血痕
不意に湧き起った怒りに目の前が揺らいだ。どうにも収まらない。ゴン!我を忘れ(本当はそんなことは無かったが)壁を殴った。キッチンに音が響く。拳に鋭い痛みが走る。
壁に穴が開いたかもしれない。拳は血まみれになっているかもしれない。実際には、キッチンの白壁はへこみ一つないし、拳は少し赤くなっていただけだ。ハハハ。馬鹿馬鹿しくて笑った。
歯が疼いたので歯間ブラシを使った。口の中に鉄の味が広がる。出血している、歯周病で。このところチョコレートを食べすぎた。
繁忙期は休憩どころか昼食もロクに摂れない。チョコレートを口に放り込みながら仕事をする。チョコレートは貴重な食糧なのだ。が、一定量を超えると歯ぐきから出血してしまう。
何度目かのうがいで血は止まった。口内がサッパリして視界がパアッと明るくなる。口内の血の淀みと、心の淀みは同義なのだ。
人差し指と中指が痒い。あかぎれが出来ていた。親指と爪の境は深く裂け、血が滲んでいる。絆創膏を貼る。
たった一枚の絆創膏で触れる物の印象がずいぶん違ってくる。親指だけアンドロイドになったみたいだ。キーボードに心が伝わらないかのよう。私は普段心を込めてタイプしていたのか?パソコン相手に?
「ヨロシクオネガイシマス」メールにもイマイチ心が乗らない。帰宅して、手を洗って、絆創膏を剥がす。ようやくヒトに戻った気がした。
事務室で一人作業していると、スマートフォンに着信があった。「どうも、A(同級生)だけど」。十年ぶりで声を聞いたがすぐ彼だと分かった。
「番号が変わったからかけたんだ、今何してる?」、「仕事中だけど」、「そうか、今日はここまでにするか」。そういってA(同級生)は電話を切った。「今日はここまで」とはどういう意味だ?十年も音信不通だったヤツがわざわざ、一人取り残され残業している私に電話してくるのか?どいつもこいつもバカにしていやがる。クソッ!思わず叫んだ。その拍子に、乾燥していた唇が裂ける。何てことだ。思わず舌で湿らすと、やはり血の味がした。
一か月前。くるぶしを事務机の角に強打した。かなり痛い、そう思って靴下を脱ぐと、生傷が出来ていた。
現在。生傷は赤いシミのような跡になり、未だ消えない。傷の治りが遅くなる、とはこういうことだ。まったく歳は取りたくない。
私の鼻柱はよく見ると少し凹んでいる。生徒時分、駅の構内で殴られたのだ。同調圧力をかけられたが私は屈しなかった。殴ったヤツ以下、数名が穴の開くほど私を見つめたが、独り電車に乗り込んだ。シャツにポタポタと血が垂れる。鼻血が出ていたのだ。私は拭くこともせず、乗客から少し離れた所で床に座り込んだ。殴られた時から目の前がグラグラ揺らいでいたが、何だか無敵になった気がした。人目など気にならない。私は血まみれで無敵の、不死身の男だ!
‐‐‐壁を殴った拳の赤みはすぐ消えるだろう。私の鼻柱を凹ませたのは「A(同級生)」である。不意に怒りが沸き起こったのは「A(同級生)」のせいではない。むしろ電話をもらって嬉しかったくらいだ。今となっては。
今も生徒時分も変わらない、我が身の境遇に怒りを覚えたのだ。大人になって同調圧力はますます強まり、残業を押し付けられる一方である。それでも明日も仕事に行くだろう。寝る前に親指に絆創膏を貼った。寝ている間に、少しは傷口も塞がるはずである。




