第四章『死にたがりの夜』三
――カツン。――、カツン。
その時、足音が聞こえた。
コツコツという上履きの足音では無く。
ヘタヘタという裸足の足音でも無く。
高く、硬い、革靴の足音。
ゆっくりと近づいてくる。
僕は先ず、見回りの警備員だろうかと考えたが、直ぐに思いなおす。
今まで警備員の足元に注目した経験が無いので確かな事は言えないが、万一の場合に侵入者と追跡劇を演じなければいけない警備員が革靴を履いているだろうか。選ぶならスニーカーとかの走りやすい靴が適切なはずだ。
それに警備員ならば、どこかの物陰に誰か潜んでいないかとか、どこそこの窓の戸締りはどうだとか、あちこちへふらふらと寄り道をして相応の乱れた足音になるはずである。今聞こえる足音は決して整っているとは言いがたいが、少なくとも真っ直ぐここへ向かってくるようである。
だからこの足音の主は恐らく、絹をここへ連れてきた人物だ。
他の誰もこの旧校舎には用が無いだろう。
僕は緊張を高めた。
その人物は校舎裏で気絶した絹をここへ運び、それから何かしなければいけないことがあって何処かへ行っていたのだ。
そして戻ってきた人物は、今度は何をするのだろうか。
可能性一、絹を介抱。
可能性二、絹に何事か用事。
一の可能性は、……無い。介抱しようなどと優しい対応をするつもりならば、そもそもこんな所に運んでいない。保健室の柔らかく、暖かく、清潔なベッドへ運び、校医に任せたらよかったのだ。
二が順当な展開だろう。但し、問答無用で危害を加えられるようなことは無い、と思える。そのつもりなら既に終わっているだろうからだ。絹と僕が気絶していた間に。
――ガララ。
教室の後ろの扉が、絹の近くの扉が、力無く開かれた。
廊下にわだかまる闇の中から姿を現わしたのは――。
もしそれが見知らぬ顔だったなら。最悪の場合、絹を逃がして後は知らない振りをするという手もあった。
しかし、現われたのは――入交先輩。
話の通じる相手で良かったが、他方で先輩が相手では無視して「はいさようなら」という訳にはいかなくなった。それにこんな時、先輩が話すならその話題は、大川君の事しかない。間違いなく深刻な話になる。
僕は緊張を新たにして、ごくりと絹の喉を鳴らした。
もう一つ、顔見知りが相手だからこそ気を付けるべき事がある。
僕の事を気付かせてはいけない。
絹以外で真柄廉太郎を知る唯一の人間になった大川君は死んだ。
元通りだ。
僕が居るという不条理は相変わらず付き纏うものの、絹の表面的な日常は戻った。絹の中に僕が同居している事、それに未だ目を覚まさない絹のこの身体を、今は僕が動かしていることを先輩に悟らせてはいけない。
先輩は教室の後ろで小さくなって座っている僕を、絹を見下ろした。
先輩と僕の視線が交わる。
先輩の顔からは表情というものが消えていたが、夜目にも泣き腫らした赤い目元が歴然となっていた。
先輩は持っていた鞄を足元に落とし、僕と同じ壁に寄りかかってぼんやりと前方を見詰めた。顔に残る、涙の跡を見せるのを嫌ったのかもしれない。
そしてゆっくり話し始めた。
「すまなかったね、こんな所へ置き去りにしてしまって。倒れている憂介君の傍から立ち去る人物を放置出来なくて慌てて取り押さえたのだけど、顔を見てから君だと知って驚いたよ」
先輩は絹を、大川君に何かした容疑者だと思って襲った、という事か。
「最初から君だと分かっていたらこんな事をする必要は無かったのにね。名前も素性も知れているのだから。でも君だったおかげで私は憂介君に付き添って病院に行く事ができたよ」
「ぜん、ぱィ……」
先輩。僕はそう言おうとしたが、普段の絹とはかけ離れた酷い声が出た。
僕が肉体を、声帯を使って声を出すのは実に十五年以上振りなのだ。上手くいかなくて当たり前である。
ひょっとしたら絹の喉と口で話すのではなく、僕の『威風堂々』で絹の声を真似た方が上手に話せるんじゃないかと思ったが、試す勇気は無かった。
今、僕の意識は絹の身体の全てをコントロールしている。ならば普段、絹の脳の片隅に間借りしている時のように精密に恩寵を扱えない可能性が高い。失敗したら、絹らしくない、という致命的な違和感を先輩に与える事になってしまう。
僕が――真柄廉太郎の存在が発覚するリスクがぐっと増す。
落ち着いて声の出し方を考える。
しっかり息を吸って、口を大きく開けて声を出す。声量に気をつけろ。場違いに大きな声は不自然だ。そう自分に言い聞かせた。
「せんぱひ……。おおかは、くんは?」
流暢だとはとても言えないが、これが今の僕の精一杯だった。
「……」
その声を聞いて、先輩はほんの少しだけ怪訝な顔をした。
スルーしてくれ。寝起きで声が変わるなんて、よく有る事でしょう。
「……。憂介君は病院で、死亡が確認されたよ」
僕は顔を伏せた。
僕が思わず、顔を伏せたのには二つの理由があった。
一つは変わり果てた絹の発声について、先輩が何も言い咎めなかったのにほっとしたからだ。その安堵が顔に出るかもしれないから、僕は絹の顔を伏せずにはいられなかった。
もう一つは大川君の事だ。
彼の事は絹も確認したが、やはり医師が認定した、というのはショックだった。
死。
たった一週間の付き合いでしかなかったのに圧倒的な喪失感だ。
僕は僅かに目を上げ……。
先輩に何と声を掛けたらいいのか、……分からなかった。
幼馴染の上、特別な感情を抱いていたであろう大川君を失った先輩の心痛は察するに余りある。僕や絹が何を言っても先輩を慰めることは出来ないだろう。哀しいけれど、先輩が先輩自身で気持ちの整理をするしかないのだ。
だから。
「……ざんねん、です」
自分の正直な感想を述べるだけにした。
先輩は目を閉じて、小さく頷いた。そして絹をちらりと眺め、また前方に目を戻して話し続ける。
「あの後、警察もやって来て現場を調べていたが、どうやら自殺、という事になりそうだ。教室に残されていた彼の鞄にメモが入っていてね。たった一言……」
先輩はゆっくり間を取った。
「さようなら、と」
先輩の声は、最後に少し震えていた。
先輩の取った間が、彼女を落ち着かせる方に働いたのか、それとも悲しみを新たする方に働いたのか、僕には分からない。
それにしても大川君らしい、あっさりした文言を遺したものだ。
とりあえずは、そのメモが有ってくれたおかげで、絹が大川君の死に直接関与したという疑いは無くなったと考えられる。
僕は再びほっとした。
そして気付く。
彼は一体誰に対して別れの言葉を遺したのだろうか。
あれほど孤独を感じていた大川君だ。それはきっと誰に対してでも無くて、単に自分が自殺をしたのだと分からせるためだけの意味を込めた言葉なのではないだろうか。自分の死に事件性が疑われたら家や学校を煩わせる。特に彼と最後に会っている絹には具体的な嫌疑がかけられる。ずっと孤独に生きてきた大川君だからこそ、この世を去る時にも誰からも余計な関心を持たれず、潔く、独り逝く。大川君なりのけじめなのではないかと、僕はそう思うのだ。
人を憐れむのは好きじゃないが、とても悲しい最期だ。




