(37) それぞれが知る己<3>
・・・
メフィスは、不機嫌だった。
メジャーアップデート以降、全く自分らしさが発揮できていない。
何故、こうなったのか?
自分の魔法で生み出した鏡の前に立ち、メフィスは自分の姿を眺めて溜め息をつく。
その鏡には、性別不明のとにかく手も足も体も…全てがひょろ長い…という印象のPCが、少し脱力気味に体の中心線をズラしたような姿勢で立っていた。
胡散臭い「-●●-」という記号の羅列にそっくりなサングラスをかけた顔。
人前では決して外すことが無かったそのサングラスを、メフィスの繊細で細長い指先が挟んで、引き下ろすように外す。
人差し指と中指で挟むようにぶら下げたそれを、しばらくブラブラと揺らしながら掲げ持っていた彼?は、視線をサングラスから外して、再び鏡に映る自分に視線を戻す。
ゲオルク・メフィス・ファウスト。
…という「真の名」を全て言うまでもなく、GOTOSに「フェレス」という名前を与えていることから、そのPCを設定する上で、誰もが知る有名な悪魔をモティーフにしたことは明白だった。
いつもは、その名を聞くだけで、皆、面白いように警戒するのが常だった。
・・・
実際、あのシステム側の担当者のジウですら、メフィスには不要なほどの警戒感を勝手に示し、メフィスが特にこれといって何をした…というワケでもないのに、面白いように無様に振る舞い、心をも乱していた。
さすがにシステム側の担当者を、それだけで手玉に取って、どうこう出来るというようなことにはならないが、それでもメフィスの嗜虐的な欲求は大いに満たされた。
メジャーアップデートの日を迎えるまで、メフィスは、その名前の持つ効果を最大限に活用し、それと合わせて、一般プレイヤーたちのレベルでは容易に見つけることができない最高レベルの結界防御…ステルスによる諜報活動…平たく言えば「盗み見・盗み聞き」に精を出して、多くのプレイヤーを手の平の上で踊らせてきたのだが…
「…アイツが…第6位のTOP19だったなんて…」
サングラスの下に隠されていた瞳は、とても美しく…そして繊細な色をしていた。
細く切れ長の整った目を…さらに細く眇め、メフィスは左手の親指の爪を噛む。
思い詰めたような顔つきで、鏡の中の自分を見つめているメフィス。
その視線が下がったように思われた瞬間、ブチッ…という音とともに、その親指の爪が噛み千切られる。
顎を引いたメフィスの口は強く引き結ばれ、喉の奥からくぐもった呪いのような声が漏れる。そして、そのまま爪の切れ端を口から吐き出すと同時に、言葉も吐き出す。
「許さない。許せない。許したくない。アイツは。アイツだけは…嫌いだ」
・・・
何故、一瞬でもあんな男の言うことを信頼してしまったのだろう?
アイツはにこやかな笑みを浮かべながら、絶対に本心を覚られようとはしなかった。
何を考えているのか分からない不気味さ…は、自分の専売特許だと思っていたのだが、アイツに会って、それが間違いだとメフィスは知った。
メフィスも、確かに考えを読みにくいPCではあったが、それはある意味当然で、そもそもあまり何も考えていないのだから、読めるワケがないのだ。
一口に「頭の良さ」と言っても色々なタイプがあり、メフィスは深慮遠謀…というタイプの頭脳の持ち主ではない。
だが、相手の言葉や行動を即座に判断し、より自分に都合のよい方向へ、より相手が不利になる方向へと、見事なまでにコントロールする天性の頭の良さを持っていた。
だが、アイツは違う。
今なら分かる。
アイツは、一見、単なる善人で、悪意など欠片も持っていないような顔で近づいてきてはいるが、その行動は用意周到で、おそらく先の先まで見通した計算尽くしたシナリオの上で自分を演じている。
そのシナリオと、それを演じる自分への自己暗示がよほど見事なのか、その結果、アイツは本当の心を完璧に他人の目から隠蔽することができる。
アイツの考えを読んだつもりになっている相手は、まんまとそのシナリオに沿って演じる架空の人物の心を読まされているだけなのだ。
そうだ。あの日の自分も、まさにそうだったのだから間違いない。
・・・
メフィスが最初にアイツと会ったのは、メジャーアップデートの直前だった。
あの日、メフィスは、ある中級PCとのバトルを勝利して終えたところだった。
その中級PCは、メフィスの見た目に惑わされ、経験値を稼ぐのに丁度良いカモだと思ったのだろう。
そこそこに防御力の高そうな防具で身を固め、中級レベルとしては不相応なほどのレア物の槍を担いでいた。「はじまりの町」の壮絶な領土争奪戦を見終えて、普段よりも戦意が高揚していたのかもしれないが、「初試練の平原」を独りで移動していたメフィスを見て、バトルを仕掛けてきたのだ。
その中級PCの物々しい出で立ちとは対照的に、メフィスの出で立ちはいつも通りの軽装だった。薄手の黒いタートルネックに、黒いジャケット。下半身はややゆったりとして体の線が出ないタイプのロングパンツ。特に武器や防具を携帯しているようには見えない無防備な姿を晒していた。
だが、一方的に襲いかかられた形のメフィスは、少しも慌てなかった。
何故なら、自分が負けることなど有り得ないから。
他のPCが疎かにしがちな、どのPCにも用意された基本的モードを極め尽くしたメフィス。最高レベルの防御結界を身に纏うメフィスには、よほどのことが無い限り、大仰な防具などは必要ない。防御魔法ですら使用することは希だった。
MPを消費する防御魔法よりも、代償無しで機能する基本モードの防御結界の方が、コストパフォーマンスが高いから、メフィスはこのスタイルを気に入っているのだ。
・・・
驚く中級PCに、メフィスはニヤリ…と笑って、自分の名を告げる。
そこから先は、面白いようだった。メフィスの名を必要以上に過大に評価して、勝手に警戒し、空回りしながら自滅してくれた愛すべき愚かな中級PC。
その闘いぶりや、語る言葉から、その中級PCにとってこのデスシム世界がそれほどの重さを持っていないと知ったメフィスは、その瞬間から情けも容赦も棄てて、アッサリと隠し持った暗器で相手の急所を一突きにし、【死】のステータスを与えた。
遊びでやっている割には、まぁまぁの経験値をメフィスに加算してくれた相手に、メフィスはサングラスを外して黙祷し、その場を去ろうとした。
その時、いつからそこに居たのか、パチパチと乾いた拍手をならす気弱そうな男が、中級PCの亡骸の傍らに現れた。
それが、アイツだった。
どのような会話をしたのか、詳しいことは思い出せない。
思い出そうとすると、何だか夢の中の出来事のように記憶が曖昧で、イライラとする。
その男は、メフィスの闘いぶりを大仰に褒め称え、メフィスの名を聞くと「…なるほど」と深く納得するように頷いた。
メフィスと同様に軽装な男は、システム側の担当者が着るのとソックリな黒いスーツに身を包み、まるでセールスマンのような話し方で、メフィスに語りかけてきた。
最初は不審さを感じていたハズのメフィスだったが、いつの間にかその男の巧妙な話術に引き込まれ、褒められ煽てられ…気が付くとその男を弟子にする約束をしていた。
・・・
「自分は何としても生き残りたいのです。好きなようにアイテムを購入できる財力もなく、物理戦闘力も魔法戦闘力もそれほど高くないので、ぜひ、メフィスさんの闘い方を見習って、自分も強さを手に入れたいのです…」
真剣に訴えてくる男に、何故かメフィスは好感を抱いてしまった。
メフィスは、この世界で必死に生きようとする者には、何故か少し共感を覚えて甘くなってしまう。
その男に、闘いの駆け引きやテクニックを教える…という名目で、幾つか自分の手伝いをさせることになったメフィス。
もちろん、それまで一度もそんなことをした経験はない。
何度か我に返って頭を捻ったメフィスだったが、その男に微笑みかけられると不思議と疑問が消え去り、いつのまにか師弟というよりは共謀者のような関係になっていた。
基本的にはメフィスが指導する側だったハズだが、その男は「もし、こういうケースの場合は、どうしたら良いでしょうか?」などと質問する形で、巧みにメフィスを誘導し、メフィスが考えてもいなかったような行為を仕向けてきた。
あのメジャーアップデート当日の「ジウの偽物」騒ぎ。
どのような方法で実行したのかはメフィスにも不明だが、あれも間違いなく、あの男が仕組んだことだと思われた。
自分が関わったのは、本物のジウが現れた時に「…あれ?…また来たのかい?」と不思議そうに問いかける…という役割だけ。
・・・
それだけで、あの男の目論見どおり、ジウは面白いように混乱した。
アイツは、その様子を隠れて見ていた。
そして、ジウが去った後、手を叩きながら出て来て、メフィスを賞賛したのだ。
「流石はメフィスさん。アナタの名前だけで、システム側の担当者でさえ、あんなにも簡単に混乱し無様な姿を晒すとは…」
確かに…ジウが混乱した理由の一つには、メフィスの評判から来る無用なまでの警戒があっただろう。
だからその時点ではメフィスも、その男の賞賛を心地よいものとして受け止め、自己顕示欲を大きく満たすことができた。
だが、よく考えれば疑問なことだらけだ。
そもそも「ジウの偽者」とは誰だったのか?
協議会では、TOP19の中に犯人が居ると言っていたが、メフィスの得意とする防御結界ステルス・モードすらも、簡単に見破る強者たちが何人もいたのだ。そんな強者たちを、まんまと騙してみせるような真似を、いったい誰が可能だというのか?
少なくとも、自分には無理だ。メフィスは悔しいが素直に認める。
だから、アイツが本当に自分に弟子入りしなければならないような未熟者だったなら、アイツにだって出来るハズはないのだが…アイツは平然と第6位の席に座っていた。
間抜けな自分は、その時になって初めて、自分が騙されていたことを知ったのだ。
・・・
会議室の大机を隔てて、自分と目を合わせたアイツは、ニヤリ…とは笑わなかった。
何事も無いように柔らかく微笑み、メフィスに会釈をしただけだ。
メフィスは内心で大きく動揺し、そして混乱していた。
何故?…アイツが…まさか?…第6位…
ぐるぐると巡る思考の中で、あの一連の「偽物」騒ぎの黒幕が、おそらくはその男の仕業だと気づいたメフィスだったが、その場で糾弾しようとしてメフィスは、それが出来ない自分に気づいた。
客観的な証拠が一つもない。
さらに、何故、自分が犯人を知っているのか…を上手く説明できない。
迂闊に第6位を糾弾しようものなら、下手をすると共犯者と見なされかねないのだ。
何故なら、自分はジウに「また、きたのか?」などと嘘をつき、慌てふためく姿を笑って見ていたという事実があるのだから。
それに対して、あの第6位が、自分の見ていないところで何をやっていたのか、メフィスは全く関知していないのだ。
自分とは別に共犯者がいるのか?…それとも、アイツが自ら「偽物のジウ」として他のTOP19たちを謀っていたのか?
メフィスには、実際のところ、コトの真相が何も見えていなかった。
そんな状態で、無様に信じてくれ…と訴えるのは、自分のキャラクターにそぐわない。
・・・
メフィスは、このデスシム世界で、ただ単に生き残れれば良いというワケではない。
TOP19に選ばれるぐらいだから、誰よりもこの世界での【死】を忌避しているということに違いはないが、オロオロと無様に困惑したり、必死に他人に訴えかける…といったような泥臭い真似をしてまで、生き残りたい…というワケではないのだ。
あくまでも自分はスマートなスタイルを崩してはならない。
他人を騙すことはあっても、他人に騙されることなどあってはならないのだ。
もう…騙されるのは十分経験した。
現実世界で…嫌と言うほど。
だから、自分は、この第2の人生ともいえるデスシム世界で、何が何でも今度は騙す側の人生を全うしてやるのだ。
現実の世界に残してきたメフィスの体は、今、メディカル・プールの中に浮かんでいる。
そう表現すると、他のプレイヤーたちと変わらないように聞こえるが、メフィスのリアルの体が浮かんでいるメディカル・プールは、他の者のそれとは大きく異なっていた。
それは、アスタロトたちの使用しているそれのような、バスタブ…と表現されるような規模のものでは無かった。
メディカル・プール…という名称から得られる印象そのままの本格的なプールで、その周辺には各種の計測機器が接続され、常時、バイタルチェックが行われている。
そう。メフィスのリアルの体は、今、意識不明の重体で、高度な治療を受けているのだ。
・・・
本来ならば、リアルのメフィスには、そのような高度な治療を受けるだけの財力はない。
何故なら、リアルのメフィスもまた、ユリカゴス・チルドレンの一人なのだから。
国家から支給される小遣い程度のCPはある。比較的、節約志向で、せっせと蓄えていたのだが、それでも「親持ち子女」たちの家に比べれば微々たるものだ。
だが、ある日、幸運にもある資産家の血族から、リアルのメフィスを養子に迎えたいという申し出があった。
望外の幸運だといえるこの申し出に、リアルのメフィスは狂喜した。
23世紀のこの時代。
財は、一部の血族名を持つ者たちに集中している。
科学の進歩とともに、副次的に発見される新たな内分泌攪乱物質(環境ホルモン)は実に多種多様で、人類の生殖能力は著しく低下しており、どれだけ巨万の富を誇っていたとしても、子孫を残すことができなければ、その財産は国家へと帰属することになってしまうのだから。
だから血族名持ちは、どれだけ好色と誹りを受けようとも、必死で子どもをつくろうとする。自分の財産を次代へと託すために。
それでも、子どもを授からなかった…という血族がユリカゴス・チルドレンを養子に迎えるのだろうか?
いや。そうではない。
いくら子どもが欲しくても、誰の遺伝子を受け継いだか不明な子を養子にはしない。
・・・
この時代なら、当然、遺伝子分析により親を推定することも可能だが、この場合はそんな検査をすることに何の意味もない。子どもが出来なかった自分の遺伝子でないことは明かなのだから。
子どもを授からなかった血族は、養子を取るとしても他の有力な血族からである。
では、何故、リアルのメフィスに養子の申し出があったのか?
先ほども説明したとおり、「どれだけ好色の誹りを受けようとも」…血族名を持つ者は子どもをつくろうとするのだ。
最終的には相手を選ぶこともせず、日ごとに相手を換えて、子作りのための行為を繰り返すのだ。
その結果、逆に意図せぬほどに多くの子どもに恵まれてしまい…今度は逆に、醜い相続争いの危険を避けるため、一部の子を除いてユリカゴスへと預けられる多くの子どもが発生することになる。
元々がユリカゴスの利用や、束縛し合わない男女関係というものに抵抗の薄いこの時代、血族名持ちに腹を貸す形となった娘たちも、報酬さえ十分に貰えるなら誰も文句は言わない。そして、当然のことながら第三者も誰も非難することはない。
血族名持ちは望み通り跡継ぎを得て、母体となった娘たちも十分な報酬を得る。ユリカゴスに預けられた子どもだけが不幸…かというと、血族名云々に関係ないカップルから生まれた子どものほとんどがユリカゴス・チルドレンとなるのが当たり前の時代だから、誰も自分を殊更に不幸だとは思わないのだ。
勿論、幸せだと思う者も居はしないのだが…。
・・・
リアルのメフィスも、どうやら血族名持ちの遺伝子を受け継いでいたらしい。
大勢の子どもたちのうち、跡継ぎとして選ばれた幸運な子どもたちが、しかし、不幸にもナノタブ治療でも対応できない難病で斃れたり、事故で即死するなどして悉く失われた場合に、その穴埋めとして、ユリカゴス・チルドレンの中から遺伝子検査を受けて改めて養子に迎えられる子どもが希にあるのだ。
一度、ユリカゴスに預けられたら、制度上は完全に血縁が解かれることになっている。
そのため、遺伝子上は間違いなく親子であると認められても、手続き上は養子となるのである。法律上の整理が進んだこの時代、養子だからどうだ…ということもないので、誰も気に留めるものはいない。
リアルのメフィスは、宝くじの1等と前後賞をセットで当てたような幸運を噛みしめた。
しかし、現実は、そんなに甘くは無かった。
養子に迎えられた理由は、跡継ぎとするため…では無かったのだから。
迎えられた家は、政界でも権勢を競う血族だった。
当然の如く、敵の多いこの一族には、他の勢力からの有形無形の圧力や妨害などの手が及ぶ。その最も酷いものが、暗殺だ。
リアルのメフィスは、ある意味、影武者としての人生を押しつけられたことになる。
その生活に安穏などという言葉は無かった。
実際に何度も襲われ、傷を負い、毒を盛られた。その結果のメディカル・プールだ。
・・・
脳にもダメージを負い、意識不明の重体となったリアルのメフィス。
外部からみれば、意識不明にしか見えなくとも、心は色々な思いで揺れていた。
心は、脳が生み出している…のではないと…メフィスは知った。
心は、脳や体とは関係無く、全く別に存在しているのだ。
だが、心だけでは実際の世界に何の影響も及ぼせないため、そのための器として肉体が存在する。脳は、心と肉体を繋ぐためのインタフェースということなのだろう。
インタフェースが破壊されたため、心の動きは一切、肉体へと伝わらなくなった。
だから、医師たちは、反応しない肉体から判断して「意識不明」だと結論づける。
だが、意識はココにある。
メフィスは、自分とそれを囲むようにして治療を試みる医師たちを客観的に感じとりながら、考えた。
では、自分は…いつ死ぬのだろうか?…と。
リアルのメフィスの心臓はまだ動いている。
しかし、だからといって心臓に心があるなどとは、さすがにメフィスも思わない。
いや。その可能性はゼロではないのだが…。
とにかく、肉体を動かすことができなくなった自分が、時間と共に朧で曖昧になっていくのをメフィスは感じた。
あぁ…。こうして徐々に存在が希薄で…曖昧になって、死んでいくのだろう…。
・・・
騙されて、利用されて、影武者として常に危険に怯えていた自分。
血の繋がった親からは、温かい目を向けられることなど終ぞ無かった。
それを思えば、このまま死んだ方がマシだ…そう思い…思念を眠らせていったメフィス。
しかし、その望みは叶わなかった。
依然として、「意識不明の重体」という状態を絶妙にコントロールされたまま、死なさず生かさずで、メディカル・プールに浮かばされている。
本物の跡継ぎの安全を考えれば、「意識不明の重体」のままメディカル・プールに浮かんでいると思われた方が、都合が良いということだった。
生きていれば、その体にはパーツとしての価値もある。…などという、おぞましい言葉が、メフィスの心を凍らせる。
メフィスは、肉体と心が別であるなら、心だけでも死んでしまおう…そう考えて、一切の思考を遮断し、何も感じないように努めた。
そうして確かに、自分の心が薄らぎ、徐々に消えていくのを感じた。
いや。何も感じられなくなっていった…。
…が、ある日。メフィスにとっての悪魔が、メディカル・プールの脇に立った。
それが誰かは今でも分からない。
だが、その悪魔は、メフィスのリアルの肉体に、怪しげなナノマシーンを注入した。
デスシム…に含まれているのと同じ…ナノマシーンを。
・・・
そこから先の各設定レイヤーやチュートリアルの様子は、アスタロトが経験したそれと、大きくは変わらない。
未だに正体不明のゲーム・マスター?が、「この世界なら、アナタにも幸せになれるチャンスが十分にある」そう約束してくれた。
誰も信じる気にはなれなかったが、何故か、今日までそのゲーム・マスター?の言葉だけは忘れることなく、このデスシム世界を生きてきた。
そして、今…
メフィスは、望みどおり、騙される側から騙す側へと生まれ代わり、幸せを手にした。
メフィスの名前は、いくつかのエピソードと共に知られるようになり、その名前だけで相手を攪乱できるまでになった。
MMORPGなどというものの経験はあまり無かったが、メフィスにはこの世界しか無いのだ…という真剣な思いがあった。
その思いがメフィスを、TOP19に選ばれるほどの強者へと押し上げたのだ。
だが…
アイツは、その自分の生き方を弄んだ。
長いようで短い回想から抜け出ると、メフィスはあの見るからに善人といった笑みを浮かべる第6位の顔を、強く脳裏に思い描いた。
アイツの狙いは不明だが、アイツに良いように弄ばれて【死】ぬのだけはゴメンだ。
・・・
この世界での【死】が、現実の体に何の影響もない…としても、ここから抜け出たメフィスは、死んでいるのと同じようにメディカル・プールに浮かんでいるだけだ。
そんな状態に戻るなんて…絶対に嫌だ。
メフィスは、決して人前では見せないほどの憎悪の表情を鏡の中に映す。
(憎い。自分を…この世界でも騙すアイツが…憎い…憎い…にくい…!!!)
第6位を対象として限定した破壊と滅殺の衝動が、メフィスの細身の体中を駆け巡る。
その熱のような衝動が、メフィスの体からオーラのように燐光を放出させる。
その光が、激しく揺らめいた、次の瞬間…
メフィスは、慌ててサングラスを装着する。
鏡の中に視線を戻すと、そこに見知らぬ人影が映っている。
鏡に映る自分の、その背後に、ひっそりと立っている男性PC。
黒くスッキリとしたアンダーウエア-とは対照的に、所々に返り血を浴びたような跡や様々な汚れが染みついたバトルウェア-を羽織っている。
(…誰だ?…いや。アレは…確か、協議会の席で誰かの付き添いとして来ていた…)
メフィスは、鏡を生み出していた魔法をキャンセルしつつ、隙を見せないように極力小さな動作で振り返った。
・・・
ひょっとしたら、振り返った瞬間に消えているかも…そんな可能性が脳裏に浮かんだが、その男は、鏡に映っていたままに、そこにぼんやりと立っている。
「…君は?…確か、第18位の…GOTSS…だったように思うけど?」
取りあえず、相手が即座に攻撃してくるという様子では無かったために、メフィスは慌てることなく問いかけてみた。
しかし、相手は、その言葉に全く反応を返さない。
ただ、メフィスをジッと見ている。
メフィスは領土や本拠となるアジトを持たないため、この場所は別にメフィスに断り無く侵入する者があっても不思議ではない。
しかし、自分には彼が現れる気配がまるで読めなかった。
そう言った意味で、目の前の相手を危険だと感じている。
フェレスを呼び出そう…一瞬そう考えたが、本当に絶体絶命のピンチを迎えるその時まで、フェレスのことは最後の奥の手として秘匿しておくべきか…?
動かない相手を前に、メフィスの思考は忙しく回転する。
<<…違う。…オマエでは無い。似ている【イロ】だが…オマエのは少し…違う>>
突然、頭に響いた言葉に、メフィスは耳を疑う。
いや。それは、音声では無い。思念として直接、メフィスの思考に割り込んできたのだ。
・・・
「何?…何と言った?…【イロ】…とは何なんだ?…意味が分からないよ?」
メフィスは困惑して、訊き返す。
しかし、その第18位のGOTSSは、その問いには答えず、逆にメフィスへと意味不明の質問を投げかけてきた。
<<破壊の【イロ】が見えた…。オマエは、この「世界」を破壊したいのカ?…>>
やはり、聴覚センサーには外部からの入力の反応は無い。
この声は、メフィスの心に直接に割り込んできているのだ。
リアルの世界でも心だけの状態を経験しているメフィスだから、すぐそれが分かった。
「破壊…の…イロ?…」
あぁ。確かに自分は、第6位を思い浮かべて、激しくその衝動に駆られていた。
体と心の分離をその身で体験したメフィスに取っては、相手の体を「破壊」し、そして心を「滅殺」しようという分離した感覚としてその衝動は沸き起こっている。
おそらく、目の前の男は、その「破壊」の衝動の方に強く反応しているようなのだが…メフィスは静かに首を横に振った。
「…違うよ。ボクは世界を破壊したりしない。この世界でしか生きられないんだから」
その言葉を聞いた瞬間。目の前の男は、静かに頷き、黙って転移していった。
・・・
・・・
北岩大陸東部。
名もない小さな村の古い家屋の一室。
・・・
「残念ながら…票決は2対2であります。従って、多数決では結論は出せず…ということであるが…反対のお二人のお気持ちは覆ることはありませんかな?」
普段ならこのように票が割れたとき、勝手に議長権限を発動して自分の思うとおりに結論を誘導してしまう玄武も、今回ばかりは慎重な立場を守っているようだ。
その問いに対して、黙って腕を組んだまま目を瞑っているのは青龍。
微動だにせず、無言を貫くことで意思が覆ることの無いことを表明しているようだ。
一方、居心地悪そうに何度も椅子の上で座り直し、モジモジと体を揺すっているのは紅一点、女性PCの朱雀。
自分以外の3人の顔色を窺うように上目遣いに視線を走らせると、意思を固めるようにきつく目を閉じて、絞り出すように声をだす。
「す、スーは、や、やっぱり止めた方が良いと思う…の…ね」
「…けっ!」
朱雀の言葉が終わらぬうちに、口癖の「けっ!」という奇声を上げて、まるで朱雀を威嚇するような目つきで睨むのは白虎。
自分の右の拳をジッと見つめながら、苛立たしげに声を荒げる。
「こういう無秩序な危機的現象に立ち向かわないで、一体、いつ無秩序と戦うつもりだっていうんだよ?…あぁん?」
・・・
もう、それだけで朱雀は体を縮めてしまい、もう何も言えなくなる。
普段は無口な青龍が、重低音の声を響かせて白虎に警告する。
「威圧して…相手の意見をねじ伏せるな。あのジュピテルと変わらぬぞ…それでは」
その言葉に、玄武もうんうん…と頷く。
白虎は、不機嫌に「けっ…」とは言ったものの、言い返すことはせず黙る。
この4人にとって、ジュピテルは共通の憎むべき相手だった。
それぞれが大事にしていた想い人を、ジュピテルの手によって失っている。
彼らは、本当なら、自らの想い人を失った時、その後を追って自決…いや…ログアウトしようと考えたのだ。
この世界で【死】によって想い人と離別しても、現実世界のその人が実際に命を失うワケではない。
左端とその想い人のように…現実世界での接点がまるで無い場合には、ある意味で永遠の離別…とも言えなくはないのだが、幸いこの4人は現実世界においても想い人たちとの接点を持っていた。
だが、逆に、そのコトが4人を、容易にはこの世界での【死】を受け入れられなくしている理由でもあった。
彼ら4人の想い人は言ったのだ。【死】を目の前にして「生きて」…と。
彼らを自由にするために、人質となることを拒み、命を奪われるその直前に…。
・・・
この世界は仮想の世界だが、しかし、現実の世界と同じように一度ログアウトしてしまったら、二度と戻ってこられない…という点で、この世界での命は、現実と同様にかけがえのないものだった。
想い人たちの「生きて」という願い。
それには、次のような言葉が続くのだ。
「…そして、私たちの代わりに見届けて…。この世界の行く末を…」
それは、また、別の口から次のようにも続いた…
「…そして、強くなって…私たちのような悲しい思いをする人がいなくなるように…助けてあげて欲しい…」
…と。
これが現実の【死】なら、まだ楽だったのかもしれない。
約束が守られなくても、共に命を失ってしまっていれば、責めることも責められることも出来なくなるのだから。
しかし、自分たちを生かすために、自分たちの自由を奪わないために、人質として生きながらえる道を捨てて、命を投げ出した者たちは、現実の世界で自分たちを見守っているハズなのだ。
それなのに、簡単に命を失って、約束も果たさずにログアウトするなど、どうして出来るだろうか?
・・・
彼らが4人だった…というのも、生き続けなければならないという想いを強くする一つの力となった。
言うなれば、互いが互いのライバルとなったのだ。
他の3人が、想い人との約束を守って頑張っているのに、自分だけがそれを果たせずにログアウトしたら、どんな顔をして想い人と再会すれば良いと言うのか。
斯くして、4人は必然的にギルドを結成することになる。
それは、同じ「死ねない理由」を持つ4人だからこそ生まれたギルドだった。
彼らの名前が、4人とも四神の一柱の名と同じだったことは、天啓であると感じた。
まるで、何者かによって仕組まれたのではないか?…と疑いたくなるほどの偶然。
ギルドの名前を「四神演義」とすることに、誰からも異論はなかった。
これが…ギルド「四神演義」に属する4人の共通する「死ねない理由」だ。
他のTOP19たちに比べれば、大した理由でないように思われるかもしれない。
しかし、彼らにとっては、決して軽くない…命がけで守るべき誓いだった。
だからこそ、今回の議題でも意見がぶつかる。
軽々しく【死】を受け入れられない…という想いと、同時に弱きPCたちに秩序ある仮想世界を与える…という使命との間で、その選択が揺れ動いているのだ。
「あのハザード・イベントは、ジュピテルが行うような価値観の押しつけでもなく、最近暴れ回っている2人組が振りまくような無秩序な破壊や殺戮でもない」
・・・
青龍が、賛成派2人に対し、逆に翻意を促すように語りかける。
TOP19ランキングでも、実際の戦闘力においても4人の中で頭抜けている青龍の発言は、玄武や白虎としても無視はできない重さを持っていた。
「…たしかに。システム側の告知の通りであるなら、あの危機的な現象は、単なるシステム側が用意したイベントであり、我々の目的である秩序ある世界の創世に関わるものではないのであるが…」
「それが胡散臭ぇって言ってるんだよ。アレが本当にイベントだっていうなら、何であんなにアナウンスが遅いんだ?…それに、アッチコッチで謎の影響が出てるって…もっぱらの噂じゃねぇか?…ありゃぁ…本当は、相当にヤバイ…って臭いがするぜ…」
賛成派…つまり、ハザード・イベントに積極的に参加しようという二人が、意見を重ねる。この二人が問題としているのは、あの現象が発生した当初の驚異的な発達速度と、それにより実際に進路上の小村が壊滅状態となり、数人であるとはいえ死傷者が出ているという事実だった。
「イベントであるのに、それが告知される前に被害にあったものがいる。これは、少し不自然ではなかろうか?…もしそうなら、十分な情報を与える前に被害にあったPCにとっては、これほど不公平なことは無いと思われるのだ」
「同感だぜ。普段、融通が利かねぇ石頭のようなシステム側の連中が、アレだけくどいほどに『公平性。公平性』と繰り返していやがるのに…おかしいと思わねぇか?」
その発言には、青龍と朱雀も黙り込む。直ぐには反論できないらしい。
・・・
しかし、やがて朱雀が、恐る恐る反論を試みる。
「…そうだとしても…あの現象の場所は、ここからずっと遠く離れた場所だよ?…スーたちが、彼処まで行くとしたら…あのジュピテルの領土を横切らないと行けないんだよ?…お、思いっきり迂回するなら…別だけど…」
「けっ。構うもんか。行きがけの駄賃で、ついでにジュピテルの領土も奪ってやれば良いんだよ!」
「…御主。結局、それが本当の目的なのではないのか?」
朱雀の反論に、すかさず反駁を加える白虎を、ジロリ…と青龍が睨みつける。
「…な、なんだよ?…悪いのかよ!?」
「おそらくジュピテルも、この現象への対処のために首都市から離れることは出来ないだろう。そういう状況に乗じて、過去の我らと同様にジュピテルの圧政に苦しむ者たちと矛を交えるつもりなのか…御主は…」
「き…綺麗事を言ってるんじゃねぇよ。ジュピテルの野郎が自由に動ける時だって、結局は、アイツが直接出てくるコトなんかネェだろうが!…それに、少なくともジュピテル親衛隊の連中は、圧政に苦しめられてなんかいねぇぞ!?…アイツらは共犯者だ」
「…びゃ…白虎は、結局、ただ暴れたいだけなんじゃないの?」
「何だとテメェ!!」
瞬間的に、白虎の中で殺気が爆発する。
それに応じるように青龍の気も高まり、朱雀の身を庇うようにオーラが覆う。
・・・
ギルドの結束をも揺るがすような険悪なムードが流れたとき…
「…ん~。貴殿はどなたか?…今、我がギルドは大事な協議中なのであるが、急ぎの用であるなら…特別にお聴きするが?」
…と、玄武の場違いな声が響き、その険悪なムードを霧散させる。
白虎がその声に怪訝な表情で振り返り、青龍も視線の先を玄武の視線に合わせて変える。
朱雀も驚いたような顔で壁際の一点を見つめている。
そこには、あのTOP19たちの協議会の場で顔を見知った男性PCが立っていた。
所々に返り血を浴びたような跡や様々な汚れが染みついたバトルウェア-の下に、対照的に清潔感のある黒くスッキリとしたアンダーウエア-を着込んでいる男。
「けっ…な、なんだ。テメェか?…どうした?…突然にやって来て」
白虎と気質のよく似た男。
TOP19には選ばれていないようだが、白虎の目からすると、デニムパンツの第18位の男よりも、この薄汚れたバトルスーツの男の方がどう見ても強者に見えた。
あの会場で初めて顔を合わせた相手だが、自分とよく似た喋り方をするその男を白虎は強く印象的に記憶していた。
「…どうしたよ?黙りこくって。…っていうか…テメェ、一人なのか?」
白虎の問いに、その男は何も答えようとしない。
・・・
苛ついた白虎が…
「テメェ。いい加減に何とか返事したらどうだ!…やんのか?あぁん!!!」
と激高した瞬間。
(その【イロ】…も、少し違う)
突然、白虎の頭に直接、言葉が流れ込んでくる。
驚愕して、頭を押さえる白虎。別に、頭が痛いわけではないが、驚いたのだ。
(違うようだが…問う。オマエは、世界を破壊したいか?)
その問いに、白虎は一瞬、キョトン…とする。
しかし、直ぐに呆れたような表情に変わり、笑いながら答える。
「はははは。けっ…だぜ、けっ。何言ってやがるんだ、テメェ?…世界なんか破壊できるワケ無いだろう?…どんだけ大物なんだ、オマエはよぅ?」
だが、その答えを聞き終わる前に、興味を無くしたのか既にその男は背を向けている。
まだ慣れていないかのような、フラフラとした歩き。ヨレヨレのバトルスーツは、前面と違って、返り血を浴びることの無い背中側には、ほとんど汚れがついていない。
唖然と見送る4人を、振り返ることもなく、その男は幻のように部屋から去っていた。
・・・
次回、「それぞれが知る己<4>」へ続く
※ついに、破壊の意思とマックスの異変の関係が明らかに…