第一章『恩寵』三
柏木駅に辿り着くと、一人の少女がスマートフォンを弄りながら絹を待っていた。
叶野寧々子――彼女は絹の幼馴染で、小学校の一年次にはじまり、高校に入学した現在に至るまで延々、絹と同級生を続けている。
背丈は絹よりやや低い。うつむいているせいで、顎のラインでふわふわと波打つ色素の薄い髪が彼女の顔をすっかり隠してしまっている。遠目にはまるで制服の上に毛玉が載っているかのようだった。
「寧々子。おはよ」
「わ! 絹? あ、待って。待って?」
寧々子ちゃんはメールだかブログだかの入力中だったのか、絹を待たせて手早くタッチを繰り返す。
「仕方ないなー」
絹が呟いたのは待たされる事にではなく、整える事を放棄している寧々子ちゃんの髪型に対してだ。
絹が細い指で撫で付けると寧々子ちゃんの髪は素直に従った。前髪をサイドに流して寧々子ちゃんのスクールバッグのポケットに差し込んである、みたらし団子の飾りが付いたヘアピンで留める。きらきら輝く大きな目が、小さくて形の良い鼻が、ふっくらと柔らかそうな桃色の唇が、陶器のように滑らかな頬が現れた。
僕は絹のことを百合の花に例えたが、ならば彼女は鈴蘭だ。屈託無く笑顔を見せる様子が鈴なりの花がきゃらきゃらと風に揺れるところを連想させる。人を幸せにさせる雰囲気があった。
但し彼女が笑顔を見せるのは女性を相手にした時に限定される。男で寧々子ちゃんの笑顔を見られる人間は極少ない筈で、実に勿体無いことだ。
「……これ、で。うん……うん。よし、そーしん!」
焦っているわりに最後は推敲してから送信するあたり、実にしっかりとした娘だ。
「ごめんね、お待たせ! おはよう! 怒ってる?」
「平気。おはよう、寧々子」
「よかった。優しい絹が大好きよ。さ、行こ」
さりげなく告白しながら、寧々子ちゃんは絹の腕に腕を絡め、指に指を絡めて絹を促した。
毎朝の事ながら、その行動に僕はドギマギしてしまう。
ちょっと近すぎじゃないですか?
絹とは違う好い匂いが漂ってくる。
寧々子ちゃんの柔らかいふくらみが、絹の腕に押し付けられて形を変えているのが分かる。
そういうのは恥ずかしいから控えて欲しいと僕は思う。
顔や首の周りが、かっかと熱く火照るのを感じ、その事実が更に僕の動揺を誘う。
「寧々子、止めてって。腕組まないでも一緒に行くから。人も見てるし」
いかに寂れた駅とはいえ、周囲には通勤通学利用の乗客、十数人がいる。
見た目の好い少女二人がこんな状況を作っていては当然目立ってしまう。
「またぁ、絹はそうやって。もう誰も気にしてないよ? 大丈夫、大丈夫」
現在もそれはそれは目立っているのだが、電車通学を始めて以来の一ヶ月で、好奇な、或いは不埒な、といった視線はほとんど影をひそめている。
当初はそれこそ、空気がざわとうごめくのが感じられるほどだったが、すっかり馴染んでしまった。いつのまにか周囲に許されてしまうのは、寧々子ちゃんならではの才能と言えるだろう。
今あるのは、微笑ましいものを見るような、愛らしいものを見るような、目の保養になるからもっとやれとでも言うような、そんな視線である。
「あー。ごめん。見られてるっていうの、忘れて。わたしが無理」
絹が呆れ顔で言う。二人は毎朝この様な攻防を繰り返している。
「まいっか。絹の赤い顔、見れたし。これで勘弁してあげる」
結局、二人は手を繋いで登校することになるのだ。
しかし、僕には寧々子ちゃんが「ここ」までを織り込んで行動しているように思える。
絹と腕を組み、絹の照れた顔を見て、さらに注目を集めて困った絹との会話。絹のことが好きな人間にとってはご褒美ばかりではないか?
少々穿った見方かもしれない。いずれにしても、絹がまんざらでもないというか、ごく親しい友人への対応として納得しているので僕にはなんの意見も無いのである。
寧々子ちゃんはさも幸せそうに駅員――この路線では未だに駅員が切符や定期券を改めている――に「おはようございまーす」と挨拶しながら定期券を提示して、改札口を通過した。もちろん絹も一緒だ。
駅構内の壁には沿線の観光、イベント情報や犯罪行為防止のポスターが掲示されている。ゴールデンウィークが終わったこの時期にはこれといった催しは無く、昼食付きの日帰り旅行等が紹介されていた。
電車は三両で編成され、自然とホームは短い。人々の多くが下り方向で電車を待っているのは、絹達を含む多くの乗客が利用する苺ヶ原駅で降車する際に改札口が近い為だ。
絹達は混雑を避けて二両目にあたる中央付近へ留まった。
「スマホ、済んだの? 熱心ね」
絹の到着を毎朝待ち侘びている寧々子ちゃんが、声を掛けられるまで気付かないなんて余程の事だ。
「んっふっふー。昨日ね、また出たの!」
「あー、『巻髪』だっけ」
「そそ。そのコミュで情報交換してたのよ」
対象年齢の割りに残酷な趣のある有名玩具のモチーフになっているとある海賊のようなネーミングの『巻髪』というのは、今この界隈で取り沙汰されている都市伝説のような物だ。
なんでも色白の若い女性が、自分の背丈の五倍も、六倍もあろうかという豊かな髪を身体に巻きつけ、ピエロのような化粧をして、泣きながら歩いている、のだそうだ。
「あれって人間じゃない? 寧々子の気に入るような話かなー」
寧々子ちゃんにはある種のオカルト趣味があって、妖怪やUMAの類が大好物なのだ。
「だって異常だよ? 何か秘密があるに違いないよ!」
異常には違いあるまい。
そもそも、僕には人の髪の毛がどこまで伸びるものなのかという疑問がある。
日本人の場合、髪の成長速度は概ね年に十一センチメートルという。その女性の身長が一メートル五十センチと仮定した場合、五倍の毛髪といえば長さは七メートル五十センチにもなる。単純計算で六十八年かけて伸ばさなくてはいけないし、途中で抜けたり切れたりもするだろうから……ごく自然に考えて……若い内には到達できない領域だ。
「こんな事がご近所で起こるなんて、事実は小説より奇なり、だよね。果たして! 彼奴はどんな悪事をたくらんでいるのか!」
「髪が長いだけでえらい言われようだわ」
妄想が過ぎる寧々子ちゃんに、絹は呆れている。
「あんなに目立つ格好でウロウロしてるんだから、このくらい想像されるのは覚悟の上でしょ。ちょっとしたきっかけから陰謀に気付いたヤレヤレ系主人公がワンパンで解決してくれるに違いないよ」
ワンパンというのはワンパンチの事だろうが、ヤレヤレ系?
僕と同様の疑問を絹も抱いたようで寧々子ちゃんに対して、
「ヤレヤレ系?」
と尋ねた。
「そう、ヤレヤレ系。主人公というのはね、日常生活が不安に思えるまでに無気力。そして、好意を寄せられている女の子からのあからさまなアピールを易々とスルーする、超弩級の鈍感。決定的な言葉程聞き逃す散漫な注意力。むしろ難聴。
次々と事件が舞い込む不幸体質だけど最後は、やれやれなんで俺が、とか言葉では嫌々なわりに結構ノリノリですっきりきっぱり物語を大団円に導くものなんだよ。王道だよ。お約束だよ」
「あー、そういうこと。私は無駄無駄系が好きかなー」
冗談にしてもそこはオラオラ系でいいんじゃないですか。
「ほほう。絹は人外がお好みとは、やりますな」
「ともかく。例の巻髪はウィッグなんじゃないの?」
「そんな長いウィッグ有り得ないよ。作っても誰も買わないし。ま、絹は人の髪を気にしてる場合じゃないよ?」
寧々子ちゃんは人が悪そうに笑った。
「今日の二時限目は体育だからね。学校に着いたら、そのながーい髪をこってりねっとりたっぷり弄くり回してあげるから!」
「あ! ……しまったー」
絹は空いている方の手で目を覆って、天を仰いだ。
絹の長い髪は運動には不向きで、体育の時にはどうにか纏めておく必要がある。今日の髪形、ツーサイドアップでは支障があるという訳だ。
「……うん。お願いシマス」
がくりと項垂れて、絹が言った。




