第9話
もうすっかり日は落ちていた。石垣で囲まれた暗闇を街灯がポツリポツリと、照らすような。
アパートを出て、いくらか走っても同じような景色の繰り返し。
それもそう。ここは駅まで淡々と石垣が続く見どころのない、呆れるほど見覚えのある帰り道でもあるからだ。
この角を左に曲がれば、一番近くの大きな駅方面だが……。
「あ!」
目で捉えたのは、鋭い暗闇に似つかわない柔和な白いセーターの後ろ姿。時々街灯に照らされて姿がよりはっきり見える。間違いない、あれは確実に先輩だ。
彼女はバッグを揺らしながら、どんどんと駅方面へと歩みを進めていく。俺は一歩踏み出そうとして、首から汗が垂れる。冷たい感覚。
いや、大丈夫。渡してすぐに帰ればいいんだ。もう、無駄に話さなきゃいいんだ。
イヤホンを握りしめる感覚を感じてから、先輩!と声を出して、すぐにまた足を進める。
だが、走り出した瞬間。目線の少し先の、右へと続く石の道から、何やら影が飛び出したのが見えた。
いや、影じゃない。黒い服を身に纏った人間。そいつは待っていたとばかりに先輩に勢いよく走っていき、後ろから先輩に襲いかかった。
「キャー!」
あまりにも一瞬だった。先輩の悲鳴が聞こえて、ようやく事態を把握する。
「マジかよ……!」
独り言を呟きながら、足を回すスピードを速める。二人に近づくことで、暗闇が晴れてくる。覆い被さった影は、先輩の口にハンカチを押し付けている。
先輩はもう叫んでおらず、首を項垂れていた。
「おい!何やってんだお前!」
俺が声をかけると、その影は驚いた様子でこちらに視線を向ける。
その顔は中年男性といった感じで、目は血走っていた。そしてその男は、ポケットから出したナイフを先輩の首に突きつけた。
「近づくな!近づいたら、この女を殺すぞ!」
覇気が迫った野太い声。だが余裕があるわけではなく、まるでそれは動物の威嚇のようで。突然飛び出してきた凶器に、俺は片足を後退りさせる。
「わ、わかった……!離れるから」
男は荒い吐息を上げながら、人を潰せるほどの眼力で俺を睨み続ける。
ゆっくりと足を一歩ずつ後ろに滑らせていく。下手なことをすれば、容赦なくナイフは動かされるだろう。今、間接的に先輩の命は俺が握っているのだ。
最初にいた位置から、十メートルほど下がった頃。狂気に塗れていた彼の表情がやっと変わったと思ったら、歪んだ微笑を見せた。
「そうだ……。そのまま、動くんじゃねぇぞ。一歩でも動いたら、俺はやるぞ」
両手を天にあげ、俺は動くフリすら見せないようにする。警察を呼ぶことすら出来ない。ナイフはより首に近づけられ、一瞬の判断ミスが命取りとなる状態だ。
だが、このまま見てるわけにはいけない。そうだ。先輩は今日、家族の誕生日会があると言っていた。
俺には無事に帰さなければいけない責任があるんだ。でもどうする?相手は凶器を持っているんだぞ?近づいて引き剥がすなんてまず間に合わない。
俺はそこでふと背中側のポケットだけにかかる、歪な重力の正体を頭に浮かべていく。銃。これを使えれば!
ああ、だめだ。大家さんが言っていた。銃弾は銃を持っている者にしか効力はない。
くそっ!じゃあ、それ以外に銃を有効活用出来る方法は……。頭をぐるぐると回す。が、結論が出ない。全身に滴った汗が、俺の焦燥をかき立てる。
男は依然として先輩にナイフを突き立てた状態で、俺から距離を取っていく。まずい、これじゃ……。
不安を募らせていると。コツ、コツ。足音と共に反対側から人が歩いてくる、いや走ってきている気配。
見ると、そこに現れたのは片手に持ったレジ袋を揺らし、息を切らしている晴人だった。
「お前……!何してる!?早苗さんを返せ!」
レジ袋を投げ捨て、晴人は怒声と共にジャケットから銃身を引き抜き、すぐさま銃口を男に向ける。
「ひ、ひぃ!なんだお前!動いたらこいつを殺すぞ!」
「てめぇ……!」
晴人は銃口に指をかける。持ち手を持つ両手は、力を込めているからか銃身と共に小刻みに震えていた。
「いいのかお前!?引き金から手を離せ!じゃないと……」
遂に男がナイフを首に滑らす。小さな傷から血が静かに垂れ、セーターを紅く染め出す。
「やめろ!」
晴人の悲痛な叫び。それでも彼は銃口を向け続ける。
非常にまずい状況だ。晴人は効くはずもない銃を振りかざす程、冷静さを失っている。男は口だけじゃなく本当に先輩を殺すつもりだということも分かった。
先輩から流れる血。ここはとりあえず犯人の要求を飲まなければ。
「晴人!一旦銃を置け!先輩を助けるためだ!」
「うるせえ!お前は黙って見てろ!こいつは俺が……!」
晴人は歯を食いしばり、持ち手により力を入れたように見えた。だめだ。このままじゃ。
「へへ、そこの兄ちゃんの言うとおりだぜ……。銃を地面に置け!じゃないと、もっと深くまで入れんぞ!」
男がナイフをわざとらしく動かす。晴人は声にならない叫びを上げながら、その様子を睨みつける。
もう、あいつだって分かってるはずだ。要求を飲むしかない。でも、もし銃を奪われたら今度こそ手立てが。
ん?……奪われる?
……そうか!これだ!
「晴人!大人しく銃を置け!」
「でも!」
勢いよく息を吸い込む。抵抗する晴人の耳をつんざくほどの大声を出す。
「俺を……俺を信じろ!」
風が吹いた気がした。晴人の髪が揺れる。俺の声に目を見張り、あいつはくっ、と口から漏らしながら銃口をゆっくりと地面へ向けていく。
「よし……。いいぞ……。そのまま銃を地面に置いて、両手を上げろ。置いたら、ゆっくり銃から離れるんだ」
男を睨みつけたまま、晴人は静かに銃を道に置く。息を荒げ、錆びついた機械を動かすように両手を上げると。そのまま、俺と反対側の道に後退りする。
男は手についた血を払いながら、再び恍惚の表情を見せる。
「もっとだ。もっと下がれ」
渋々男の要求を受け、晴人は俺と男の距離と同じほどの位置まで下がった。男は先輩の足を引き摺りながら落ちている銃の元へ歩いていく。
ここまで離れてしまうと、晴人が今走り出しても距離的に銃を取り返すことは出来ない。
チャンスは、一回だ。もう少し。あと二歩、男が銃に近づいたら……。
男が勝ち誇った顔で銃を拾おうとしゃがむ瞬間。俺は、ポケットから銃を引き出し、力強く地面を蹴った。
「うおおおおお!!!残念だったな!!!銃はもう一個あったんだよ!!!」
男に向かって駆ける。大声を上げながら、腕を回し、勢いよく銃口をその黒い影に向ける。まるで銃の存在を知らしめるかのように。
「小太郎!!!」
「うわあああ!!!こっちに近づくなぁ!!!こうなりゃ……!」
晴人の声。恐怖と焦りで歪んだ男の顔。彼は地面を抉るように落ちた銃を拾い上げ、すぐさま俺に向けて銃口を向けた。その勢いと共に引き金は引かれ、俺の体に銃弾が襲いかかってくる。奇しくもそれは、頭へと向かってきており。
だが、俺は足を止められない。あともう少し近くに。あと。
回転する銃弾。頭の中のイメージが、今まさに俺へ近づいてきて。
「今だ!晴人!」
その瞬間。俺は走った勢いそのままに、銃を思いっきり投げた。反対側の、あいつに向けて。
銃弾が、目の前で一瞬を俺を睨みつける。だが、俺を許したような素振りをして、そいつは俺の頭をすり抜けていった。そうだ。今の持ち主は、あいつだ。
青く光る銃身は放物線を描き、ジャケット野郎の懐に飛び込む。そして、男が振り返る前に、晴人は構え、もう引き金を引いていた。
バンという大きな銃声音。それはまるで月夜にこだまする遠吠えだった。
男は持っていたナイフを落とし、そのまま床に這いつくばるように倒れた。俺はその駆け出した足で飛び込んでいき、男の手から離れた先輩をなんとか体で受け止めることに成功した。
晴人が近寄ってくる。
「お前……腕……」
言われてからズキズキと痛む。落ちてきたナイフから咄嗟に先輩を守った時に、右腕を刃が掠めていたようだった。
でも、今はそんな痛みどうってことなかった。俺は何も考えないまま、晴人に視線を移す。
「交番、行こう。晴人も手伝って」
晴人は目の力を緩ませてから、返事をした。
「ああ」