(16) ジウ VS 慈雨 …VS マボ?
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さて、ここで問題です。
今、この部屋の中に、本物と偽物はそれぞれ何人ずついるでしょう?
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正直、誰もが混乱していた。
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自分が本物であると自覚している者は…思った。
普通ならどんな状況であろうと、最低でも自分だけは本物であることに確信を持てるハズだ。
だって、自分なんだから。
でも、こんなに次から次へと、偽者?…らしき者が出てくると…果たして自分以外には、いったい誰が本物で間違いないのだろうか?
特に、そのうち2人は「俺って本物…だよね?」的な不安を抱えていたりもするし…。
ただ、その2人が共に不安を分かち合う相手は「自分の偽物」というわけではなく、新たな又はオリジナルの自分であるらしいので…そういう意味では、両者とも自分<も>本物であると確信している…とは言えるのだけれど…。
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ところで、自分が偽物だと知っている者も…思う…かもしれない。
あれ?…何か予想外の展開になっていませんか?…なんというか…その…
いつもは、あんな感じのキャラの人が…今回はやけにアレじゃないですか!?…と。
よくよく考えたら、自分以外の全員が本物であるという保証はどこにもない。
自分は偽物だ。
しかし、本物だと思っていた目の前の相手も、ひょっとしたら偽物かもしれない。
…となると、騙す気満々でほくそ笑んでいたのに…その笑いも引き攣らざるを得ない。
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さて、ここでもう一度、少し表現を変えて問題です。
偽物なんて…そもそもいるの?
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・・・
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「慈雨さん。酷いですね。いきなり何をするんですか?…私は本物ですよ?」
反防御系束縛魔法【六縛呪】の、赤く…青く…色を変えて明滅する淡い光の六角形。
それに対し、目に見えない防御場を展開して拘束が完成しないように抗うジウ。
「…白々しい嘘を…」
そのジウの言葉を、冷たい声音で切って捨てる慈雨。
黒いロングパンツのポケットから小さなビー玉のようなものを取り出し、左右それぞれに3つずつ、合計6つの玉を指と指の間に器用に一つずつ挟んで身構える。
じりじりとジウとの間合いを詰める慈雨。小さなビー玉は、【六縛呪】の威力を強めるための法具魔法のアイテムだろう。
顔の前で一瞬だけ両手をクロスさせ、次の瞬間にはその両手を大きく外側へと開いた勢いのままに投げる。
投げ出された6つのビー玉は、驚くほどに正確に【六縛呪】を構成する光の六角形の各頂点へと配置される。
偽者を追い詰めた慈雨。
しかし、驚きを隠せないマボとイシュタ・ルーの視線は、ジウではなく慈雨へと向けられていた。
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確かに【六縛呪】は、防御魔法を応用した技だ。
防御に特化してレベルアップをしてきたジウが使えたとしても不思議はない。
しかし…
慈雨は、果たして…これほどまでに攻撃的になることがあっただろうか?
問答無用でジウに襲いかかる…その氷の様に冷たい目つきは、「豹変」という形容がピッタリなほどだ。
そして、マボには一つ、腑に落ちないことがある。
「…じ、慈雨君。き、君は…何故、このジウを偽者だと言い切れるんだ?」
この問いに、顔はジウへと向けたまま、視線だけを鋭くマボの方へと移して慈雨は叫ぶ。
「何故って?…だって、コイツは…普段のジウが絶対に言いそうもない…『以上が異常の理由だ』とか…その後に妙な笑い声を………」
「だから…それを、どうして君が知っているんだ?…と聞いている!」
今度はマボの顔つきが険しいものに変わる。
イシュタ・ルーも少し青ざめた顔で、慈雨のことを見つめている。
それで、やっと「アスタロトたち」も、マボの疑念の理由に気が付いた。
「その会話は、慈雨君…君がこの部屋へ来るよりも、かなり前のもののハズだぞ?」
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マボに指摘されるより前に、自分がそれを口にした段階で、慈雨も自分の失策に気が付いたのだろう。
美しい唇を小さく噛んで、返す言葉を選んでいるのだろうか。
マボに向けていた鋭い視線を、ユックリとジウの方へ戻しながら…囁く。
「…と、扉の外で…き…聴いていたのよ。シュラくんの…ことが心配だったから」
そして、一呼吸おいて、再び強い口調で吐き出す。
「私を疑うよりも…今は、このジウの偽者をまず何とかすべきでしょう?…仮に私に疑念を持ったとしても、このジウが怪しいことには間違いはないじゃないの!」
「そのジウが…偽者か否か。…実は、私は計りかねているんだ…が…君はどう思う?ルーくん」
突然、マボから名指しされて驚いた顔をしたものの、イシュタ・ルーは直ぐにその問いへの答えを返す。
「うん。私も…マボちゃんと同じで…迷ってる。だって…ちゃんと身長も…低いしっ!」
「…身長?………あぁ…そんなもの、どうとでも…」
「それに!…何よりも、ロトくんに優しいの!」
元気良く答えたイシュタ・ルーに、慈雨は眉根を寄せて訝しむ。
・・・
その意外な理由に、魔法を継続するための集中力が乱れたのか、パシッ…という小さな音と共に【六縛呪】を構成する光の三角が赤と青に分離しながら弾け消えた。
マボは、その様子を見て薄く微笑む。
そして、小さく溜め息をつきながら両手を腰に当てて、軽く頭を斜めに傾ける。
「ふぅ………その反応。これは、ますます…ややこしいコトになってきたみたいだな。ルーくん。もう少し、君から説明をしてやってくれ」
「あぃ!…えっとね。最初に来た『ジウの偽者』ちゃんは~、マボちゃんが良っく観察してたんだけどね、背が本当のジウよりも大っきかったの!…それとね、忽然…と現れるのが無理で…モヤモヤした感じで現れて、それから…えっと、無表情じゃないの!」
「身長なんて…どうとでも。それに…さっき彼は………」
反論しようとした慈雨は、そこで…何故か口籠もる。
目線を一度足下に落としてから、気まずそうにマボの方へと視線を向ける。
「ね?…おかしいだろう?…自分でも、そう思うよね?…慈雨君?」
「………」
慈雨は、再び唇を噛む。
【六縛呪】の戒めから解かれたジウは、2人のやり取りを興味深そうに見守っている。
その…モノ言わぬ無表情な佇まいは、本物のジウと見分けが付かない。
「君の言いかけた『さっき』とは、いつのことかな?…今来たばかりの慈雨君?」
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その問いには答えずに、慈雨はイシュタ・ルーへと向き直る。
「今、ルーちゃんが言った特徴なんて…彼が偽者かどうかの判断には使えないわよ?」
「ほぇ?…どうして?」
「そもそも、最初に来たあの偽者は、どうだったの?…ルーちゃんは、自分でそのことを…ちゃんと覚えている?…最初の偽者はシュラくんに優しくなかった?…中立の立場で、無表情なシステム側の担当者なら…そっちの方が当たり前でしょ?」
「え?…あ…え?…え?…えっと…だって、マボちゃんが…」
「へぇ、マボさんが言ったの?…それ、マボさんが後から言っているだけでしょ?…特定のプレイヤーに優しいシステム側の担当者だなんて、逆に変だって思うのが正常じゃないかしら?…身長のことだって…その場で気づかなかったことに…後から気が付いたりできるものなのかしら?…ねぇ?…本当に?」
たたみかける慈雨の饒舌に、マボが舌打ちをしながら呟く。
「ちっ…。そう来たか…。今度は、私にまで…疑いの目を向けようとするとは…」
「怪しい者は、いつだって…そんな風に言い訳をするのよ…」
「仮に…この男がジウでないとして…では、コイツの目的は何だ?…慈雨君。君から偽物であると指摘されて、それでもなお…ここに留まり続けている理由は?」
「さっき、一度、去ろうとしてたじゃないの。マボさんたちが、黙って逃げ去るのを見過ごそうとしているから…私が…」
「…だ、そうだが…おい、そこの自称ジウ。幸運にも【六縛呪】の呪縛から解放された君は、どうして…ここから逃げないんだ?」
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呪縛から解かれた後、興味深そうに女性陣3人のやりとりを眺めていたジウは、話を振られ、無表情で…しかし、きっぱりと答えた。
「アスタロトさんの思念が…そこの慈雨さんによって、不当に取捨選別されては困りますので…逆に、立ち去るワケにはいかなったんですよ」
今度は自称ジウが、挑むような…無表情で、慈雨を静かに見つめ返す。
「何を言っているの?…2人揃って…まるで私が悪者みたいな…そうか…あなたたち…ひょっとしたら共謀者ね?」
「ぅわぉ!…言うにことかいて共謀者とは…君、いい加減に…!」
「いいえ。止めないわ!…そもそも不自然なのよ。2人のうち、どちらが本物のシュラくんかどうかを見極める…なんていう大事なコトを、どうして私を呼ぶこともなくルーちゃんとマボさんの…2人だけでやろうとしたのかしら?」
「…そ、それは…君が…」
「瀕死の重傷だったシュラくんの危機を救い、GOTOSとしてのサポートをしっかりと行っている私を…除け者にした上で、GOTOSでもないマボさんが…私のシュラくんの何を決定してくれようとしているのかしら?」
「な…っ…………」
最も突かれたくない部分に、鋭い言葉を突きつけられて絶句するマボ。
今度は、マボが、その美しい唇を噛む番だった。
もはや、偽者とか本物とかという問題を超えてしまった慈雨とマボの攻防。
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再び訪れようとした沈黙を、イシュタ・ルーの陽気な笑い声が吹き飛ばす。
「あはははは。何なに?何ぃ?…ってことは、もしかして『偽者』ってことぉ?」
いや。そこ、笑うトコじゃないでしょ?…と、アスタロトたちは思ったが、下手に口を挟めば、変なとばっちりが自分の方へ飛んでくるだけなので黙っているしかない。
「な…!?…ルー君。君まで、わ、私を『偽者』扱いする気かい!?」
「え~?…だって、慈雨ちゃんの指摘に、反論できないんでしょぅ?」
「ば、馬鹿だな、き、君は。…さっきの慈雨君の指摘を理由に私を『偽者』と判断するなら、ルー君だって『偽者』と言われる可能性があるんだぞ!?」
「あ~っ、酷ぉ~い。私は馬鹿じゃないですからね!…身長のコトとか知らないんだもんね!…私を巻き添えにしないでよ!…やぁ~い偽者にっせものっ!」
「な、何を!…き、君だって、2人のアスタロトのどっちが本物かを判定する時に、慈雨君を呼びに行こうとは全くしなかっただろう!?…というか、むしろ私が『慈雨君は何処だ?』と君に訊いたら…『慈雨ちゃんは来ないって言ってた』と即答したのは君だったじゃないか!…君こそ、慈雨君がココに来たら困ることがあったんじゃないのか?」
「あぅあぅあぅあぅ!!…そ、そんなこと、そんなことナイモン!!」
ついにマボとイシュタ・ルーまで仲間割れだ。お互いを偽者呼ばわりまでし出した。
イシュタ・ルーは手をジタバタ振り回している。かなり混乱している。
マボは、左手の親指の爪を噛む癖が出てしまう。精神的に追い詰められた証だ。
そんな2人を、慈雨は冷たい視線で静かに見ている。
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その慈雨の背後に、いつの間にかジウが忍び寄っていた。
そして、慈雨の耳元で囁く。
「…面白い茶番を見せてくれて…ありがとう。でも…そのぐらいにしておかないと、アナタの『シュラくん』が混乱してしまうんじゃないかな?」
「うっ…!…じ、ジウ…い、いつの間に!?…あっ!!!」
慈雨の首筋に、ジウが軽く手刀を打ち込む。
一瞬の硬直後、力を失い崩れ落ちそうになる慈雨。
「な、何をする!?」
アスタロト…が、慈雨に駆け寄り、何とか崩れ落ちる前に抱き留める。
2人のアスタロトの両方が同時に駆け寄ろうとしたのだが、実際に慈雨を抱き留めたのは新アスタロトの方だった。
ジウの体の中にいるアスタロトは、既に体の支配権を失っている。それでも、慈雨の体が床に打ち付けられないように必死で動こうとはしたのだ。その意を汲んでくれたのか、僅かに駆け寄る姿勢は取れたものの、やはりオリジナルの体を持つ新アスタロトの動きにはかなわなかった。
2人のアスタロトは、突然に乱暴な所行に及んだ自称ジウを睨みつける。
その責めるような2人の視線を受けた自称ジウは、その目を伏せて…忽然と消える。
「アスタロトさん。アナタのためにやったんです」…と、そう言い残して。
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逃げるように転移した自称ジウ。
自称ジウの手刀を受けて意識を失った慈雨だったが、幸いすぐに目を覚ました。
「…だ、大丈夫?…どこも痛くない?」
慈雨を抱き止めたまま、新アスタロトが優しく顔を覗き込んで訊く。
その視線を潤んだ瞳で受け止めて、慈雨は小さく頷く。
マボやイシュタ・ルーと言い争っていたコトが嘘のように、新アスタロトに抱き留められている慈雨は少女のように恥じらい、頬を薄赤く染めている。
「シュラくんのおかげで…大丈夫よ。それよりも…」
突然の展開に呆気にとられているマボとイシュタ・ルーに、慈雨は素早く視線を走らせる。そして、胸元から得意の芒星魔法用のアイテムを取り出す。
「シュラくん。逃げましょう!…私には分かるの。アナタは間違いなく本物よ。ジウやマボさんの暗示にかかって、仮初めの魂であるかのように思い込まされてしまったかもしれないけれど…アナタが消える理由なんてないのよ。私が、魔法で逃がしてあげる。さぁ、一緒に…」
「え?………あぁ………うん!」
慈雨の突然の言葉に、一瞬戸惑いながらも新アスタロトは同意する。消えたくない。
・・・
自称ジウが消え、それに続いて慈雨と新アスタロトが消えるまでは、アッと言う間の出来事だった。
優しく新アスタロトに抱きしめられ、顔を赤らめる慈雨を見て、いつものようにイシュタ・ルーが文句を言おうとしたのだが…
「あ~っ!慈雨ちゃん!…またしてもロトくんに抱きしめられちゃったりして…ず、ズルイぞぉ~!こらぁっ!…離れ………………え?」
抗議の言葉の途中で、慈雨と新アスタロトの周りに薄青い光の幕が揺らめき…そして消える。
光が消えた後には、もう2人の姿は無かった。
「…どういうコトだ?…何故、慈雨君が…あっちのアスタロトを?」
「しし、し、しかも…突然のビックリ急展開ちゃんだよ!?」
戸惑う2人。もう、つまらないことで言い争っている場合ではない。
2人は綺麗にシンクロした動きで、ユックリと「ジウの見た目をしたアスタロト」の方へと体を向ける。
しかし、アスタロトにだって何が何だか分からない。
いや。むしろ、この状況に一番混乱しているのは、やはりアスタロトだろう。
何せ、自分の体が、何処かへ連れ去られてしまったのだから。
・・・
『ど…ど…どうなっちゃってるの?コレ?…俺…どうすれば…いいの?』
マボやイシュタ・ルーに対して、何をどう答えて良いのか、アスタロトには全く思い付くことができない。
助け船を求めてジウに思念で呼びかけるのだが…
『ジウ…さん?』
そう言えば、これだけの異常な展開だというのに、さっきからジウは沈黙を守っている。
アスタロト自身も、予想外の展開に思考がついて行けず、しばらく何も考えることが出来ない精神状態だったから、あまり不思議に思わなかったのだが…
<<…あぁ。申し訳…ありません。あまりにも予想外な展開の連続で、正直、言葉を失っていました>>
『ちょっ…し、しっかりしてよ。ジウさんは、システム側の担当なんだから、冷静に今の状況を見極めてくれないと困るよ』
<<………そうですね。申し訳ありません………>>
『あ…いや。ゴメン。責めているわけじゃないんだけど………』
<<いえ。アスタロトさんの仰るとおりです。アナタを自分の体へと戻して差し上げるチャンスを…みすみす逃してしまうとは…。しかし…>>
慈雨があのような行動に走ろうとは…。と、いう言葉を呑み込んだジウは、しばらく考え込むようにまた沈黙する。
・・・
アスタロトは、何だか申し訳なくなってしまった。
考えてみれば、自分ではどうすることもできず、ジウに頼ってばかりだ。情けない。
アスタロトの思考まで、なんだか内向きに傾きかけてしまった頃、やっとジウは思念での会話を再開した。
<<アナタは…『解離性同一障害』という言葉を聞いたことがありますか?>>
『…かいりせい?…どういつ…しょうがい?』
<<あぁ…。その反応は…初耳のようですね。となると…『解離性障害』の最も重度の症状で…などという説明をしても…無理ですよねぇ…>>
『せ、<性同一性障害>っていうのなら聞いたことあるよ!』
<<………これは…また、えらく古い概念の言葉をご存知なんですね>>
『えっと。この間、21世紀の社会学を学ぶカリキュラムを受けて、面白そうだったからシティ・ライブラリーを検索して色々調べたんだよ。昔は色々大変だったんだね』
<<そうですね。現在では、インナー・セックスとアウター・セックスが異なるのは当然であり、しかもインナー・セックスは決して男女の区別のような二値的なものではないと子どもでも知っています。何よりも、シムタブ型MMORPGなどにログインしてしまえば、自分の好きなようにアウター・セックスを設定きますので…我々は幸せです>>
『え?』
<<え?…いえ。あ…勘違いしないでください。『我々』と言ったのは、『我々23世紀の人類』は、という意味ですからね。もし、本当に望むなら、シムタブではなく、遺伝子レベルでのナノタブ治療も行えますからね…もう、その言葉は死語です>>
『じゃぁ…今、ジウさんが言った『かいり…なんたら…障害』?…っていうのも死語なの?』
・・・
<<いえ。性同一性障害も解離性障害も…『障害』…という語尾を持っている時点で、もう現代の用語とは言えません。しかし、性同一性…の方は『肉体』にナノタブを適用可能で複数の対処方法があるため死語となりましたが、解離性障害は…>>
『対処方法がないの!?』
<<ない…ということも無いのでしょうが…むしろ『対処すべきでない』とされています。それは、人が生きるために持つ『特殊能力』の一つであると…。一部の学者は、これをマルチ・アイデンティティと呼ぶ超能力の一種として定義しています>>
『へぇ。超能力。何か格好いいね。で?…どんな超能力なの?』
<<性同一障害が『心と体』の問題だった…とするならば、解離性障害…今風にマルチ・アイデンティティは『複数の心』の問題なのです>>
2206年現在。ほぼ全ての病気治療を可能とするナノタブ技術でも、『心』に関する問題については完全には対応できていなかった。
単純に脳内分泌物の多い少ないという解明された原因を持つ症状は、遺伝子レベルでの体質改善を行うなどの方法により対応は可能である。だから、完全にではないが、かつて大量の自殺者や自傷者を産んでしまった悲しい精神疾患の多くが、今では過去の歴史として語られるに過ぎなくなってきている。
しかし、完全に『心』の中の複雑な力が症状を生み出すような症例については、それはもはや『魂』とか『精神世界』の完全解明が必要な域であって、少なくとも23世紀初頭を生きるアスタロトたちにとっても、20世紀や21世紀の人間たちと同じ程度にしか対応することができない問題であった。
<<信じられないとは思いますが、シムタブは…元々その解明の為に生まれました>>
・・・
『<心>の…解明…のため?』
<<そうです。人類は完全な不死は無理でも、そろそろ不老…即ち老化による死からは解放される。ナノタブによる治療技術が完成度を高めるにつれ、我々はそう期待しました。しかし、実際には未だに不老すらも実現できていません。何故だと思います?>>
何の為に始めたのか分からないが、ジウの話は難解だし…長くなりそうだ。
アスタロトは悲鳴を上げた。
『ちょ、ちょっと待って。ジウさん。これって何の話?…今、しなきゃいけない話なんだけ?』
<<………失礼しました。かなり脱線してしまいましたね。一応、マボさんやイシュタ・ルーさんには気づかれないように、仮想対実時間レートは最高レベルに引き上げてありますので…時間はあまり気にしなくても大丈夫ですが>>
『ゴメン。時間云々以前に、俺の理解能力が迷子になっちゃってるよ!』
<<話を戻しましょう。えっと…そうだな、解離性…が聞き覚えがないなら…あ、そうだ、アスタロトさんなら『二重人格』や『多重人格』という言葉をご存知では?>>
『おぉ。それなら分かる。「ドクトルとミスターの不思議なケース」っていうシム・ビデオを見たことあるよ!薬を飲むと全くの別人になっちゃうって奴でしょ?』
<<どちらかというと『ジキル&ハイド』という名称の方が有名なんですが…まぁ…それです。あの話では、怪しげな薬を飲むことがトリガーとなっていますが、現実の世界でも一人の人間に複数の人格が宿るという症例が、実際に幾つも確認されています>>
『へぇ。あんな奇妙なことが、実際にもあるんだ…』
<<何を呑気な。アナタだって、今、実際に体験してるじゃないですか>>
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アスタロトは決して理解力の無いほうではない。
普通であれば、ジウの回りくどいこの話が、現在アスタロトに起きている表層意識の2重化について語っているのだと直ぐに気づくだろう。
しかし、人は案外、自分のコトとなると鈍感になるものなのである。
『はい?…俺が…ドクトル?え?…それともミスター?』
<<どっちでも良いですよ。好きな方でいいから、ピンと来て下さいよ。私が言いたいのは、さっきまで『偽者』か『本物』という観点で言い争いがありましたが、少なくともアスタロトさんの場合は、マボさんが判定したとおり両方ともが本物。つまり二重か…ひょっとしたら多重人格というべき状態だと思われます>>
『えっと。ちょっと待って。多重人格って…理解出来ないコトはないけど…それでも、アレって、一つの体に複数の人格が入れ替わりで現れるってやつだよね?…俺とアッチの俺は…同時に現れちゃってますけど………?』
<<それなんですよ。なかなかこの説に辿り着けなかったのは。どうしてもシムタブ型MMORPGの仕様上の穴…即ちバグや裏技的な状態なのかと…システム的な思考で原因を考えてしまったのですが…。しかし、解離性同一障害について詳しく調べてみると…どうやら複数の人格は、全く同時に存在できないワケではないようなんです>>
『え~。そんなコトになったら、相当にややこしいでしょ?』
<<だから、アナタは今、相当にややこしいじゃないですか。でも、良く考えて下さい。我々は、解離性障害とまでいかなくても、複数の人格が同時に現れたような状態を頻繁に体験しているんです。例えば…ダイエット中に『食べたい』という気持ちを強く持ちながら、それと同時に『でも、太るから食べたくない』という相反した気持ちを同じぐらい強く持っている状態>>
・・・
『え~?…そんなの良くあるコトじゃん。それが…今、俺に起きているってこと?』
<<その時に、アナタの心の中…イメージ的には耳元に『悪魔の囁き』と『天使の激励』が聞こえてくることはありませんか?…『1日ぐらい思いっきり食べても太らないよ』という誘惑の声と、『その1日が命取りだ。絶対に食べちゃ駄目だ』という叱咤が、交互に脳内で聞こえることがありませんか?>>
『…あるけど…交互じゃん?』
<<では、それを聞いているアナタは?…その時、無の境地ですか?…悪魔の声にも、天使の声の時にも『どうしようかなぁ~』と苦悩する自分が同時に存在していませんか?>>
『………そうだけど…悪魔や天使は、自分じゃないじゃん』
<<まぁ…その程度では多重人格ではありませんからね。あくまでもイメージしやすいような例としての話です。しかし、解離性同一障害の症状の一つには『幻聴が聞こえる』というものがあり…それは単なる幻聴ではなく、心の奥に隠れているもう一人の自分の声であると考えられています>>
『もう一人の自分の声…』
<<解離性同一障害でなくとも、解離性障害の症例には、自分の行動を自分のものでは無いように感じてしまう…というものがあります。自分の意志とは関係無く行動する自分を、まるで外部から客観視しているような感覚になってしまう。現実の体から自分の精神が解離したような状態。だから解離性障害と言います>>
『良く…分からないよ…』
<<強く叱られているときに、現実の自分は相手に必死に謝っている。相手からの追求にきちんと思考して言い訳や謝罪をしている。…しかし、そんな必死な自分を、どこからか気の毒だな…と他人事のように外部から見ている自分がいる…強いストレスから心を守るための超能力の一つとして認められています>>
・・・
『強いストレスから…心を守る…』
そこでジウは、またしばらく沈黙する。
その先を言おうか、言うまいか…迷っているような間をおいて、それでも話す必要があると判断したのだろう。先を続けた。
<<私たちシステム側の担当者は、最重要秘匿事項ですが…プレイヤーの皆さんと違い、自由にログアウトが可能です>>
『うん。さっき、フーさんに殺されかけた時、そう言ってたよね』
<<はい。だから誰にも言わないで下さいね>>
『わかった…約束するよ。それに、体を共有して確信したけど…ジウさん…時々、この体を離れたみたいになる時があるよね?』
<<やはり…気づいてしまいましたか。そのとおりです。システム管理用の上位サーバーへアクセスするために、詳しくは言えませんが、この体とは別のインターフェースを利用することが可能なんです。私が不在であると…感じるのは、きっと、私がその別のインターフェースにアクセスしている最中でしょうね>>
『なるほど。システム側の担当者って、大変なんだね。そんなに色々なインターフェースを利用しないといけないぐらい仕事があるんだ?』
<<ズルイ………とは言わないんですね。ありがとうございます。アスタロトさんのような理解のある方ばかりなら、私たちも助かるのですが…>>
『で?…どうして、解離性同一障害の話の後に、ジウさんがログアウト可能…なんていう秘密の話を持ち出してきたの?』
<<私のログアウトで、アナタが元の体に戻れるかもしれない…と思ったからです>>
・・・
確かに、それは解決方法の一つだろう。
どのような仕組みでアスタロトがジウの体に共存しているのかは未だ不明だが、共存するための“場所”であるジウの体が消滅すれば…少なくとも、この共存状態が継続できなくなることは間違いない。
しかし…
『えっと…。ゴメン。その場合、今、ジウの体の中にいる…この“俺”の方の思念は…どうなるんだろう?…慈雨さんと…何処かに転移しちゃった…アイツ…アッチの“俺”の体…って、もともと俺の体だけど…そこに戻れる…のかな?』
<<………>>
『えぇええ?…無言!?…そこで無言?…そこは、元気良く肯定してよ!』
<<アナタの症状は複雑なんです。アナタが一つの体の中で、複数の思念を操ることは…解離性同一障害…語弊があるので、以降は今風にマルチ・アイデンティティと呼びましょう…それで説明ができます。深層意識の3重起動というアナタの得意技も、その応用でしょう。だから表層意識だって複数起動できても納得できます>>
『う、うん。まぁ…それで説明できちゃう気がするね』
<<しかし、その内の表層意識の一つが…どうして私の体の中に存在できているのでしょうか?…この部分については、マルチ・アイデンティティの理屈だけでは説明が付きません…いや。出来ないこともありませんが…その場合、アナタはアスタロトさんでは無く、私の副人格である…というコトになってしまいます>>
『あぅ…。そ、そうか。ジウさんの体に宿る別の人格なんだから…ジウさんのマルチ・アイデンティティ…ってことになっちゃうのか…』
<<でも…そうでは無い。…そうでは、無い?…ですよね?>>
・・・
もし、“アスタロト”の思念だと思っていた、ジウの中に共存しているこの思念が、ジウのマルチ・アイデンティティの一つ…だとしたら?
もう、悪い冗談だとしか言いようがない。
極端に言えば、ジウの一人芝居?…だということになってしまう。
そうだとしたら、ジウが本物のアスタロトや慈雨、イシュタ・ルー、そしてマボに土下座しておしまい。
以後は、心の中に生み出したジウだけのアスタロトと、末永く幸せに暮らしましたとさ…で、八方丸く収まる。めでたし、めでたし…だ。
『いや。え?…そうなの?…って、んなわけ無いじゃん!』
<<そうですよね。その場合、アスタロトさんの体が、私のマルチ・アイデンティティに共鳴して、一時期、昏睡状態に陥った…的な…それこそ超常現象を持ちださなければならなくなります。アスタロトさんが無表情になった理由も、全く説明がつきません>>
そこで、ジウは再び何か覚悟を決めるかのように間をとり、そして続ける。
<<アスタロトさん。先ほどの私の偽者?…が告げたTOP19協議会の開催日ですが、確認してみたところ…我が社の上部で決定された事実と合致しました。彼が果たして何ものであったかは依然として謎ですが…あの内容は本物です。となると、3日後には協議会に出席していただかないといけません>>
『うえぇ!?…あれ、本当なの?…出席って。俺?…だけど…どうやって?』
<<そう、そこが問題です。アナタのために時間をかけてユックリ考えて差し上げたいのですが…残された時間は少ない>>
・・・
『それで、ジウさんがログアウトしてみる…って考えたんだね?』
<<後3日あります。ですが、色々と調べてみても良いですが…良い方法が探しだせなければ、最後は、一か八か…私がログアウトして、強制的にアナタの思念をこの体に居られない状態にする…という選択肢を採らなければならないかもしれません。>>
『決断が必要なんだね…』
<<はい。私のログアウト後にアナタの思念に予想される結末は、次の5つです。
1つ目は、次の瞬間…アナタは元の体の中にいる自分に気づく。
2として、次に私がログインし直した時、再び私の体の中にいる自分に気づく。
3番目は…お気の毒ですが…私のログアウトを最後に…アナタという思念は消滅…>>
『うぅ…想像できない…のが…余計に恐いね…』
<<はい。私はリアルの体で以前、大事故にあい、緊急手術を受けた経験があるのですが、もしあの全身麻酔による手術の最中に命を失っていたら…と思うと、この3番目の可能性と同様に、とても空恐ろしいものを感じます>>
『…でも、まだ他にも…嫌な可能性があるんでしょ?…その順番からすると…』
<<はい。可能性は無限にありますが、私が今、思い付く限り…ですが。4つ目として、私のログアウトが、アスタロトさんにも適用されてしまうことが考えられます。その場合、アナタという思念だけでなく、慈雨さんと失踪中のアチラのアスタロトさんも…この『デスシム世界』から消えてしまいます。そして、その場合…2度と…>>
『…ログイン…できない』
<<そうです。デスシム用のシムタブに物理的に付与された機能ですから…救済措置の適用も…しようがありません。でも、それ以上に恐ろしいのは…このようなケースは、システム上で想定されていない状態ですから…5つ目の…最悪のケースとして、そのログアウト後に、アナタの思念が現実の世界へと復帰できない可能性も…>>
・・・
恐ろしいことを言い出すジウ。
いや。しかし…有り得ないコトでは無いのかもしれない。
今でこそ、シムタブの安全性はかなり向上しているものの、過去には現実の体に対して様々な悪影響を及ぼしてしまった事故が何度も発生しているのだ。
その最悪なケースが、ショックアブソーバー導入前のシムタブ型戦闘機対戦ゲームであり、アスタも被害者の一人となったあのリアル・デスゲーム『ほのぼの系MMORPG』のログアウト不能なバグである。ゲーム内の【死】が、現実の【死】とイコールになってしまった悲惨な事故だが、その事故が実際に発生するまでは、誰もそのような危険が潜んでいるなどとは予見できなかったのだ。
大げさなのかもしれないが、今、ジウが行おうとしているログアウトは、アスタロトにとって、その過去の事故を生々しく思い起こさせる。
<<どうしますか?…一か八か。私のログアウトに賭けてみますか?…それとも>>
そして、ジウが重々しくアスタロトに選択を促しているのも、その選択の重大さを理解しているからこそだ。
<<私がログアウトするのは簡単です。いつでも、出来ます…ですから後3日間。ユックリ考えてくださって結構です。…ですが、もし幸運にもアナタが元の体に戻れた際のことですが…アナタは思念の共存状態を経験済みで混乱せずに済むでしょうが…向こうのアスタロトさんは…酷く混乱するかもしれません…>>
その場合にどうするかも考えておくように…そう付け加え、ジウはまた沈黙した。
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次回、「どうしようもない…この想い(仮題)」へ続く…