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乙坂絹と薔薇色の脳細胞  作者: 秋月うさぎ
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第一章『恩寵』一

 僕、真柄まがら廉太郎れんたろう乙坂おとさかきぬは同居している。

 宿主は乙坂家の一人娘である絹で、僕が言わば居候だ。


 絹は朝に弱く、僕達の朝は忙しい。

 家を出る時刻から一時間と四十分前、先に僕が覚醒する。外の様子を窺うと今日は晴天の様子。閑静な住宅街に小鳥がぴちぴちと囀っていた。

 ――ジリリリリ。

 目覚時計を鳴らすのは一時間半前だ。

 僕は常々、携帯電話のアラームを使えばいいと言っているのだが、絹は聞く耳を持たない。

 アナログの秒針がたてる微かな音に癒されると言い、時計も近頃にはめずらしく頭にベルが付いているものをわざわざ探す程に念を入れている。

 指定どおりの時刻に鳴ったけたたましいベルを絹は時計を叩いて止めると、愛すべきはずの時計に恨みがましい視線を送り再び瞼を閉じる。

 横になったまま三十分もかけて頭と身体を覚醒させるのだった。

 その頃階下では絹のお母様、澄礼すみれさんが朝食とお弁当の用意をしている。パンを焼く匂いや、フライパンに卵を流し込む高い音がどうしようもなく食欲をそそり、僕は直ぐにでも起き出したいのだが、絹がその気になるのを静かに待つ。

 澄礼さんが時計代わりにつけているテレビでは、とてもニュースとは言い難い朝の情報番組が流れている。政治家同士の足の引っ張りあい、外国の水害、県内で頻発している不良グループの衝突等。

 いつになっても変わり映えのしない話題ばかりが聞こえてくる。

 それが終わるとプログラムは天気予報を経て星座占いに移る。

 そろそろ澄礼さんから起床を促す声がかかる頃合だ。

 絹は未だ瞼を閉じたまま、大儀そうに浅い呼吸を繰り返していた。

「絹ちゃーん!」

 澄礼さんも皆まで言わない。愛娘が既に目を覚ましていて、あとはベッドを抜けるタイミングだけだと百も承知なのだ。

 出発まであと一時間。

「うー」

 絹は自らを起こすために低く唸って、ベッドから文字通り這い出た。髪に引っかかっていたシュシュを床に投げ捨て、身体を引き摺るようにして自室を出る。自室のドアを開け放したまま、廊下を横切って直ぐ向かいの洗面室へ至る。

 洗面室のドアも開けっ放しだ。

 寝覚めに熱いシャワーを浴びるのが絹の習慣だった。

 頭をふらつかせながら無造作に寝間着を脱ぐ絹に僕は心の置き処が無い。

 僕は絹のこの開けっ放しの癖はどうにか直して欲しいと思っていた。もっとも普段の絹は大変まめな性質で、こんな無調法は寝起きの時のみである。

 絹は腰まで届く長い髪を捻り上げながら頭の上に纏め、洗面台の傍らに置いてあるクリップのような形の髪留めを使った。浴室の電気を点けて入り込み扉を閉めると、扉に取り付けられた樹脂製の半透明の窓にほっそりした影が映る。

 コックを捻る音が響いて、シャワーヘッドからお湯が溢れる。シャワーの飛沫と室内にこもる湯気が身体中を刺激し、絹はやっと平常モードに入った。

「ぶはー、生き返った。廉太郎くん、時間は?」

 時刻を尋ねるのが、いつもの起床後の第一声だった。

「芸能情報が始まったところ。問題ないよ――」

 僕は階下のテレビの音声を頼りに答える。

「――それと、おはよう」

「うん、おはよう。……うーん。あたし、お化粧しようかな?」

 絹は浴室の鏡で顔色をチェックしている。

「まだいいんじゃないか? 高一になったばかりだし」

 唐突な質問に無難に応える。

「でも、クラスの子はしてるよね」

「一部の子じゃないか……それに――」

 単なる思い付きを話しているのかと思ったが、結構本気なのかもしれない。

 僕は少し気を入れて話すことにする。

「制服に化粧は似合わないよ。もしも絹がフォーマルなところに出ることがあれば、相応しい化粧も必要だと思うけどね。その時は、メイクも髪も美容室に任せたらいい。このあたりが普通の男の意見かな」

 絹の話を一部の子達のことだと否定しておいて、自分の意見を一般化するのはやや卑怯な気もする。しかし、僕には確信があるのだ。

 今のままの絹が断然好ましい。

 美少女――絹の外見を表現するのにこれ程適した言葉は無い。

 少女の美しさを花に例えるとすれば、絹は百合だ。生来の可憐さと、両親の薫育の賜物である楚々とした佇まいがある。けして派手では無いが、ただ一輪、ひっそりと咲いているだけで人の目を惹きつける。馥郁たる香りが周囲の者をうっとりと夢見る心地に誘うかのような稀有な存在感を持っている。

 本人は細く真っ直ぐで張りの無い髪質がボリュームが出ないから嫌だとか、左の目尻の下にうすく浮かぶほくろが気に入らないとか言って、鏡を見ながら顔をしかめることがある。

 しかし僕に言わせれば、それらは絹の魅力を微塵も損なっていない。

そのさらさらと流れる漆黒の滝のような黒髪は頭部の小さい絹を余計スタイル良く見せているし、ほくろだってまるでショートケーキに乗った苺のようにピタリとそこにあって完成しているのだ。

「それよりも日焼け止めをおすすめするな。五月の紫外線は意外と強いんだって」

「んー、……わかった。お化粧はお預けね」

 聞き入れてくれたようだ。

 でも絹は僕が言ったことに納得したわけではない。自分の興味と周囲の環境と僕の意見を天秤で吊って、先延ばしにしてもいいか、と妥協した。

 言い方を変えると、僕を立てた。

 お預け、というのはそういう事だ。

 絹は浴室を出ると身体を拭き、濃いグレーの制服を身に着ける。オフホワイトのカラーとスカーフのセーラー服だ。

 僕はファッションには無頓着な性質でこの色が「黒」に見えるのだが、デザイナーの先生に言わせると「完全な黒以外はグレー」ということなんだそうだ。

 中学時代より細かいプリーツのスカートは短く、僕は気が気ではないのだがこちらには意見を求められていない。

 絹はその長い脚に見合うストライドですたすたと歩くのだが、不思議とスカートの裾が大きくひるがえったりしない。地面に落ちている物を拾うときにも不用意に屈んだりせず、片膝をつき手で布地を抑える。とても上手に裾を捌いて秘めたる布をチラ見せするようなことはない。その点において僕は絹を信頼し、しかし彼女の身近にある男としてもやもやとした気持ちを持て余しているのだった。

 だが、そもそも絹の着ている制服は学校指定のものなのだ。絹はその細い腰に見合う制服を調えた、それだけのことで絹にとって憚ることなど何処にもない。

 口を出すのは居候としての分が過ぎたことだろう。

 絹は自室へ戻り、鏡の前で細く艶のある黒髪をツーサイドアップに結ってから藤色のリボンで飾る。次に学習机の一番上の抽斗を開け、数本ある腕時計の内からシルバーの物を選んで左腕にはめた。

 椅子の上に置いてあるスクールバッグを肩にかけ、階下へ降りて行く。

 自室も洗面室もドアはキチンと閉じられていた。


「おはよう、お母さん」

「おはよう。包丁使ってるから、パン自分でやってね」

「はーい」

 ダイニングキッチンに入り澄礼さんと挨拶を交わしながら、絹は六枚切りの食パンを二枚、トースターに放り込んでレバーを落とした。

 一枚は僕の分という計算である。

 続いてコーヒーメーカーからカップに半分の熱いコーヒーを注ぐと、カウンターのシュガーポットから山盛り三杯の砂糖を入れた。続いて冷蔵庫から取り出したたっぷりの冷たい牛乳で割る。

 絹の猫舌は重篤で、忙しい朝にはこうしないと口がつけられないのだった。

 ダイニングテーブルには既に、滑らかな黄色に焼かれたオムレツと緑の濃い少量のレタス、真っ赤に完熟したトマトがくし型切りにされ、一つの白いお皿に収まっていた。

 勿論、オムレツは既に冷め始めている。

 絹が席に着いて程無く、真っ二つにされたグレープフルーツが澄礼さんによってテーブルに差し出された。

「いただきます」

 絹はトーストが焼きあがるのを待たずに手を合わせ、言うが早いか箸をつけ始める。

 澄礼さんは既に朝の仕事を済ませたらしく自分のコーヒーを注ぐと絹の向かいに座り朝食を食べる愛娘を見守り始めた。両手で包むようにカップを持ち、水仕事で冷えた指先を暖めている姿が年齢の割りに可愛らしい。

 キッチンでトースターが仕事を終えて食パンを撥ね上げる。一枚にはネコの顔の、もう一枚には全身のシルエットが焼け跡として刻まれていた。オーブンと一体化していないこの前時代的なトースターは澄礼さんの趣味だ。オーブントースターであれば、もっと様々な形の物が焼けると乙坂家では不評であるが「好きなものは好き」と譲らない。

 澄礼さんがキッチンへ戻り、トーストをテーブルまで届けてくれた。

 トーストにバターを塗って齧る。カリとした感触は口のみならず耳にも心地よく、僕にとっては熱いシャワーより余程覚醒を促す感触だ。

「お父さんは?」

「今日はもう出たよ」

 絹がベッドでアイドリング中に用意された朝食は、乙坂家の家長、宗一そういちさんの為のものだったようだ。

「むー。お父さんがもう少し遅く出掛けるなら、車で苺ヶまいがはら駅まで送って貰えたのに」

「もう少し早く起きてたらお願いできたかもね」

「……無理だもん」

 やり込められた絹は、傍目には息を継いでいるタイミングも分からない程の勢いで朝食を口に運ぶ。

 すっかり片付けてしまうと、たいして汚れてもいない唇を指先でぬぐった。品のよろしくない絹の癖だ。

 ともあれ、今朝の絹は平常通りローカル電車で登校することになった。

 絹の住む苺ヶ原市は県の北部に位置しており、人口は十五万人というからこの辺りではまずまずの大きさだ。地場の野菜を都内に出荷する以外これといった産業は無く、都心への少し遠目のベッドタウンになっている。

 都心から放射状に延びた数本のメジャーな鉄道が県を南北に貫いており、南北方向に比べて東西方向への線路の敷設は貧弱である。これを路線バスや地元密着、言葉通りのローカル鉄道が補う格好になっており、絹が利用するのもその一つだ。

 絹は目の前の皿を空にするとコーヒーカップに慎重に口をつける。温度を確かめるためだ。平気だと分かると今度は一息に飲み干した。

 テレビは再び天気予報を経て星座占いへ移ろうかというところ。

 出発の時間だ。

 占いの結果を見ることは出来ないが、生憎僕はこの手の占いには興味が無い。思春期の女の子としては珍しく、絹も同様に占い等に興味を示さないのは有難いことだと思ったりもするが、これは偶々嗜好が重なったというより二人共同じ理由によってこの手のものを忌避していると言えるのかもしれない。

 僕達には神秘とかそういう類のものは充分間に合っているのだから。

 出発する時刻は澄礼さんも心得ている。

 ぬるい弁当箱に蓋を被せて留め具をかけると、おむすびと一緒に巾着袋に入れて手渡してくれた。

「ありがと」

 絹は受け取ったお弁当を丁寧にスクールバッグに収めた。

「はい。いってらっしゃい」

 澄礼さんは笑顔で応えた。

 絹は玄関の上がり口に腰を下ろして革靴を履く。

 細い脚を傾けて靴の汚れを確認したが、気になるところがあったようで靴箱から柔らかい布を取り出して拭いた。

「行ってきます」

 玄関扉を開けて出掛ける絹に澄礼さんは穏やかに微笑みながら手を振り、

「気をつけてね」

 と声をかけた。

まったく駄目な作者だな!

ヒロインを1ページ(17行)以内にヌードにすることも出来ないのだから!

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