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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

城島晴香の死に至る考察

作者:

 始めは日記という形で残そうと思ったが、右手がうまく使えないため諦めた。指一本足りないだけでこんなに不便なものだとは。文字を書くのは諦めたが、ベッドサイドに置いた卓上カレンダーの日にちにマルをつけていくことにした。それくらいなら左手でもできる。

 それから実際の日記の代わりに、一日の最後にその日のことをしっかり振り返ることにする。頭の中に日記をつけるつもりで。私がまだきちんと思考できる人間であることを、ほかでもない自分自身に証明するために。


------------------


(卓上カレンダーのマルは、ひとつめ)



 まずは今日のことを振り返るとしよう。


 今朝は、最悪の気分で目を覚ました。なにがどう、とうまく説明ができないくらい、とにかく最悪の気分だった。頭が痛いし、気持ちも悪い。寝不足と二日酔いが一度に来たみたいな。

 目を閉じたまま寝返りを打とうとして、服の胸元がパリパリになっていることに気がついた。まさか眠りながら吐き戻したのだろうか。そう思えば、確かに口の中に嫌な味がある。ねっとりと塩気を含んで生臭い気がする。

 もう学生でもないのに情けない。よりいっそう最悪になった気分のままのろのろと身を起こし、頭を俯かせたまま目を開けたところで、――愕然とした。

 転げ落ちるようにベッドから下りて、もつれる足で洗面所に駆け込む。掌を叩き付けるようにして明かりを付けた瞬間、私は。絶叫をあげようとして、私は。

 大きく開けた口から生臭い血の塊を洗面台にぶちまけた。


 まっしろい陶器を赤黒い粘液が埋め尽くしていた。排水溝に流れ込んでいく液体はペンキみたいにドロドロしていて、こぽこぽと排水溝から空気の鳴る音がする。

 ぽかん、と口を開いたままそれを見ていた私は、洗面台の脇を握り締める両手の内、右手の親指が根本近くから千切れてなくなっていることに気がついた。


 なにこれ。

 いつ。


 考えた瞬間、記憶がフラッシュバックした。

 そうだ、そう。

 コンビニに行った。そこはもう、ほとんど私や他のひとたちに漁り尽くされていて、私がそこに入ったのも食料品ではなくトイレットペーパーやウェットティッシュを求めてのことだった。

 もう何度か行ったことのある場所だったから、今更そこに、それも店内に「あいつら」がいるなんて思っていなかった。

 レジカウンターの前を横切った瞬間、店員用の通用口から躍り出てきた「あいつら」の一体に襲いかかられた。激痛が走る。なんとか振り払い店を飛び出すことに成功したが、油断の代償は取り返しのつかないものだった。

 頭の底、首の後ろあたりで焼かれているような痛みを知覚した。

 痛みと、失血と、それらが示す事実へのショックで何も考えられなくなりながら、それでも必死に走っていたところまでは確かに覚えている。

 今朝、自分のベッドの上で目を覚ましたところを見ると、逃げ切ることだけはできたらしい。助かった。……助かった?


 だが、親指がない。

 親指がない、ないのは、そうだ、噛まれたからだ。

 噛まれたじゃないか、私は。


 あの、元人間の、化け物に。


 腰が抜けて、床に座り込む。

 人間ショックが大きすぎると、ヒステリーも起こせないというのは本当らしかった。


 ――死んで、蘇って、化け物になる。

 ――噛まれたら、感染(うつ)って、同じになる。


 ――そんな映画じゃあるまいし。


 初めてニュースを見た時、そんな風に笑った。

 ふふふ。あはは。その時の笑い声まで、まるで本当に聞こえているみたいに思い出せると思ったら、幻聴でもなんでもない今の自分の声だった。私は笑っていた。そのことに気づいた時、そうだ、笑うべきだと思った。

 笑おう。笑え。笑うことにだけ意識を向けていたら、その瞬間だけは何も考えなくていい。そうやって笑っていたら、そのうち自分では笑うのが止められなくなった。

 笑って、笑って、笑って、笑って、吐き気を催すほど笑って嘔吐(えず)いたら、小さな血の塊がまた口から飛び出して、それを見たら身体が勝手に醒めた。


 洗面台に手をかけて、わざと俯いたままゆっくり立ち上がる。

 一度ぎゅっと目を閉じてから、顔を上げた。


 鏡に私の姿が映っている。

 酷い顔をしていた。顔色が優れないとか、やつれているとか、そんな次元をとうに超えて、もっとどうしようもない意味で。


 混ざりものの多い再生紙みたいな、灰色っぽくくすんだ白い肌。

 肌には青紫色の血管が浮かび上がって、ヒビ割れのように顔中を覆っている。

 袖口で血を拭った後に現れた唇も、顔の血管と同じ色をしていてツヤもない。

 白目は半分なくなっていて、肌と同じように赤い血管が蜘蛛の巣状に広がっている。


 およそ、人間の顔ではなかった。生きている、人間の顔では。いや、死んでいる人間ですらない。

 そこにあるのは、紛れもない、化け物の顔だった。


 ぐんにゃりと鏡の中で化け物の顔が歪む。目を背けたいほど、醜悪でおぞましい表情。化け物が笑おうとすると、こんな顔になるのだと知った。私の顔なのに。間違いなく私の顔だと言い切れるのに、それでもこれは化け物の顔だ。私だけど、私じゃない。

 左手の指で右の手首をまさぐりながら、私じゃない、と声に出していた。私じゃない。私じゃない。じゃあ、私は。


 さっきあんなに狂ったみたいに笑っていたのに、鏡の中の化け物は息ひとつ乱していなかった。それはそうだ、当然だ。だって、左手はいつまでたっても右手の脈を見つけられない。さっきから、自分の胸が一度も動いていないことにも、気づいている。

 いつの間にか、小さな化粧バサミを握っていた。何の手当てもしていない、傷口が剥き出しになった親指の付け根にそのハサミを突き立てる。思い切り振り上げて、振り下ろして。

 ぞぶりと鳥肌が立つような感触だった。左手には柔らかいものを裂いた嫌悪感があり、右手には肉の内部を刃物が進むすさまじい異物感がある。けれど痛みはない。少しも。

 骨に叩き付けるように突き刺したハサミを、今度は手首を捻りながらまた勢いよく引き抜いた。同時にびちゃんと血の塊が洗面台に飛び散る。生理の血みたいな、腐りかけた牛乳みたいな、液体と柔らかい固形が混じったドロドロの塊。ぼっかりと空いた傷の奥には、ぐじゅぐじゅの肉とゼリー状の血液がつまっている。

 なのに何も感じない。何も。痛くて痛くて泣き叫びたい、なんてとんだマゾ思考だけど、でも。でも。


 そうであれば、どれだけ幸せなことか。

 瞳孔は開きっぱなしで。痛覚はなくなって。血は腐って。


 ――わたし、しんじゃった。


 声にしたら、鏡の中の化け物の顔が……化け物になった、私の顔が、さっきよりももっと醜くくしゃりと歪んだ。涙はでなかった。でないように、なってしまったのかもしれない。死んだから。化け物だから。


 ゾンビ。グール。リビングデッド。呼び名はなんだっていい。私は、「あいつら」に襲われ、噛まれ、「あいつら」と同じ化け物になってしまった。

 ただひたすらに生きた人間を求めてさまよい、人間を見つければ見失うまでひたすらに襲いかかり、生きたまま獲物の肉を喰らおうとするだけの、それだけしか考えられない知性なき化け物。


 ……。


 鏡を見る。往来を唸り声をあげながらさまよっている化け物どもと、全く同じ見た目をした私がいる。

 鏡の中の自分と目を合わせて、自問した。人間を襲いたい? お腹が空いてる? 生の肉を食べたいと思う? …………自分自身に問いかける私に今、知性はない?



 私は、いったい。



------------------


(卓上カレンダーのマルは、ふたつめ)



 昨晩は寝付くのに時間がかかった。

 次目覚める時まで「私」の意識は残っているのだろうか。そう思うと不安で怖くて眠れなかった。正直言って眠るつもりもなかったのだが、気づけば椅子に座ったまま眠っていたらしい。

 起きて最初に感じたのは、まだ「私」が存在していることへの胸が締め付けられるような安堵だった。


 安堵している自分がおかしくて、笑ってしまう。情けなくて、おかしい。


 生前と同じ意識を保ち続けていたことが、救いだとも希望だとも思えなかった。なぜなら私の体が完全に死んでしまっている事実は変わらない。化け物になってしまったのに頭の中だけがまともなままだなんて、そんなのかえって不幸じゃないかとさえ思った。

 それなのに、消えるのは怖い。「私」がなくなるのが、怖い。


 生きていたい、と思う。

 もう、死んでいるのに。


 一日かけて、自分の状況をわかる限り確認して整理した。


 両手首、首筋、どこで計ってもやはり脈はない。左胸に手をあてても何も感じなかった。

 血管が青白く浮かび上がっているのは首も手も当然一緒だ。


 鏡を覗きながら、ペンライトを目に近づけたり遠ざけたりしてみたが、瞳孔のサイズに変化はなかった。まぶしいとも、目が痛いとも感じない。


 生きている感覚と死んでいる感覚があった。死んでいるというか、すごく鈍くなっているというのか。

 例えば死んでいる感覚の筆頭が痛覚だ。昨日みたいな自棄は起こさずに、爪をたてたり、肌をつねったりして試したところによると、そういうことをされている、という触覚は働いているが、それを痛いとかくすぐったいとか感じる部分が機能していないみたいだった。

 ちなみに右手の親指の傷は包帯で隠した。傷口にはガーゼを当てた後、少し考えて、サージカルテープでびっちり覆った。自分で広げた傷口は、とても自力で再生しそうには思えなかったし、治療に意味があるとも思えなかったから。死んでいるのに、壊死もないだろう。

 テープの上から更に手首にかけて包帯を巻き付けながら、クールだな、自分、と思った。そう思う一方で、それが間違いだとわかっている自分が、気取った自分のことを見下ろしているも知っていた。仕方ない。だって、ちゃんと考えたら、おかしくなる。


 けれどもっともショックだったのは、自分でも意外なことに、何も食べられなくなってしまったことだった。

 何を食べても味を感じない。味覚は死んでいるのに触覚は生きているから、本当に何を口に入れても最後には、小麦粉を口の中で練っているか、砂粒を噛み砕いているような感じになる。それを我慢して飲み込んでも、即座に体が反応して全て吐き戻してしまう。


 そのことが、こんなにも絶望感を引き起こすとは思わなかった。

 食べるってことは、生きるってことだ。人間の自分が食べていたものが食べられなくなったという事実は、まるで人間として生きること自体を拒絶されたみたいで大分こたえた。


 それから後はもう何もする気がなくなって、結局人間の肉を食べるしか能がない化け物になってしまったのかと小さくなって震えていたが、恐れていたような飢餓感は夜になってもやってこなかった。


 どういうことだろう。

 昨日と似た疑問が湧いた。


 人間を追い回し、その肉を食べることしか頭にない化け物に、私はなってしまったのではないの?


 人間の食べ物を食べられなくなったことは、悲しい。

 けれど、化け物の食べ物を食べなくてすむのなら、それにこしたことはない。



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(卓上カレンダーのマルは、みっつめ)



 ほんの少し空腹感のようなものを感じる。希望を持って缶詰を開けてみたが、臭いだけで吐いてしまった。

 辛うじて液体なら少量は摂取できると気づいたから、ミネラルウォーターを飲んで気を紛らわせた。

 まだこのマンションは水がでる。屋上のタンクに残っているのだろう。それでも浄水されていないはずの生水を飲み続けることには抵抗があるから、飲料用の水はとても大事にしていた。

 でも、今はもう違う。昨日に比べて空腹は感じるが、喉の渇きは微塵も感じないままだ。つまり、そういうことなのだろう。


 気になることがある。

 私は化け物になってしまった。でも、頭の中にはまだ「私」が存在している。


 たぶん人間は、おそらく私を「あいつら」の仲間だと判断するだろう。私だったらきっとそうだ。

 じゃあ、「あいつら」ならどうなのだろう?


 見た目だけなら間違いなく「あいつら」と完全に同じ私を見て、「あいつら」は私のことを、どう判断するのだろう。


 けれど、それを試みる勇気がでない。


 もし「人間」だと判断された場合、私はみすみす我が身を危険にさらすことになる。いつも運良く逃げ切れるとは限らない。


 あるいは逆に「あいつら」と同じものだと判断された場合は。

 その、場合は。



 それすら考える勇気がないのに、試すことなんてできるわけがない。



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(卓上カレンダーのマルは、よっつめ)



 この体になってから、初めて外に出た。

 明確な目的があったわけではない。しいて言うなら、最後の一歩を踏み出せない勇気の延長行為だ。


 長ズボンに、長袖のパーカー。フードが大きくて深くまで被れるものを選んだ。視界を(せば)める恐怖と人間に遭遇する恐怖を秤に掛けた結果だった。

 暑さは感じない。……化け物だから。


 結果として、視界の狭さは、変化した体感覚でほとんど補えることが判明した。

 耳も、鼻も。ずっと鋭くなっていて、僅かな呻き声や腐臭に即座に反応した。


 物陰に隠れて「あいつら」をやり過ごしながら、何度もその前に飛び出すかどうか悩んだ。結局しなかった。

 人間の姿も見た。「あいつら」に襲われているところで、これは生前と変わらず慎重にやり過ごした。「あいつら」に襲われたら、死んで蘇って同じものになるか、蘇ることもできないくらい肉を喰い尽くされるかの二択しかない。一度でも噛まれたら、もう助かる方法なんてないのだ。


 いつもより長く外を出歩いた気がする。

 化け物の鋭敏な感覚は、私を化け物から守ってくれるようだ。


 空腹感のようなものに、特に変化はない。身体の疲れも感じない。

 人間のように身体を動かしたら腹が減る、というようなことはないのだろうか。


 それなら嬉しい。

 

 ただ、少し身体が重怠い気がしないでもない。自分でもはっきりしない。

 死んだ肉体に体調不良なんてことがありうるのかもわからないが、とりあえず早めに眠ることにする。



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(卓上カレンダーのマルは、いつつめ)



 今日も出かけた。


 警戒しながらではあるが、こんなに長く外を出歩いたのはいつぶりだろう。その理由を思えば喜ぶ自分に拒否感を感じながらも、開放感も確かにあった。


 ただ、倦怠感がある。

 外にいる時は気を張っている分あまり自覚がないが、家に帰ってくるとなんともいえず、だるい。


 身体のしんどさというよりも、頭の中のしんどさという気がする。

 いろいろ考えたいことがあるのに、ものを深く考えるのが億劫だ。


 せめても気を紛らわすようなつもりで部屋中を片付けた。

 全てが変わってしまった日の翌日におざなりに拭いたままだったドアノブやフローリングの床も、もう一度綺麗に磨いて血の痕跡は完全に消した。

 パリパリに乾いてこびり付いた赤黒い汚れをちまちまと擦り削って綺麗にする作業は、わずかの間私を無心にしてくれた。

 血で汚れた雑巾は、同じく私の血で汚れていた衣服と一緒にして小型の紙袋に詰め込んだ。

 ベッドの血の跡もどうにかしたかったが、そっくり全部とりかえることもできない。シーツの上にかぶせていた吸汗用の薄いブランケットだけとりかえることにする。ブランケットを外すと、予想以上に大きな血の染みがベッタリ広がっていて、正直ヒいた。

 封を切らないまま押し入れに投げ込んでいたブランケットを新しく広げる。開封済みの予備がもう1枚あるつもりだったが、ないということは、多分クリーニングに出して取りに行かないままになっているのに違いない。それどころではなくなってしまったから、忘れたのだろう。

 古い方のブランケットもまた別の紙袋に詰め込んだ。汚れた面が見えないように入れたとは言え、中身が見えるだけで何となく嫌な気持ちになるから、どちらの紙袋の口もガムテープで閉じて封をする。


 玄関口で少しの間考えた後、結局紙袋をふたつともマンション一階のゴミ捨て場に運んだ。似たような紙袋の横に並べて捨てる。

 乾いた血でも、もしかしたら臭いで「あいつら」が引き寄せられるかもとも考えたが、今の私に臭わないなら「あいつら」にとっても同じだろうと判断した。


 部屋に戻ると、まるで、見た目だけは以前と……全てが変わる前と、何も変わらない部屋に戻ったみたいだった。鏡さえ、見なければ。


 身体もきれいに、と思ったが浴室は使えない。流石に水風呂は辛いし。と考えて、熱い寒いも感じなくなった今なら水風呂も何も関係ないことに思い至る。でも試そうとは思わなかった。死んだから水風呂でも平気、なんて、そんなの人間のすることじゃない。

 自分の思考の滑稽はわかっていたが、それを否定したり修正する勇気もなかった。


 身体を清めるには、ウェットティッシュや抗菌シートを使っていたが、そもそもそれが切れたからコンビニに行ったわけで。

 ばっかみたい、と。自分の呟いた声を聞いた瞬間、なんだか本当にばからしくなって、死んでる癖に風呂とか、そんな、なんて思ってしまって、何も考える気をなくした。


 これ以上起きていても、何もいいことはないだろう。


 水を飲む量を少し増やして眠る。

 眠れ。



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(卓上カレンダーのマルは、むっつめ)



 明るい時間は出歩いて、夕方以降は部屋の掃除。というのが、常態化しそうな予感がある。

 何を考えるのもだるいから何も考えたくないんだけど、何も考えないでぼーっとしてると考えたくないことを考えてしまう。


 お腹が鳴ったりはしない。でも、空腹感は増している。日ごとに、というよりも、意識するごとに、というほどの速度で。

 再チャレンジで、今日はカロリーメイトを口にねじ込んだ。どうせ何を噛んでも小麦粉か砂だと、ひねくれた気持ちでわざとぱさついたものを選んだ。

 スティックを3つに割る。本当は4つくらいにしたかったが、ボロボロと崩れて無理だった。流石に1/3サイズを丸飲みは厳しそうだったので、水の入ったコップを片手に一度だけ噛んで、口の中で2つに割るや水で流し込むことを勢いで3度繰り返す。

 そこまでやったが、当然のように全部吐いた。ピンク色の水に黄色い半固形のドロドロが混ざっている。水が赤い理由を考えると気が塞いだ。


 結局、違うことに意識や行動を集中させているしか対処法はないようだった。

 外を出歩いては、周囲の気配に気を尖らせる。

 家に帰っては、片付けていないところを探して掃除する。


 試験直前の学生みたいだと思うと、ちょっと笑えた。

 学生みたい、から連想して出してきたアルバムを順に見ていると、その都度ごとの思い出がたくさん浮かんできて胸がいっぱいになった。不思議と嫌な記憶なんてひとつもなかった。喧嘩したことも、大きな失敗ごとも、今に比べれば、そんなもの、全然。

 「愛で腹は膨れない」とは何の科白だっただろう。

 でも、思い出は束の間空腹を忘れさせてくれる。


 アルバムで思い立って、ずっとつけていた日記帳をベッドサイドに置いた。右手の親指がないせいでつけることを諦めた日記だった。

 乾電池式の電気スタンドも集めれば意外と明るいものだ。最初から順番に読んでいくと、これもまた色々な記憶や思い出が蘇ってくるようで、気を紛らわせるのに一役買ってくれればいいと思う。



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(卓上カレンダーのマルは、ななつめ)



 今日も出かけたが、短時間で引き返した。

 理由は襲われている人間を見たからだ。血におぼれる悲鳴と、ねばついたそしゃく音。

 全身が震え上がるほどの恐怖を感じた。怖かった。今も怖い。怖い。こわい。


 家に帰ってから、ほぼずっと少量の水を口に含んでいる。

 口の中のものをよく噛むと満腹中枢が働きやすい、という話を聞いたことがある。だからずっと水を噛んでいる。空腹がたまらなくなったり、喉に流れ込んで水の残量が少なくなったら飲み込んで、新しい水を含む。

 話の真偽とか、水でも意味があるのかとかは、考えたりしない。


 家に帰ってからは、ずっと日記を読んで過ごした。

 ゆっくり水を噛み締めるようにひとつひとつの思い出をたんねんに辿っていたが、この今の生活になってからはつらい思い出がほとんどで手が進まなくなったので、そこから先は読むのをやめて、もう一度最初から読み始めた。


 どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 この頃は、こんなにも楽しかったのに。しんどいことすら、過ぎてしまえば楽しいと思えたのに。

 今はただ、辛いことは、辛いまま。


 かなしい。

 こわい。


 日記を繰り返し読めば読むほど、頭の中で過去の記憶と今日見た光景が重なり合って、私を絶望に突き落とす。

 でも、絶望から目を背けたって、絶望だ。

 悲しいことすら、怖いことすら、考えることを止めてしまったら、私にはひとつしか残らない。



 お腹が空いている。

 お腹、空いたの。




 こわいよう。



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(卓上カレンダーのマルは、やっつめ)



 おなかすいた。

 空いてる? うん。お腹、空いてるんだと思う。

 頭がぼんやりしているのはおそらく空腹のせいだ。お腹が空きすぎると、ぼんやりするよね?

 順番、あってる?


 でも、そう。

 人間の肉なんて絶対に食べるもんか。


 今日も「あいつら」に襲われるひとを見た。泣いていて、必死で、でも、ぐちゃぐちゃで、ずるずるになって、されて。あんなことは、絶対にしない。

 私は「私」でいたい。「私」の意識が消えて、化け物になってしまうことが怖い。こんな身体になって、心臓も動いてなくて、何言ってんだって感じだけど、でも、怖い。

 それをしたら、「あいつら」と同じことをしてしまったら、その時が「私」の終わりの瞬間な気がする。

 飢えてひからびて死ぬのでも、人間を食べて本当の意味で化け物になるのでも、「私」にとって同じ「死」に違いないなら、私は飢えて死にたい。


 ぼーっとする。おなかすいた。ぼーっとして、おなかがすく。あれ、おなかがすくから、ぼーっとするんだっけか。


 飢えて死ぬって、おなかがすいて死ぬことか。そんな死に方、やだね。でも、しかたないんだけど。しかたない? しかたないよね。


 水を飲んでも、気が紛れない。

 だから考え事をして、気を散らしたいんだけど、それもうまくいかない。

 頑張って、考えなくては。


 こんなふうな日常になってから、お腹が空く、ということにそれまでよりは確実に慣れてきていたはずだけど、それでも、お腹が空くというのと、飢えるというのでは全然違うのだと痛感している。


 食べたい。


 この欲求が人間として正しいものなのか、それとも化け物としての欲望なのか、わからなくてすごく、怖い。

 人間の肉を食べたいなんて思ってない。人間の腹に頭をつっこんで内臓を貪る自分を想像したら、一瞬空腹を忘れるくらい気持ち悪くなって、吐いた。吐いてしまう自分がうれしくて、ほっとする。


 もう出かけない。

 やめる。

 やめて閉じこもる。閉じこめる。

 私から、他の人たちと、それから何より「私」自身を守るために。


 凄く疲れている。すぐに頭がぼんやりする。思考するってこんなに疲れることだっけ。

 やっぱり空腹のせいで、ぼんやりしているんだろうか。

 逆、なんだろうか。


 ……私にとっては、どちらであっても怖い。



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 つらい。つらいつらいつらい。


 おなかがふくれるのなら、小麦粉でも砂粒でも何だって食べるつもりでいるのに、どうして身体はいうことを聞いてくれないの!


 食べては吐いて、食べては吐いて、吐いたものを食べてはまた吐いて。


 たべたいたべたいたべたいたべたい。


 おかしい。こんなの、絶対おかしい。

 ちがう、まちがってる。


 この、きもちは、まちがってる。


 なんだって、食べるよ!

 なんだって、するよ!


 にんげんでいたい!

 にんげんでいたい!


 にんげんを食べたいだけの、ばけものになんてなりたくない!


 にんげんとして、生きたいの!

 「わたし」、死にたくない!



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(日記 7/3付)



 ほんの つかのまに 波が引く

 変なたとえだけど おなかが痛い時みたい

 大丈夫 わたしはまだ ちゃんと家にいる


 死ぬなら が死が いい

 でも ほんとは 死ぬのこわいよ 死にたくないよ

 たぶん 実さいに 化けものになっちゃったら

 化けものなんだから ぜんぶ 平気になっちゃうんだろうけど


 でもそれなら どうして わたしのこと 最初から化けものにしてくれなかったの?


 神様 残こくすぎるよ

 こんなの あんまりです


 一度絶望して 死んだのに

 もう一度同じように 絶望しろって言う


 それならせめて すぐに 殺してくれればよかったのに

 こんなにも じらして 不安にさせて 期待が安心に変わるくらいの時間 放っておいて

 それを今さら 取り上げるなんて


 うらみます

 うらみます

 うらみます


 はやく ころして



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 その日は、すさまじい吐き気で目を覚ました。

 トイレに駆け込み、せりあがってくるものを全て便器にぶちまける。どろどろの濁った赤い塊が汚らしい音を立てて水に跳ねた。


 ひとしきり吐ききって、呆然とする。

 これはいったい、どういうこと。


 口の中に残るえぐみのある生臭さは、自分が吐いた粘液の正体について嫌な想像をかきたてた。

 目を刺すような悪臭のひどさと、自分の想像に対する反射的な拒否感に、咄嗟にタンクのノズルを回す。ゴポンゴポンとどろついた汚濁を無理に流し込まれる排水口が苦しげな音をたてる、のを、便座に置いた両腕で身体を支えながら見下ろした。

 赤黒い粘塊と、それが溶けたピンク色の水が排水口に吸い込まれていって一回空っぽになった溜水部に、透明な水が渦を描きながら溜まっていく。


 涙は零れなかった。どんなに瞬きを繰り返しても。

 滲まない視界は、何も私から隠してくれない。


 身体を支えるのは、蜘蛛の巣みたいな青紫色の血管に覆われた両腕だ。右手は指が欠けている。

 渦が治まった水面には、見慣れない腕と同じ見た目の、よく見慣れた顔が映り込んでいる。白目は完全に赤く充血していて、ぽかんと開いた唇はひどい打ち身みたいな黒っぽい紫色だ。うっすらのぞく歯は吐瀉物と同じ色で薄汚れている。……なんてひどい、化け物の顔。

 ひゅく、と喉が鳴る音を聞く。開いたままの口からピンク色をした汚い涎がしたたって、化け物の水像をぐちゃぐちゃにした。


 ふらふらと部屋の中を歩き回って、最後にベッドに座り込んだ。

 フローリングの床にはところどころ血の跡が残っていた。もちろんベッドと、それから自分のシャツの胸元にも大きな血の染みがあって、玄関のドアノブにもべったりと血がついていた。そして、私自身の、両手にも。


 ああ、やっぱりそうなのか。

 夢なんかじゃあ、ないのか。


 パリパリに乾いた血糊がヒビ割れる両手を見下ろした。何が起こったのか、疑うべくもなかった。


 そうだ、そう。

 コンビニに行ったのだ。

 もう何度も行ったところで、まさか今更そこで、しかも店内で「あいつら」にでくわすだなんて思っていなかった。

 飛びかかられて、激痛があって、振り払って、逃げ出した。息が止まって、全身に悪寒が走るほどの激痛の記憶がある。痛み。つまり、そう、噛まれた。どこを。ええと、そうだ、欠けている右手が、答えだ。

 ここで目を覚ましたということは、記憶はないながらも逃げ切ることができたのだろう。そして恐らく、手当ての途中で力尽きてしまったのだ。


 タンスの上に片していた救急キットの箱をベッドまで持ってきた。なんだろう、その時無意識に首を捻ったのだが、その理由が自分でもよくわからない。軽度の寝不足のような重怠さが頭の中にあって、しっかり考えるのが少ししんどい。とりあえず、中途半端だった手当てをきちんとしておくことにした。本当はもう、そんなこと無意味だとわかっているけれど。でも、だからといって、自分の異常を見続けても平気ではいられない。まるで痛みがないこともそうだし、黒い粘液みたいな血もそうだし、賞味期限が何日も過ぎたステーキ肉みたいな、湿ったぐずぐずの腐りかけの肉も、そう。化け物の証拠。

 化け物だと痛感させられるのは、心臓に手をあてた時と、鏡の中を覗いた時だけで十分だ。


 少し考えて、欠けた親指を覆う包帯の上から更に新しい包帯を巻き付けた。本当の意味での手当てではない。単なる目隠しに過ぎないのだから、血まみれの包帯をはいで傷口を再び直視することは躊躇われた。どうせ他と一緒だ。

 腐りかけか、もう腐っているのか、とにかく変質した血と肉は妙なねばつきをもって糸を引いた。そこで薄い脱脂綿を二つ折りにして傷口に押し当ててから、付け根からなくなった人差し指と中指の根本にも同じように包帯を巻く。

 手当てを終えた右手を眺めて、溜息をついた。ぞっとする色をした肌に真っ白い包帯が際立っている。右手利きの自分のことを思うと、これから先、色々なことが不便になるはずだ。


 これから先。

 そう、これから先のこと。


 おかしいことはもうわかっていた。噛まれて、感染(うつ)って、化け物になる。人間を襲って喰うだけの、それだけしかない化け物に――私は、まだ、なっていない。

 理由なんて、わかるはずがない。化け物になっていないことを、純粋に喜べもしない。

 それでも、まだ確かに私は、「私」という人間の意識は、ここに残っている。思考している。身体は死んでしまっても、でも、まだ、……生きている。


 死にたくない、と思った。

 生きていたい。人間で、いたい。


 死んでいる癖にとも思う。どうしたって本当の意味で人間に戻れることなんてないってわかってる癖に、とも思う。でも、人間として生きる意思があることを私自身が忘れない限り、そうして、化け物の欲求に負けない限り、私は人間でいられるのだと……信じては、いけないだろうか。


 これからは、私が私であることを日々確認しながら生きていこう。「私」がまだ生きていることを、他でもない私自身に証明するために。

 以前は日記をつけていたが、指が2本しかない右手では諦めるしかない。どうしようかと考えて、カレンダーに印をつけていくことを思いついた。それなら左手でもできる。一番目に付くのは、ベッドサイドに置いた卓上カレンダーだったが、左手で印をつけるにしても、その間不便な右手でカレンダーを押さえておかなくてはならず、できなくはないがやりにくい。それに何日か前まで継続して日付がマルで囲まれていて、紛らわしいかもしれないとも思った。でもこれ、なんの印だったっけ。

 それはそれ、また後で考えることとして、結局クローゼット脇にかけた壁掛けカレンダーに印をつけていくことにした。これなら、壁が支えの役目もしてくれる。


 今日の日付を大きくバッテンで消す。

 7月14日。

 これが、私が生きるための戦いを始めた日。



(壁掛けカレンダーのバツは、ひとつめ)































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(日記 6/26付)



 傷口を見るのが日課みたいになってる。

 こうして字にすると、なんだかとても気持ち悪い趣味を持っているみたいで、自分でもちょっとイヤ。


 大きな変化はない。

 傷がふさがったり、ヒフが再生する様子はあいかわらずない。

 傷の内側は剥き出しで、でも、灰色っぽく少し変色している。カサブタとはやっぱりちょっと違う。

 勇気を出して、ちらっと指先で触れてみると、思った通り表面は少し固くて、でも普通の肌に触れたみたいな柔らかさもあった。

 怖くてそれ以上は触れなかったけど、傷が傷のまま肌になった、というのが印象としては近いかも。

 うう、自分で書いててさっぱりわからん。


 でも、他の傷とはやっぱり違う。

 この間うっかり切ってしまった右の親指の腹は、ぱくっと裂けたままで、内側は粘っこくぐちゅぐちゅしているままだ。


 ……すごく、書いてて悪寒が走る。実際の痛覚がなくなっても、痛いって考えてしまうと、やっぱりぞわぞわする。


 とにかくだ。何かが違うんだろう。それが何なのかなんて、さっぱりわからないけど。

 今もう一度傷に触れてみた。視覚に頼らないと、少しざらついた感触は、できたてのカサブタにも似ている気がする。って、さっき書いたことと違ってるじゃん。

 う、うーん。フランスパンの表面のとこにも似てるかも、とか思った私、パン屋さんに謝れ。


 あとは、そう、髪の毛がずっと触っているはずなのに、「触ってる」とは感じないってことは、傷口の表面自体には感覚がないってことなんだろう。



 今日で、21日目。

 ついに20日を超えた。


 喜んでいい?

 喜んで、大丈夫?



 私、化け物だけど、ひとりぼっちだけど、でも、人間として、生きていいの?

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― 新着の感想 ―
[良い点] すごく面白かったです 主人公が人間以外の存在へと変わっていく感じが、陰鬱としていて良かった 個人的にはもう少し外の世界の情勢なんかもあると面白いかとも思いましたが、でも個人として完結してい…
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