誘拐
土曜日の朝、接朗は新しい携帯を買いに行くために家を出た。
接朗の家は他の人家から離れた山間の草地に建っている。町の中心に出て行くにはちょっとした山を超え「切通し」というものを通らなければならない。
接朗がその部分に差し掛かると、安っぽい白のセダンがドアを開けっぱなしにして止めてあった。エンジンも掛けっ放しだ。そして男二人がピンクのジャージを着た少女と揉み合っている。たまたま歩いていた女の子を無理やり車に引きずり込んで誘拐しようとしている、……そうとしか思えない光景だ。そしてその少女は仁理香だった。
「仁理香」
接朗が叫んで駆けつける。すると男の一人がすばやく胸のポケットから拳銃を取り出して接朗に向けた。もう一人の男はサバイバルナイフを仁理香に突きつける。こいつらプロだ。
「神田君、とりあえず車に乗ろうよ」
仁理香が急に大人しくなり、しかし完璧に冷静な口調でしゃべると、ナイフの男がその腕を掴んで仁理香を車の助手席に押し込んだ。もう一人の男が言う。
「お前も乗れ。後ろの席の右だ」
接朗は「車に乗ったら終わりだ」と思ったが、仁理香が乗ってしまっているのだから自分も乗らざるを得ない、そう思って言われた通りに右後ろの席に乗る。ナイフの男がその左に乗り込んできて接朗の脇腹にナイフを突きつけた。男の顔は赤黒く日焼けし、小柄だったが首や腕の筋肉が異常に発達している。どう考えても接郎には争いで勝ち目はなさそうだ。拳銃の男は運転席に座り、右手に持った拳銃を隣の仁理香に向けたまま車を発進させる。
車は海沿いの崖の上にある草原の道を北に走った。「仁理香は土曜日の朝にも家まで様子を見に来ていたのだ。やっぱりストーカーだ」と接朗は思った。今はそんな事よりもこの連中から逃げる方法を考える事に専念すべきなのだが、「誘拐される」「命の保証も無い」という極度の危機感からか、接朗の意識は目前の事象から離れて客観的な考察に飛んでいってしまう。
車はしばらく走ると高速道路に入る。どこまで行くのだろう。そして、それまでずっと黙って動かなかった仁理香が、ぼそっと言葉を発した。
「神田君、こいつら殺していいよね?」
……接朗はどう答えたらいいか分からずにとりあえず
「今は高速だから運転手を殺すと危険だよ」
と間の抜けた答えを返した。しかし接郎の左隣の男は仁理香の発言に切れたようで、ナイフを接朗の脇腹から離して助手席の後ろから仁理香の首に突き立てる。
「おい、お前、自分の立場分かってるのか?静かにしろ」
しかし運転席の男がそれを制して言った。
「啓太、やめろ。女の方を傷つけるんじゃない。殺すのは小僧の方だろ。とりあえず小僧の足を刺せ」
そして男がナイフを仁理香の首から離した瞬間、そのチャンスを仁理香は逃さなかった。助手席の椅子を激しく後ろに倒す。後ろの席の男が不意を突かれて胸に椅子の一撃を食らう。運転席の男が拳銃を発砲するのを躊躇したわずかな間に仁理香は椅子を倒して寝た姿勢のまま左足で運転席の男の鼻を眼にも留まらぬ速さで蹴った。両手にハンドルと拳銃を持っているが故に手で仁理香の蹴りを払う事ができなかった男は、それをまともに顔面に食らってしまう。バキとグシャっという音が重なった。鼻骨陥没骨折だ。か細い脚なのにその蹴りが猛烈な速さだから、まるで木刀で叩かれたような状態なのだろう。それから仁理香は両足を天井まで上げ、天井を蹴って後ろの男の胸を椅子で強く圧迫すると、そのまま後ろでんぐり返しをして後部座席の上に屈みながら立った。そして下に押し付けられている男の顔を両足首で挟むと、正拳でその顔面、鼻の部分を突いた。再びバキっとグシャという音がする。
車の方は急ブレーキが掛かって止まったが、幸いにも過疎地の高速だ。前にも後ろにも車なんて走っていない。
「降りろよ、早く」
仁理香が助手席のイスを元に戻しながら平然と言うと、運転席の男はすぐにドアを開けて逃げて行った。後部座席の男の方が重症のようだが、こちらも自分でドアを開けると転げるように車を降りる。
仁理香はすぐに運転席に身体を移動させると、接朗を呼んだ。
「神田君、隣に来て」
接朗は車を降りると辺りを見回した。二人の男を確認したかったのだ。大怪我をしているとはいえ、一人は拳銃を持っている。しかし既に男たちは車のかなり後方を走って逃げていた。それから接朗は後部座席のドアを閉めて助手席に座った。隣の仁理香を見ると実に嬉しそうにハンドルを握っている。
「私、一度運転してみたかったんだ」
とっくに「中学生が運転なんかするなよ」とか「危ないからゆっくり走れよ」と言う気力も失せ、その必要性も感じなくなっていた接郎だったが、一言だけ言葉を発した。
「仁理香、ありがとう」
仁理香はそれを聞くと満面の笑みを浮かべる。
「じゃあ、今日はこのままパラグライダーをやりに行こう」
「……そう……だね」
# #
接郎と仁理香は穏やかな晴天の下、日本海を見下ろす広大な草原でパラグライダーを堪能した。二人とも初心者だったのでインストラクターとのタンデムだ。仁理香は美少女だから、インストラクター(男)はすごく緊張したのではないか。でもこの娘に関わると命が無いよ、っと接朗は心の中でアドバイスをした。まるで仁理香を袋叩きにしていた少女たちのようだ、と接朗は自分を笑う。あれからわずか四日しか経っていない。
# #
二人は三時近くになって昼食を食べた。最初、接郎はファミレスに行こうと言ったのだが、仁理香はどうしても嫌だと言う。肉を全く食べられないし、他の人が肉を食べているのを見ただけで気持ち悪くなって吐いてしまうという。「だからお前、そんなに痩せているんだよ」と接郎は言い、それ以上深く考えることもなく、二人は海辺のひなびた魚料理屋に行った。そして接朗は再び仁理香の振る舞いに驚く。食事が運ばれてくると、いきなり靴を脱いで椅子の上に正座し、テーブルに両手を付いて深々とお辞儀をしたのだ。
「五穀の神様、火の神様、今日も私に食事をお与えくださってありがとうございます。いただきます」
それから仁理香は何事も無かったように普通に座り直して、それを食べ始めた。
「仁理香、すごいきちんとした挨拶だな」
「お礼をきちんと言わないと、食事ができないんだ」
「へえ……。ところでさ、車の中で危なかっただろ。仁理香が全く気にしてないみたいだったから、今まで言わなかったんだけど、運転席の男、拳銃を持ってただろ?撃たれたらどうするんだよ」
「ははは、今朝の事?」
「そうだよ」
「大丈夫だよ」
「僕は心配して言ってるんだ。助けてもらって感謝してるけど。結局あいつは発砲しなかったからモデルガンかもって思うけどさ、もし本物だったら顔面骨折してても拳銃撃つかもしれないぞ?」
「殺しちゃおうと思ったけど、昔お母さんが言ってたの思い出したから。人でも動物でも鬼でも殺しちゃいけないって」
「そういう問題じゃないんだけど……しかしお前、細い身体なのにすごい力だなあ」
「……」
「でさあ?もう一つ聞いていい?」
「何?」
「お前、最初に会った時、ゴミ袋被せられて木刀で叩かれてただろ。JKたちに。何でそんな事されたの?」
「さあ?」
「あいつら誰?」
「分からない。だっていきなり袋被せられたから」
「でも声で分かるだろ?」
「分からない」
「う~ん、本当に心当たり無いの?」
「ねえ、明日、天鴫山にロッククライミングに行こうよ」
「へ?明日?だめだよ。僕、引っ越してきたばっかりって言っただろ?実はちょっと前に両親が亡くなってね、一人で引っ越して来た。だから自分で生活しなきゃいけないから。色々買い物とか。ほら、携帯も買いにいかないと。
「じゃあ、私も一緒に行く」
「……う~ん」
「ねえ」
「じゃあ、こうしよう。やっぱり買い物は僕が一人で行く。それで、携帯のメアドを教える。僕からメールするよ」
「本当?」
「ああ。本当」
「わかった」
「あとさあ、お前、学校に行けよ。絶対に行け」
「……」
「お母さんは何て言ってるの?」
「……」
「おい、返事は?」
「わかった」
「じゃあさ、仁理香の携帯のメアドと番号、ここに書いて」
「うん」
その時、接朗はある事に気が付いた。仁理香の携帯が十年も前の古いタイプなのだ。
「仁理香、古いの大事に使ってるなー」
「ああ、これね。お母さんがね、困った時にこれを見なさいってなんか色々メモとか入れててね」