第88話 割れる瞬間と、始まりの音
~静けさの中に、ちょっとした鼓動~
七海は、宿屋の縁側でマグを傾けながら、大きな卵を見つめていた。
昨日と同じ場所、昨日と同じ空気。
でも、何かが違う気がした。
「……風の向きが、少し変わった。空の色も、昨日より深い」
卵は、静かに佇んでいる。
でも、表面の模様が、ほんの少しだけ脈打つように光っていた。
七海は、道具箱をポン。
“鼓動記録石”を取り出して、卵のそばに置く。
石は、目に見えない“始まりの気配”を記録するアイテム。
その表面に、ゆっくりと波紋のような模様が広がっていく。
「……始まりの音くらいなら、聞き逃さずにいられるかも」
風が止まり、空気が静まり返る。
そして――
パリ……ッ
小さな音が、卵の表面から響いた。
七海は、マグをそっと置いて、立ち上がる。
卵の表面に、ひとすじの亀裂。
そこから、淡い光が漏れ出していた。
「……割れた、じゃなくて、開いたって感じ」
亀裂は広がり、殻がゆっくりと開いていく。
中から現れたのは、まだ形の定まらない光の塊。
それは、誰かの願いのようでもあり、記憶のようでもあった。
七海は、道具箱から“光のしおり”を取り出して、そっと光に触れる。
「……これ、誰かが残した“まだ始まってないもの”だったんだ」
風が再び吹き、空が少しだけ明るくなる。
夕方。卵の殻は静かに崩れ、光は空へと溶けていった。
七海は、縁側に戻り、マグを傾けてぽつり。
「……始まりって、静かに来るんだな。誰にも気づかれないくらい、そっと」
空には、卵の模様を映したような雲が、ゆっくり流れていた。




