「そういう意味じゃなくて。『鬼になるのがかわいそう』じゃなくて『かわいそうな状況だから鬼になった』んじゃないかな」
「母親が死んだから?……たしかにそれはかわいそうだけど」
「ねえ、接郎を襲った鬼たちの事、仁理香さんは何か検討がついているの?」
「いや、ぜんぜん……。やっぱり警察に言ってもだめそうだしなあ」
「でしょー」
「でも僕と仁理香でもどうしようもない気がする。どうしたらいい?お前、何か考えてくれ……」
「う~ん」
「ところでさあ、仁理香は肉が食べられないんだ」
「……」
「ちょっと肉を見ただけで吐いちゃう。今日、本当にそうだったよ」
「……」
「もう顔面蒼白でさあ、肉じゃがが間違って運ばれて来たんだけど。なんかエイリアンの幼体でも見るような感じで。ちょっとあれは異常だなあ。鬼だっていう事と関係あるのかな?」
「……さあ、分からない」
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続けて接朗は前の日に送られて来た携帯通話料の請求書を見て、その電話番号をコールした。つまり少女たちに渡してしまった携帯に電話をしてみたのだ。緊張する瞬間。
「…………はい」
あの時のリーダーだと思われる女子が怪訝そうな声で応答する。
「ああ……出てくれてよかった」
「……」
「僕は、その携帯の持ち主で……」
「ああ、あの時のクソきったねー最低ヤローか」
「……」
「なんでそっちから電話が掛かってくるのかなって焦ったじゃないか」
「おい、電話掛けまくってるなよ。通話料の請求書が来たぞ。十万円の請求書だ」
「十万円の請求書?なにそれ?おいしいの?」
「普通の高校生なら払えない金額だぞ」
「でもお前は払えるんだろ?……結構だ」
「いや『結構だ』じゃなくてさ、電話控えろよ。パケ通信はいいけどさ。どこにかけてるんだよ。ってか……『そっちから電話』ってどういう意味だよ?」
「うん?」
「お前、鬼か?僕は鬼たちに誘拐されて殺されそうになったんだぞ」
「お前の撮った写真なあ、人間から見ると私たちがどう見えるのかってすっごい人気になってなあ」
「おい、質問に答えろよ」
「これなら拡散されても問題無かった。可愛く撮れてる。うん」
「ああそう。良かったな」
「あの娘は元気か?三行でよろ」
「だからそれで聞きたい事があって電話したんだ」
「お前に話す事は何も無い。以上」
「おい」
…………