序章『巻髪』三
あの夜、リーダーの運転する車が男の子を撥ねた。
そしてそれを誰も通報せず、車は走り去った。
バイクに乗る男達は合流する前で現場には居なかった。同乗している女達は一様に取り乱して口々に「救急車」とか「警察」とか言っていたが、どれも断片的で会話にならなかった。
「ごちゃごちゃうるセー!」
車を走らせながらリーダーが女達を一喝した。
リーダーがイライラした様子でカーステレオをオフにすると、車内はタイヤが濡れたアスファルトを咬んで進む音とワイパーがフロントガラスを撫でる音に占められたが、恵維にはまるで重苦しい静寂の中にいる様に感じられた。
助手席に乗っていた年長の女が意を決し、皆を代表してリーダーに声を掛けた。
「だって、ねぇ? どうするの? 怪我してるかもしれない。もっと非道い事になってるかも……」
リーダーは横目で年長の女をちらと見て舌打ちした。そしてしばらく無言で運転した後、全員に聞こえるようにこう宣言したのだ。
「あ、ありゃどーぶつだ、動物。狸かなんかだ。構うこたねぇ」
(最悪だ)
くらくらと眩暈がするような心地だった。
「それとも何か? はっきり見た奴いんのか?」
恵維を含め車内の皆が絶句した。そんな風に言われたら何も言えなくなってしまう。誰だって正面切ってリーダーに反抗するのは怖かったし、自分の乗る車が人を撥ねたなんて考えるのはもっと怖かった。
結局、リーダーは罪を認めなかった。強弁してあの場にいた全員に「あれは人身事故では無かった」と言い張った。そして万一警察に追求された時にも「何かにぶつかったけれど人間だと思わなかった」と言い逃れる為の既成事実としたのだ。
(狡い男)
恵維はアスファルトにへたり込んだまま改めて思った。
(でも、私も狡い女だ)
直ぐに救急車を呼ばなきゃいけなかった。
後にでも警察に連絡しなきゃいけなかった。
なのに自分の生活にあんな非道い事件があってはいけない、あんなの見間違えだ、と自分の平穏を守るために「脅されたんだから仕方ない」と理由をくっつけて、するべき事を怠ったのだ。
今度は本当に涙が出た。
自分が惨めで仕方なかった。
「もぉ……イヤ、だ」
嗚咽に塗れて引き攣る肺から空気を搾り出すように声を発した。
製材所に着いたら、もうここには来ないと言おう。家族に迷惑をかけるかもしれないが、理由を話して一緒に闘ってもらおう。事故のことも警察に言おう。パパに一緒に来てもらって全て話そう。
投げ遣りな勇気が湧いてきた。
恵維は震える膝を手で抑えて立ち上がり、再び製材所に向かって歩き出した。
風は勢いを増して周囲の森がまるで潮騒の様にざわめいていた。
製材所までもう少し。
恵維は涙を拭きながら歩いた。
きっと眼も鼻も真っ赤で酷い顔になってるだろう。こんな顔で戻ってきて、もう来ないなんて言い出したら変な娘だと笑われるだろうか。いや可笑しく思われたって構わない。金輪際会うつもりの無い人達だし、却ってこちらの本気が伝わるかもしれない。
林を一つ回り込んだら帰り着く、という所で恵維は異変に気付いた。
(向こうが、赤い?)
林は潅木や下草が混んでいて奥の方が見通せない。赤いのは梢の間から見える、製材所の上空だ。
そういえば少し変な匂いもする。
嫌な予感がして全身の毛穴が開いた様な、皮膚の毛細血管がパンパンに膨らんでいる様な処し方の無い感覚が襲ってきた。恵維は不安で堪らず早足になり、程無く駆け足になった。
林を抜けた恵維の目に飛び込んできた光景は――。
燃え上がる製材所の倉庫。
気を失い、折り重なって倒れる彼等。
それらも恵維の目に入った物であったが、何より視線を捉えて放さなかったのは、倉庫の前に立つ人物だった。
恵維の方から見ると炎を背にして立っているその人物の顔は逆光線の為、影になって判然としないが、その身体の華奢なシルエットとスカートをはいていることから女性だと思った。
背丈は恵維と同じ位。だがその同じ高さにある頭部からは、黒々とした豊かな毛髪が波打って逆立って倉庫の棟に届かんばかりだ。
まるで弟から借りて読んだ漫画雑誌の中の出来事のようだった。
その異常な姿故に、恵維はその人物から目を離せなかったのだ
見上げる視線の先からピアスの男が地面に落ちて、どさぁとくぐもった音を立てたが、恵維は駆け寄ることも逃げ去ることも出来ずに呆然と立ち尽くしていた。
世界が常識から逸脱していた。
恵維の頭は恐怖に染め上げられた。
憂鬱も勇気も消えてしまい、諦めだけが残った。
次は自分が吊り上げられ、絞め落とされ、打ち棄てられる番だ。
それが不善な自分への罰なのだから――。
「これは正義! 正義。正義、正義、正義、せいぎせいぎせいぎ……」
最後にその人物が叫ぶ、不吉な声を聞いた。
イメージは女体化したゴ○さん。