一章-3 華音
今回主人公の名前が登場します。
あわてず騒がず、俺たちは走らずに歩いてその少女の元へ向かう。いくら目的ができたとはいえ、病院を走るのはマナー違反だ。きょうび小さな子どもたちですらそのことは理解しているであろう。
そこで俺は少女がどんな娘なのかを聞くことにした。さっきは恭二医師からも名前が聞けそうだったが、何事もタイミングというものがある。あの時はきっとタイミングが悪かったのだろうと思っておく。
「ああ、いい娘だよ。人の世話をするのが好きなようでよく入院患者の相手や病院の掃除なんかを手伝ってくれている。ただ……」
少し歯切れの悪い返事。一体どうしたというのだろうか。
俺が不振そうな顔を浮かべていたのだろう、吉田さんは「すまんすまん」と謝る。何を謝っているのだろうかこの人は。
「なに、その娘はなんだ、その……少々髪の色が人と違ってね。まぁそれが気にならないくらいにはよくできている娘なんだ」
「髪の色が違うって、外人さんかなにかなんですか?」
「いや、その辺は知らんが……まぁ直接会ってから話を聞くといいよ」
ごめんねぇ、と申しわけなさそうに吉田さんは謝る。俺はそれに「別に謝らなくていいですよ」と返しておく。髪の色が違うということは本人にとって触れられたくないことがあるのかもしれないし、それを、こういう言い方は失礼だが赤の他人である吉田さんに話す理由もないだろうから吉田さんが知らないのも無理はない。
そして数分ほど病院内を歩き、俺たちは外に出る。どうやら件の少女は外にいるらしい。
しかし第一声はどうしたものだろうか。初対面のわけだから初めましてはまず決定だ。後はお礼を言うことくらいか。
少し、胸が高鳴る。
「お、いたいた。ほら、行ってきな」
親指である方向を示す。その先には紫がかった髪の少女の後ろ姿があった。箒を持っているところを見るとどうやら掃除中らしい。しかし吉田さんは今おかしなことを言ったな。今のいい方だと一人だけで行けと言ってるような。
「え、吉田さんは来ないんですか?」
「何で俺が行くんだよ。こういうのは当事者だけで行うのがいいんだよ。ほら行ってこい」
背中を押され前に進む。こ、この親父……
しかたない。こうなれば堂々と前を向いて少女と話をさせてもらいますか……
「あ、す、すいません」
「……はい?」
少女は振り向く。
その瞬間、頭の中で鐘が鳴り響いた。
紫がかった長髪を後ろにまとめ、少し幼さの残った顔。目は大きめで幼さに拍車をかける。唇もひじょうに柔らかそうで男心をくすぐるものがある。何よりも美少女という言葉が一番似合うと思った。
「あの、どうかしましたか?」
手の平をひらひらさせて俺の様子をうかがう少女。
すぐに俺はハッと意識を戻し咳払いをする。いかん、初対面の少女相手に俺は何を観察しているんだ。これじゃまるで変態じゃないか。
「失礼、少々取り乱しました」
「いえいえ。とくにボクに問題はありませんよ」
どうやらボクッ娘らしい。いい、実にいい、じゃない。だから変態か俺は。
「あの、本当に様子がおかしいですけど大丈夫ですか」
表情からはわかり辛いが、本気で心配そうにしてくれているようだ。どうやら吉田さんや恭二医師の言うように本当に優しい娘らしい。
「何、問題はないよ。それよりも君だよね? 俺を病院の中に入れてくれた娘って言うのは」
「……ああ。あの時の方ですか」
少女は箒を落とさないようにしながら手を叩き、思い出してくれた。
「覚えられているようで何よりです。と、名乗った方がいいんでしょうがあいにくと俺は自分の名前を覚えてないのでご勘弁を」
小さく頭を下げて謝罪する。特に意味はないが下手に重くとられるよりはこうやっておどけてみせていたほうが空気は軽くなる。まぁなんとなくそう思っただけなんだけど。少女は少しぽかんとした様子だったがすぐに「ああ」とうなずいた。
「いわゆる記憶喪失というものですね」
「残念なことにね。おかげで自分の正体がわからないから不安でしかたないよ」
「そうですか。でも、ボクはアナタの名前を知っていますよ」
「そうですか。俺の名前を……………………………………………………え?」
今、聞き逃せないことをこの少女は言ったぞ。なんだって? 俺の名前を知っているだって? なんでなんだ?
「記憶を失う前にアナタとボクはほんの少しだけお話ししました。その時にお名前だけはお聞きしたんです」
少女は淡々と説明を行い、恭二医師たちに名前が伝わってなかったのは自分のミスだからと頭を下げてくる。
「いや、それはいいんだけど……俺の名前を教えてくれないか」
「構いませんよ。ですけど、疑いませんよね?」
「何を疑う必要があるんだい?」
「いえ、私もこの名前を聞いた時に一瞬自分の耳を疑ったので」
「そんな奇怪な名前なの俺?」
どうしよう。名前を聞くのが怖くなってきた。
しかし、ここで名前……例え残念な名前だったとしても受け止めなければいけない。他人に名前を聞かれるたびに「名無しの権兵衛です」って答えるわけにもいかんし。ここは覚悟を決めて名前を聞くしかあるまい。
少女に「お願いします……」と言う。
「わかりました。アナタのお名前は……アギト・ファングです」
「アギト・ファング、だと……」
なんだ、思いのほかカッコイイ名前じゃないか。あ、でも確かに明らかに日本人の見た目をしている俺がそんな外人チックな名前をしているのはおかしいな。しかし偽名を名乗る必要もないわけだし。
……いや、本当になかったのか? 仮にも俺はこんな重傷を負っていたわけだぞ。些細なことでこうなった可能性も否めないが、常識的に考えたらそれが当たり前のわけがない。ということは、彼女を巻き込まないために偽名を使っていた可能性がある。まぁ、死にかけて偽名を使うのもないとは思うが。
しかたない。ことの真偽はどうであれ俺の名前を教えてはもらったわけだからここは感謝するしかない。少なくともキラキラネームでなかっただけマシだろう。もしかしたらこの見た目で日系のクォーターとかそういう可能性もあるかもしれないし。
「ありがとう。これで人に自己紹介する時に「名無しの権兵衛です」って名乗らなくてもすむようになったよ」
「いえいえ」
「そういえば君の名前は?」
恩人の名前を知らないというのは人としてダメだろう。
「ボクの名前、ですか」
「そ。恩人の名前くらい知っておかなきゃな」
そうですか、と少女は少し躊躇いがちにしながら身体を捻り俺に背を向ける。
「ボクの名前は華音、大鳥華音です」
そして彼女は名前を言った。
「いや、満足だわー」
病室に戻りベッドで身体を横にする。
外を見れば既に暗闇に覆われている。思いのほか長引いてしまったのには申し訳ない限りだ。
名前を聞いた後にお礼と称して彼女を病院内の売店でせめてものお礼としてご飯を奢ってあげたのだが、少々話が弾みすぎた。家まで送っていくと言ったのだが「入院患者が何を言ってるんですか」と断られてしまった。まぁしっかりとしてる娘のようだったから問題はないかもしれないが、心配なのには違いない。
「しかし華音、か……いい名前の響きだな」
どこか懐かしく、心が落ち着く名前。彼女と出会えたことは本当に幸いだった。
満足し明りを消す。
最初はまだ興奮していたのかなかなか眠りにつけずいたのだが、そのうち思考はまどろんでいき、俺は眠りについた。