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乙坂絹と薔薇色の脳細胞  作者: 秋月うさぎ
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第二章『黒髪のアリス』六

 ――金曜日。

 放課後の絹は学園の帰りに直接シルキーズへ手伝いに来ていた。

「叔母さん。お先に帰るねー」

「おう。気をつけて帰んな」

 営業を終え、清掃を終え、照明を落とした店内から妙さんの声が返ってくる。

 絹がシルキーズに手伝いに来て初めて知ったことだが、妙さんは仕事後に暗くした店舗で独り客席に座り、缶ビールを一本空けて、それから自分のマンションへ帰るのを日課にしていた。

「家に帰ってから飲めばいいのに」

 絹はそう言ったが、僕にはなんとなく妙さんの気持ちが分かるような気がする。

 営業後の自分の店で飲むからこそ味わいがある。自らの才覚で身を立てている、生きる歓びを味わう、あれはそういう一本なのだと思う。

 そして同時に、たった今まで戦場だったその店の照明を切ることで表情を変え、別の視点から店舗を見つめなおす。ひいては経営を見つめなおす、儀式にも似た時間を敢えて作っているのだと思う。

 妙さんは、宗一さんと違って飲めば酒豪だからお店で寝入ってしまう心配は無い。逆に飲みすぎてしまうという心配も、また無かった。ビールはお店の冷蔵庫にストックしているわけではなく、律義に毎朝一本ずつ、妙さんが持ち込んでいるものだった。

 制服姿の絹がスクールバッグを肩に掛け、夜の街を駅に向かって黙々と歩く。

 絹が腕時計を確認した。

 僕も針を読むと午後八時三十六分。

 微妙な時間だった。

 駅まで走って行けば、ひょっとしたら八時台最後の、柏木駅停車の電車に間に合うかもしれない。利用客の少ないローカル線はここを境に本数をぐっと減らす。次の電車は、もっと遠方へ向かう人達が乗る急行を挟んで、四十分も後になった。

 絹は急ぐ様子を見せなかった。

 一本後の電車に乗る事に決めたらしい。

 週末を前に浮ついた夜を楽しむ人達の間を縫って歩く。

 居酒屋から出てきた酔ったサラリーマン達の一団。カラオケ店から出てきた、制服でそれと分かる他校の女子高生のグループ。既に赤い顔をしているが、次に入る店を探して歩道を歩く大学生風の男女数人。

 皆、明日から連休なのだろう。

 一方、方楠学園では土曜の明日も授業がある。

 私立である学園は、豊富な授業量を確保する為に休みは日曜祭日のみである。

 厳しい学校だ、と思わないでもないが、考えてみれば体力の有り余っている十代の少年少女には週に一日の休日があれば充分だ。彼等は日曜が休みなら日曜を、土日が休みなら土日を目いっぱい活用して遊んで過ごすに違いないのだ。休息に充てようなどという発想は端から浮かんでいないだろう。

 休日をその呼び名の通り休む為に使うのは、衰えた大人の過ごし方なのである。

 絹が苺ヶ原駅に辿り着くと、やはり電車は出た後だった。

 時刻を確かめれば電車は出発しているはずの時間だが、万が一発車が遅れている可能性もあって絹は改札口まで確認に来たのだ。

 順当に乗り遅れた。

 改札口の前でスーツ姿の少しくたびれた感じのOLさんが電光掲示板を見上げていた。やはり彼女も電車に乗り遅れたのだろう。

 絹は踵を返し、時間を潰す為に駅構内のコーヒー店に入った。白のブラウスに清潔なエプロンを着けた女性店員に、ホイップクリームとヘーゼルナッツフレーバーのシロップをトッピングして、持ち帰り用の容器でコーヒーを注文する。

 店内でコーヒーを飲みながら次の電車を待つのにも係わらず持ち帰り用に、と頼んだのは絹が猫舌故である。

 陶器のカップで提供されたら、コーヒーが冷めるのを待つ間に電車の時間が来てしまうかもしれない。だから絹は常に使い捨ての、持ち運びの利く容器で淹れてもらうのだった。そうすれば飲み切らない内に電車に乗る事になっても持ち込むことが出来る。少々お行儀が悪い行為なのかもしれないが。

 出来立て熱々のコーヒーを受け取ると絹は、駅の中央広場に面し床から天井まで大きく開口したガラス窓の前に設けられたカウンター席の、二つ空席が並んでいた内の一つに陣取った。バッグは天板の下の棚に置く。カウンター席に固定された椅子は座面が高かったが、窓ガラスは座った人の手元より下の部分が擦りガラスになるように設計されていて親切だった。

 足先まで素通しだったら女の子は色々と気を使う。

 椅子に座った絹はカウンターにカップを置いて蓋を開けた。少しでも早くコーヒーが冷めるように、である。

 絹は「まだ飲めるはずが無い」とコーヒーの温度を確かめることを放棄している。カウンターに右手で頬杖をついて目を閉じ、ふぅっと息を吐いた。

 仕事後の絹は少し消耗していた。

 僕は、絹はよくやっていると思う。

 体力的な心配はしていないが、やはり慣れない仕事では気を使うということがある。今はお店に居る間中、頭をフル回転させてずっと緊張状態にあるのだろう。

 接客の仕事とは常に優先順位との戦いである。今日中に片付けなければいけない仕事。早めにやっておかなければ、後々の状況が辛くなる仕事。時刻通りにするべき仕事。突然電話が鳴ることもある。

 もちろん目の前に居る客の対応が最優先。

 だがそれだって例外がある。

 例えば、客を待たせずに注文を全て聞き会計を済ませてからコーヒーを淹れるとしたら? シルキーズのサーバーマシンでは抽出におよそ一分もかかるのだ。その一分を客と談笑して過ごしていいなら、それはとても幸せな事だが、現代の日本ではなかなか許容されない贅沢な時間の使い方だろう。だからマシンにカップをセットしてボタンを押すその数秒間、客を待たせても後の一分を浮かさなくてはいけない。

 例えば、今ここを片付けておかなけれは、今これを補充しておかなければ、後で結局多くの客を待たせる事になる。ならば今、目の前の客には少しだけ待ってもらう。

 そういう数々の突発的な選択を刻一刻と迫られ続ける。今何をするべきか、考えて決めて行く。接客はそういった仕事なのである。

 しかし絹は勘がいい。

 すぐに無意識というか、反射的というか、自然体で仕事を回せるようになるはずだ。そして、そこから先に発揮される気配り、心配りがウェイトレスとしての腕、というものだろう。

 僕は絹の仕事ぶりを観察しながらそんな事を思っていたのだった。

 じっとしていたら少しは回復したのか絹がぱちりと目を開けた。

 またちらり、腕時計を確認した。電車の時間にはまだまだ余裕がある。

 絹がカップの側面を両手で触れて温度を確かめた。まだ口へは近づけなかったが、指先の熱が心地好かったのか、少しだけ口元がほころぶ。

 窓の向こうの駅構内には沢山の人が行き交っていて、男性の何割かが通りしなに絹の事をチラ見して行き過ぎる。

 絹は君達に微笑みかけている訳じゃないぞ。

「あれ。綴先輩」

 絹が呟く。

 うむ? ああ、確かに入交先輩だ。

 絹の視線の先で先輩が人の波に没していくところだった。

 こんな時間に出歩いていると言えば絹だってそうだが、予備校とかの帰りだろうか? それにしては随分と大きな、一泊旅行でもするような荷物だった。

 先輩が歩いて行った先には絹もこれから乗るローカル線の改札口がある。そういえば先輩と大川君がどの辺りに住んでいるのか知らない。じつは同じ沿線に住んでいたりするのかもしれない。

 時間的にはそろそろ急行が出発する頃合だ。

 先輩はその急行に乗り込むのだろうか。

 絹がコーヒーのカップを顔の近くへ持ち上げ、窄めた口からフゥーと息を吹きかけた。カップの中で溶けたホイップがふよふよと形を変える。そのまま唇をカップの縁につけたが、やっぱりまだ口に入れられる温度ではないと感じたのか、またカウンターに下ろした。

 なんだか、すごく焦れったい。

 大体、ホイップなんかをトッピングするからなかなか冷めないんだ。

 僕はこの手の不純物にまみれたコーヒーが好きではなかった。

 コーヒーに余計な香りを追加するなど邪道だ、と思っていた。コーヒー豆に対する冒涜だ、と感じていた。シナモンパウダーを振ったカプチーノ位の歴史があって、多くの人の味覚に試され洗練されている物ならいざ知らず、と考えていた。

 絹が飲むのをきっかけに、味を知るまでは。

 味わってみれば誠に悔しい事だが、美味しかった。

 コーヒーの熱で溶けて舌に絡みつくホイップはマイルドで濃厚だったし、鼻に抜けるシロップの香りは芳醇だった。コーヒーらしさ、という点では減じているかもしれないが、なら同じ物をホットミルクにトッピングして同様に美味しいか、と考えると疑わしい。コーヒーの苦味やコクが味を引き締めて、全体のバランスを取っていると思えるのだ。

 そう、僕は単に実体を知らずに毛嫌いしていただけだった。

 頭の固い、古臭い思考だという自覚はもちろんある。

 でも飲食物に対して保守的なのは悪いことではないだろう? 身体に毒かもしれない未知の物を体内に入れないようにして、人間は生存確率を上げてきたのだから。

 絹がやっとのことでコーヒーに口をつけた。コーヒーは味も温度も絹にとって満足の行く物で、また少し、しかしさっきよりはっきりとした笑顔が浮かんだ。

 カップを離すと絹の上唇に白いホイップが残った。

 汚れを嫌った絹は、唇を口腔内に引き込んでホイップを舐め取った。

 ぷるんと艶やかな唇が現れる。

 子供じみた仕草だった。

 絹は飲むことが可能な温度だと確認できたコーヒーのカップに蓋をかぶせ、その蓋についた吸い口から改めてコーヒーを飲んだ。コーヒーの保温の為と、なるべく唇を汚さないようにである。

 そして絹は温かいコーヒーに今日一日の疲れが溶けて出たかのように、ゆっくりと、大きく大きく息を吐くのだった。

 乗るべき電車の時刻が徐々に迫っていた。

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