第一章『恩寵』五
超能力、異能力、ESP、神通力、仙道、魔法などなど、この得体の知れない能力を表す言葉は沢山ある。
僕が以前所属していた団体――リデル財団と言った――では、この能力のことを『恩寵』と呼んでいた。
神様からの賜わり物とは、なんともロマンチックなネーミングだと言わざるを得ないが、最初の恩寵所持者である団体の創設者の子供が、信仰の篤い人間だったことに由来する。また、恩寵を始めて認識したのが産業革命の走りともいうべき時代の欧州であったことも大いに関係しているだろう。
その時代、超常現象は科学的な解明がされずに、神か、悪魔、あるいは妖精の仕業にされることが常だった。
当人が魔女として処遇されなかった事を幸運と思うべきだ。
そして今は昔と言うべき一九七〇年代。日本で超能力ブームがあった。当時、もちろん僕は生まれていなかったが、ものの本によると金属製の食器を擦り、曲げる事が出来る恩寵所持者がブームの火付け役だったとある。
その人物の来日に前後して漫画や小説で超能力者を主人公にした作品が多く発表され、それらの作品の中で超能力は圧倒的な存在として描かれた。
ある者は強力な念動力であらゆる物を捻じ曲げ、自らの身体を浮遊させ、宇宙空間をも飛翔してみせた。
ある者は身体能力、五感を向上させ驚異的な運動能力と回復力を得た。
ある者は念動力、瞬間移動、念話、透視等、ひとりであらゆる能力を駆使した。
圧倒的な能力と絶対的なヒーロー!
それは、そうだろう。物語とはそうあるべきだ。だからこそ読者は「やった!」「すごい!」とカタルシスを得るのだ。現実に居る僕ら恩寵所持者なんか、彼らに比べればがっかりで残念で微妙で取るに足らない存在でしかなく、物語の主役を張るには役者不足もいいところだ。
恩寵は基本的に大したことが出来ない。
例えば、だ。先に挙げた食器曲げの能力。非常な集中力を醸したあげく、食器を曲げてしまって一体どうしようというのか?
これがもし曲がった食器を元に戻す、といった環境と財布に優しい能力であったなら、僕は喝采しただろう。だが現実は惜しくもそうではなかった。食器を曲げるのが目的ならば机のふちにでもあてがって力をかければいいし、ねじ切るのが目的ならばニッパーのような工具でも利用したらいい。
恩寵に頼るより肉体を、知恵を、道具を行使した方が余程簡単なのだ。
そして、稀に強大な恩寵を得たとしても、それはコントロールが難しい、ピーキーな力として現れた。
発火能力というものが世に知られている。無から火炎を生ずる能力だ。外連味があるというか、見た目が派手なので漫画やアニメで取り上げられることが多い。しかし、これが現実の恩寵となるとまるで使えない。
低い出力では物の役に立たず、高出力においてはいきなり制御が難しくなる。何を焼くかにもよるのだが、大抵は本気を出せば黒こげ、手加減をすれば生焼けになってしまい、調理にも金属加工にも使えなかった。
これは慣れやなにかでどうにかなるものではなかった。
フィクションの世界であれば悪魔だとかモンスターに対して遠慮の無い一撃を見舞う、ということが出来るかもしれないが現実にはそのような対象はいない。
恩寵が発見されて以来、リデル財団所属の研究員がこれらの能力のコントロールについて研究してきたが、捗々しい成果は上がっていなかった。彼等研究員の名誉のために申し添えると、これは彼等の研究努力が足りなかったからではない。リデル財団はこの方面にあまり重きを置いていなかったのである。
力を注いでいたのは、恩寵によって現れた現象を分析、解明し一般的な技術として利用する方法だ。それは粗悪な鉄鉱石からしなやかで強い鋼を作る技術だの、均質な結晶を作る為の環境整備の方法論だのといった、僕のような門外漢にはちょっと理解が及ばない専門的な功績だった。
そしてリデル財団はそれらの研究を元に大小様々な特許を世界中に六ケタも取得しており、そこからの収入を原資にして、とかく孤立しがちな恩寵所持者の保護と支援に努めているのだった。
ちなみに僕の能力に『威風堂々』と名を付けたのは、リデルの人達だ。曰く「しょっぼい能力なんだから、名前でくらいハッタリを効かせたらいいじゃない」との事だった。
超能力に名前が付くなど、正直言えば羞恥の極み。
しかしそこで先輩達に逆らっても波風を立てる事になるし、考えてみれば能力の発動時に名前を叫ぶ必要も無いわけで、僕としては渋々ながら「まあいいか」と容認し、定着した『威風堂々』という名前だった。
ともかく。彼らの研究の結果、恩寵は人間の脳が引き起こす力だということが判明している。意思とか精神とか感情とかいった、そもそも脳のどこらへんにあるかも分からない曖昧なものが実際の現象として作用しているらしい。
だが人間の脳のキャパシティというのはそう大きく無い。
普通に生活するだけでも、脳は潜在抑制という機能により、多すぎる情報をそぎ落としている。
目に入るもの、耳に聞こえるもの、過去の出来事など全ての情報を認識、記憶して処理していては脳はすぐにパンクしてしまう。それでなくても、鼓動や呼吸やホルモン分泌等々、脳が密かに活動している領域は大きい。そのうえ恩寵の行使、制御を行うなんて、普通の人間には完全にオーバーワークなのだ。
結局のところ、恩寵とは労力に見合わない扱いづらい代物だ。
だから恩寵の数少ない利点は、今回の様に恩寵所持者の意識のみで現実に干渉できる点にある。僕が恩寵を使うことによって、誰が助けたのか分からないままに酔漢の前で怯えている少女を救う事ができた。
ところで、僕が今述べていることは先ほど僕自身が『威風堂々』を器用にコントロールして声帯模写をしたことと矛盾している。
そう、僕は数少ない恩寵所持者の中でもその一点に於いて特別だ。
そして、その特別は僕が絹と共にあるからである。
だから僕は恩寵を絹の為に、絹の為だけに使うと決めている。
他の如何なる物にも興味は無い。
僕は絹の為に在ればいいんだ……。
――ギキィィィィー。
電車のブレーキ音が響く。
酔漢の鼾に耐える物憂い乗客達と、僕の捉われたナイーブな思考を乗せていささか重量を増したはずの列車が定刻通りに苺ヶ原駅に到着した。九割方の乗客はここで下車し、あるいは街へ、あるいは別の路線に乗り換える。
絹達と眼鏡の少女も人の流れに沿ってホームへと降りた。
中年は未だ夢の中にいる。ひょっとしたら彼もここで降りる予定なのかもしれない。起こしてやるべきか、と思ったが本当に降りるのか、それとも更に先に目的地があるのか僕には確かめようも無いので放置することに決めた。
眼鏡の少女はホームの上で何度もお礼を言った。顔を紅潮させ、これまた何度も頭を下げる彼女に絹は早く学校に行くように促した。彼女が身に着けている制服から、電車を乗り継いで数駅先の学校に通っていると察せられたからだ。
名残惜しそうな少女が先に発つと、絹と寧々子ちゃんは再び手を繋いで歩き始めた。人の動きが入り乱れる駅構内を抜けて駅前通りに出る。
両側に白やピンクの花を付けたハナミズキの街路樹が並ぶこの通りを、高校まで約十分の道程だ。
「ね、絹。さっきの酔っ払いを怒鳴りつけたのは誰だったのかな?」
絹と寧々子ちゃんの付き合いも長いが、僕は彼女に恩寵の存在を隠し通す事に成功していた。
「さーあ? たまたま心優しい広島人でも乗り合わせてたんじゃない?」
絹は軽く微笑みながら応じた。
二人はそんな風に話しながら歩いていたが、不意に絹が立ち止まる。
「ひゃう」
繋いでいた手を引張られた格好になって寧々子ちゃんが可愛い悲鳴を上げた。
「ごめん。私、ちょっとヤボ用」
「へ? え?」
呆気にとられる寧々子ちゃんを置いて、絹は路地へ入っていく。
「ごめんねー!」
一度だけ振り向いてそう言うと、絹は早足に十字路を曲がった。
メインストリートを少し外れるだけで道路は人影が消えひっそりとしている。絹とは反対の駅方面へ、サラリーマンが一人二人と忙しげに歩いているだけだ。
「どうした?」
尋ねる僕に呆れ顔で絹が応えた。
「ないわー。シロウトはないわー」
酔っ払いを脅かした時のことですね。
「ああ、うん。すごく反省してます。とても恥ずかしいです。許してください」
「でも。まあまあお疲れ様だったから、ネクタル奢ってあげる」
絹はそう言って意地悪く微笑んだ。どうやら寧々子ちゃんと別行動をとったのはそれが目的で、言葉とは裏腹に僕の働きをある程度は評価してくれたようだ。
ネクタルとは缶ジュースの名前で、僕の好物である。
絹は道端の自動販売機でネクタルを一本だけ買うと、更に少し歩いて付近の小さな公園に辿り着いた。
木製のベンチに腰を掛けて一息つく。頭上で木々の若葉が揺らめいて、きらきらした光の粒が降り注いだ。
絹は焦らすように缶を弄んでからプルタブを引き起こして、そのまま自分で口をつけた。
絹の白い咽がこくこくと動く。
「甘っ!」
そして絹はやはり意地悪く、しかし満面の笑顔を作ったのだった。
この濃厚な甘さが好いと言うのに!