第二章『黒髪のアリス』二
呼吸の落ち着いた絹はグラウンドに座り、未だマラソンを続けている同級生達を眺め、時折声援を送った。
女子の平均タイムを大幅に過ぎたところで寧々子ちゃんがゴールした。脚はガクガクだし、上体もグラグラの状態でふらふらと絹の方に、完走した後の惰性でもって近づいてくる。
「お疲れー」
「き、絹ぅ……。もうだめぇ」
寧々子ちゃんは地面の上にいる絹に覆いかぶさって来た。
「へっ? うぇぇぇーーーーー! 寧々子、汗掻きすぎ! ぬるぬるするーーーー!」
「はぁ、はぁ。……うへへ」
朦朧且つ恍惚とする寧々子ちゃんに絹が組み敷かれる。
寧々子ちゃんは見た目にも汗みずくで、白の体操服が水を吸って身体に張り付いている。年頃の少女のいろいろなラインが、具体的には小さいながらも柔らかそうな身体の線とレースで擬装された胸部拘束具の背中や肩の線が浮き彫りに、否、透かし彫りになって男子生徒には効果抜群だ。
A組の男子は入学からの一ヶ月で、この様にスキンシップ過剰な二人にも概ね慣れてきた。しかし今日の体育には偶々居合わせたB組の子達が居るのだ。彼等には耐性が無い。
どいつもこいつも見過ぎだった。
「せんせーい! お水飲んで来てもいいですかー?」
一方絹は最初こそ寧々子ちゃんのジューシーな感触に驚いたが、落ち着いて対応する。ベタベタするわけでも無く、拒絶するわけでも無く、友達が現実に帰って来れるように誘導した。
「うむ。みんな水分を補給してよし!」
体育教師からお許しが出た。
「ほら、寧々子。水道行くよ」
「にゃぁ」
絹の優しい言動に、寧々子ちゃんも若干名残惜しそうにしつつ素直に従った。
絹の手にすがって立ち上がり、腕に凭れ、連れ立って水道に向かう。二人は冷たい水で手と顔を洗い、充分に水も飲んだが寧々子ちゃんは顔を赤くしてのぼせたままだった。
僕は『威風堂々』を使って風を当ててやることにした。
不自然にならないように風を作らなくてはいけない。
こういった場合に、能力で作った風を直接ぶつけると違和感が出てしまう。自然発生する複雑な気流をイメージする事は、僕には不可能なのだ。
だから、僕は二人の後背の空気を更に後方に押しやるよう能力をコントロールした。
そうすることで形成されたエアポケットに自然と空気が集まってくるのだ。
そよそよと緩い風が起きる。
「いい風」
寧々子ちゃんが目を細め、僕が作った風で涼をとる。
「日陰で座ってなさい」
「うん。絹も一緒に来て」
「わかった、わかった」
「わかったは一回」
冗談が言えるくらいに復調したようで安心したが、僕には気になっていることがあった。
どうにも視線を感じる、……絹を見つめる視線を。
それは絹も気付いていて、その視線の発生源を探した。
校舎に近い植栽の木陰に一人、こめかみにガーゼを貼り付けた見学の男子が腰を下ろしていた。
見覚えの無い顔だ。しかしA組で無い以上、B組の生徒なのだろう。長く伸びた癖っ毛のウェイビーヘアが眼にかかるその下で、こちらが恥ずかしくなるほど真っ直ぐ絹を見つめている。
「誰だろ?」
「ん?」
「あの子」
絹は寧々子ちゃんに視線でもって男子生徒を示す。
「ああ」
「知ってるんだ?」
「んーん。全然知らない」
寧々子ちゃんはにべもなく一刀両断に切って捨てた。
「ただね。絹に振られた私が独り寂しさに震えながら登校したら、校門のところであの人がタクシーから降りてきたのよ」
「ごめんってば」
「歩き辛そうだったし、付き添いもいたし。今あそこにいるってことは入学早々休んでたB組の子だったのかなと想像するのです」
僕も交通事故で入学式にすら出られなかった不遇な生徒がいたというのは認識していたが、彼がそうか。だが、何故そんなにも絹を凝視する? 確かに絹は目立つ方だが。あれか? 久しぶりに病院の外に出たら、同世代の女子がまぶしいとかそういうのか?
僕としては幼い頃から知る少女が不躾な視線にさらされるというのは実にもやもやする。とても面白くないわけだが勘違いしないで欲しい。これは独占欲などでは無く、保護欲というやつだ。
僕と絹の間には男女の艶事など有り得ないのだから。
(アン)ラッキースケベ。




