第一章『恩寵』四
駅の近くにある踏み切りがカンカンと鳴り、電車の入船が近いと分かる。駅員がアナウンスで注意を促した後、ホームにくすんだ黄土色の電車が滑り込んで来た。
質量の大きな物体が移動する際の大気の揺らぎに対応するべく、絹がスカートを抑えている。
電車が止った後、戸袋の中のローラーが扉をグリップして引き開けた。
この時間帯、周辺がほぼ住宅地である柏木駅で降りる乗客はめったに居らず、降車優先を気にせず乗り込むことができる。
おそらくこの車両は他の鉄道会社から払い下げを受けた物なのだろう。車内の天井に扇風機が回っていて古さを感じる。夏場にはクーラーも併用されるので暑くて困るということも無いし、レトロな雰囲気があって、これはこれで良い物だと思う。
僕はいわゆる鉄道オタク的な知識――電車の型番がどうだとか、撮影ポイントがどうだとかそういった知識は無いのだけれど、わりと電車が好きだ。
普段は絹と寧々子ちゃんの会話をぼんやりと聞きながら、電車が軌条の継ぎ目を越える時のカタンという音が足元を前から後ろへ通り抜けていく、くすぐったいような感覚を楽しんでいたり、小規模な田畑やこじんまりとした集落が交互に現れ徐々に市街地へ入ってゆくような、長閑な沿線の風景が視線の端に入ってくるのを楽しんだりして乗車時間を過ごしている。
だが、今日は電車内の様子が違った。
車内には絹達と同様、通学利用の高校生が多い。
いつもは友達同士の三、四人のグループに固まって姦しく談笑している女子高生達の姿や、大きなスポーツバッグを抱えて年がら年中真っ黒に日焼けしている男子高校生の集団が、電車の走る音に負けじと大声を張っている姿が見られるのだが、今は水を打ったように静かだった。
理由は極めて簡単だった。
車両の中央部、七人掛けのシートの端に、およそ三人分を占領して、どっかりと腰を下ろし脚を投げ出している中年の男性の姿があった。ベージュ色のシャツの胸元を肌蹴て、調味料だか汗だかもっと別の水分だか判らない物が染みになったズボンに、シャツの裾を所々突っ込んでだらしないことこの上無い。
赤い顔をして、
「おらぁ見……だ」
とか、
「けい……んざぁ……役に……ぇ」
だとか呂律も怪しく管を巻いている。
更には、ここまで四メートル程も離れているというのに、安っぽいアルコールの臭いが漂ってくる。
酔っ払いだ。
こんな朝から、まったくいいご身分だな!
電車内はこのTPOを弁えないたった一人のせいで、刺激したくない、絡まれたくないと異様な緊張感を孕んでいる。
「やっだ、なにあれ」
寧々子ちゃんが絹に囁く。
絹は黙ったまま眉を顰めて頷いてみせた。
電車の扉が閉まり、アナウンスで発車が告げられる。これから苺ヶ原駅まで四駅二十分弱を、この密室にあれと一緒に閉じ込められると思うと暗澹たる心地だ。
あのような不愉快な代物は本来、知覚したくない。しかし見るまい、聞くまいと考える事によって対象を強く認識してしまうあたり、人の意識はままならないものだと思う。
電車が発車してからも中年の調子は相変わらず、むしろ時間を経てますます迷惑に拍車がかかっていた。
中年は、運悪く、或いは不注意にもこの不穏分子の前のつり革に掴まってしまった丸い眼鏡の女子高生をその焦点の合っていないようなとろりとした目で、それでもじっと見据えて、
「ナァ?」
などと意味の分からない同意を求めている。
女子高生は可哀想に震えて、泣き出したくて、逃げ出したくて、しかし動くことによって悪い影響を与えでもしたらと身動きが取れなくなってしまっている。
まずい。
絹はこういうのを我慢できない。
基本的に礼儀正しい絹だが、こうして不逞を働く人間に対して時に苛烈だ。男気があるというか、そんなだから寧々子ちゃんにこれ程まで好かれてしまうのだろう。今にも爪先を向けて中年の方に歩き出し、冷たい視線を浴びせながら「貴方、臭いよ。次の駅で降りなさい!」とでも言い出しそうだ。
絹との長い付き合いのおかげで、高確率でそうなってしまう事が僕には分かる。
とてもいけない。
僕は絹に危険な真似をして欲しくないと思っている。
悪目立ちするような事もして欲しくない。
安全安心に。
平穏無事に。
普通という表現はあまりに曖昧だけれど、ともかく波風を立てずに生活して欲しいのだ。
それに、僕の好きな絹の声色――高く繊細で、とっても甘く耳をくすぐる――をネガティブな事に使わせるのは勿体無い。僕はこんな個人的な希望から、絹の無茶な行動を予防しようと決めた。
中年に対して踏み出そうと絹の右足が緊張した刹那。
「絹」
絹の耳元に、彼女だけに聞こえる音量で彼女を制した。
名前を告げるその一言で、絹は僕の意を汲んだ。絹は私の出番は無さそうだと肩の力を抜いてくれた。
僕は改めて中年の方へ注意を向ける。中年は相変わらず眼鏡の少女に向かって何事かをつぶやいている。本人にしてみればいろいろな話題を振っているのかもしれないが、彼以外の人には話が見えないのだからそうであっても、ループしていても同じことだ。
状況は変わっていない。待っていても改善の期待は薄いということだ。僕から手を打つ必要がある。
だがこういう場合、僕が適任なのである。
僕は有り体に言って超能力者だ。『威風堂々』と言う周囲の空気を少しだけ操れるという実に大したことない能力を持っていて、四メートル程度の距離なら余裕で有効範囲だ。
そして操るというのは空気を動かして風を作ったりする事なんだけれど、今回は「振動」を使うことにする。振動、即ち音であり声だ。中年も耳の傍で誰からだかわからぬまま諌められたら驚いておとなしくなるだろう、という訳である。
こちら、つまり絹と寧々子ちゃんの所から何かしたと気取られないようにする必要がある。可哀想な少女を助けた結果、二人が中年に絡まれては何の意味も無い。
これが出来るのは非能力者の絹では無く、僕だけなのだ。
ちなみに絹の入浴中に僕が一階のテレビの音声を確認できたのも、僕のこの能力に因るところだ。
僕は能力を使う為、集中を始める。
周りの景色が遠くなる。能力を使うのに必要な情報以外を意識から削ぎ落とし、中年と少女の事がよく知覚できるようになってくる。中年のごくりと唾を飲む際の喉仏の動きやどろんとした眼がゆっくり瞬きする挙動、少女の震える膝や血の気が引いて白くなった指先がスクールバックの肩紐を握りなおす仕草がはっきりと、スローモーションの様に認識できる。
僕は中年の耳の後ろに昔観た任侠物映画の俳優の顔をイメージする。自分自身の声であればもう特に意識せずに発することができるが声帯模写となるとなかなか一筋縄にはいかない。
なるべく具体的に、特に顔から喉、胸部にかけて、表面的な部分だけではなく骨格や筋肉の配置までを想像して彼の声を真似るのだ。
準備は整い、後はやるだけだ。
しかし、ここに来て僕に弱気の虫が生まれた。
裏返ったようなショボい、かの俳優の声とは似ても似つかない貧相な音が出るかもしれない。他の人はともかく絹には僕が失敗したことが分かってしまう。
どうしよう。咳払い的な事をして発声というか発音の調子を確かめたい。でも、いきなり音を出すから中年を威嚇できるのであって、予告しては効果半減だ。
ヤバイ、緊張してきた。
我ながら度し難いチキンっぷりである。
その時、絹が唇を噛んだ。
少し焦れているらしい。
絹が痺れを切らす前に行動しなくてはいけないと、僕は意図的に開き直った。
ショボい音上等。似てなくて結構。いい声で話しかけるのが目的では無い。中年の迷惑が止めばいいのだ! どうせ絹以外には誰の仕業か分からない! 絹に対して今更恥ずかしいなんて思う必要は無い!
よし、やるぞ。
「オオゥ! ニィサン、素人相手に何しとんのじゃぁ!」
声色はともかく、台詞回しでキャラクターを掴みきれなかったので五十五点という自己評価である。情けない。
それでも、中年はビクリと身体を震わせ、「ひぃ」と鳴いて驚いた。僕の思惑通り何処から、誰から文句が付けられたのか分からずに、電車の窓しかない自身の頭の後ろを中心にきょときょとと周囲を見回したが、やがて発生源の特定を諦めた。
酔った末の幻聴だと思ったのかもしれない。
可哀想な眼鏡の少女はというと。彼女は中年が泡を食ってる隙に抜け目無い絹によって連れ出され、今は絹と寧々子ちゃんの身体の影に隠されている。
結局絹の手を煩わせる形になったが、白い顔で泣き出しそうな少女に二人が手を添えて労わっている姿は、僕の心をずいぶん暖めた。経過はどうあれ、これで善かったのだと思えた。
目の前の話し相手が居なくなった中年は居眠りを決め込み車両にいる全員が、電車が苺ヶ原駅に着くまでの間、彼の高い鼾にひたすら耐えなければいけなかった。これはこれで充分迷惑なのだが、女の子を泣かせるより遥かにマシだ。
やれやれ、である。
美少女に罵られることを良しとする小説……。
あ、絹は第三章で能力者になります。