第8話
部屋の中心で小さくなるように、俺は先輩に向かい合って座る。先輩は俯いているからか、中々表情が見えない。
空気が張り詰めたような感覚はまだどこか残っており、俺はまだ先輩の方をよく見れずにいた。指を鳴らしたり、頭を掻いたり、なるべく意識を外に移そうと。
でも、よく考えればチャンスだ。今晴人という邪魔者はいなくなった。俺は、あの憧れの早苗先輩と自分の部屋で二人きりとなっているのだ。
これはすごいことじゃないか!売れっ子の先輩とゆっくり会話出来る機会なんて早々ない。
ここで好印象を持たれれば、いずれは二人でどこか遊びに行くことが出来るかもしれないし、はたまたもっと深い関係になることだってあるかもしれない。
そうだ。こういう小さなチャンスを拾っていくことが大事なんだ。
挑戦をしなければ可能性は0%だ。晴人、お前には悪いが、俺はこの勝負に本気だ。必ず勝ち取ってみせる。
「せ、先輩!」
俺の上擦った声に先輩はびっくりした様子で反射的といった感じで、顔を上げる。
「な、なに」
元々丸い目を更に丸くしてこちらを見る。俺はんんっ、と咳払いをしたところで、何を話そうとしていたかを忘れてしまった。
いや、そもそも考えていなかった。会話をしようということだけ思いついて、気づいたら行動してしまっていた。
視線が刺さる。俺は一旦口をパクパクさせてから、咄嗟に玄関の方を見て思いついたことを口に出す。
「あ。せ、せせ先輩は、晴人のこと好きですか?」
先輩は驚いた顔をする。だけど、すぐにいつもの微笑の表情に戻った。
「……好きよ」
俺は息を飲む。あんなぐうたら男のどこがいいんですか!?と思わず声に出そうとすると、先輩は言葉を続けた。
「いや、正確には好きだった……かな」
先輩は髪を耳にかけ、目の彩度を少し落とす。俺は安堵の気持ちと共に、今度は自然に言葉が溢れた。
「え、どういうことですか?」
先輩は、未だ曇り空が続く窓の外に視線を移す。少し間を開けてから、口を開き。
「バイオリンやってた頃の彼は凄かった。小さい頃から実力を重ねて、本当に色々なところで演奏をして。まるでバイオリンを弾くために生きているように、ステージ上でいきいきした表情、素振りを見せていた」
俺も何度か晴人の演奏を見たことはあるが、その時はただすごい上手いと思うことしか出来なかった。
今耳に入った先輩の言葉が、あの時の俺にやっとあいつの演奏を分からせた気がした。
「私、それから彼を人間として尊敬するようになった。私もあんな風にフルートを吹けるようになりたい。彼のように音符に自分を乗せるような、演奏を超えた表現を一度でもいいから、と。そしてあわよくば、彼と一緒に演奏する機会がしてみたい、そんな風にまで思っていた」
「……」
「でも、彼はあの日にバイオリンを辞めた。それは、高校三年生の春休み。晴人君が初めて、海外でコンクールに出場した日だった」
先輩が唇をギュッと噛む。俺は黙って、それを聞くしかなかった。
「オーストリアのウィーンで行われたコンクール。私、わざわざ見に行ったの。彼の演奏が聴きたくて。そして、彼は私がこれまで聞いた中で一番の演奏をしてくれた。私は感動した。でも……」
「……でも?」
「結果、彼は100人中22位だった。あれほど素晴らしい演奏をしたのに、彼の周りの人々は慰めるような空気。彼は会場の裏で、涙を流してた」
俺はそれを聞いて、心の中で酷く驚いた。あいつが泣いているところなんて話でも聞いたことなかったからだ。先輩は続ける。
「それでも、私はあの演奏に本当に感動した。順位とか関係なく、表現として彼はベストを尽くしたと思ったの。だから彼に声をかけようとしたんだけど、彼、私の顔を見た途端「来てたんですか」って声を震わせて。ろくに話もしないまま、彼はその場を去ってしまった」
白く細々とした手が窓をゆっくりと撫でる。先輩は依然として外を見て。
「たまに思うんだ。あの時、私が何か言葉をかけてあげられてたらって」
指が下へと伝っていく。最後のは俺へというより、先輩が先輩自身と会話しているようだった。
「彼の家、医者家系なんだけど。彼小さい頃からバイオリンしかしてなかったみたいで、今追い出されてるらしくて。それ聞いて、より、思っちゃって、」
言葉の途中でハッとしたような表情をしたと思ったら、先輩は窓から手を離し、笑顔と体を再びこちらに向ける。
「ごめんね。また自分の話しちゃった。このこと、晴人には言わないでね?」
もちろんです、と言いながら俺は首を縦に振る。あいつの家が金持ちだとは知っていたが。……。
というか、それより!俺はそこで再び気づく。また晴人中心の話になっているじゃないか。
俺の話をするつもりが、気づけば晴人の話題を自分から提供する状態となっていた。まずい。あと何分であいつは帰ってきてしまう?
こうなったら、直接先輩にアプローチしてみるしかない。
「先輩」
「?」
「先輩は、俺のこと好きですか?」
「……え?」
今度は、更に困惑した表情。両眉をハの字にし、発音した「え」の状態で口の動きが止まっている。
「先輩は、俺のこと、好きですか?」
「……え、あ、うん。もちろん、好きだよ。小太郎君のバンドに対する熱意とか、そういうとことか」
先輩の目が泳いでいる。必死に自分の髪を撫でるようにして、いかにも動揺しているといった感じだ。これは、これはもしかしてそういうことなのか!?
「じゃあ先輩は俺と晴人、どっちが好きですか?」
さっきより少し芯の通った声を意識して発音してみる。先輩は崩れた笑顔を貼り付けるのに必死と言ったような顔を続ける。
「え、えーそれはどっちも好きかな?ほら!人には人のいいところがあるって言うし」
うーん。なんだかパッとしない答えだ。段々はぐらかされているような気もしてくる。
「強いて言うならですよ!どっちが好きなんです?」
「え、ええー……。そんなの、決められないよ」
俺は徐々に自分の中で思いが高まっていくのを感じる。熱量のあまりか、俺は思わず先輩の肩を掴む。
「わぁ!」
「はっきりしてください!もし、付き合うとしたら俺と晴人どっちがいいんですか!」
「え!?つ、付き合う!?ちょ、ちょっと待って!」
「先輩って何が趣味なんですか!?俺は、料理とか、工作とか、もちろんギターとか!たまにですけど、博物館とかも行きますし、水族館とかも、」
「ちょちょちょ、小太郎君一旦落ち着いて!やめて!」
彼女が俺の手を肩から引き剥がす。いとも簡単に離れたのは、俺のぼやけていた視界に彼女の苦悶の表情が映ったのと同じ頃だった。
「小太郎君、この際言うよ」
はぁ、はぁ、と大きく呼吸をする先輩。少し間を空けた後、唾を飲み込んでから先ほどよりはっきりと話す。
「小太郎君のその積極性?っていうのかな。今まではまだ許せたし、なんなら好きでもあった。だけど、今日ばっかりは無理。もう、無理だよ」
俺は額から汗が一滴長く流れる感覚だけを考える。先輩は続ける。
「ご飯のこともそう。私が断れなかったのが悪くもあったけど、ちょっとぐらい意見を聞いてくれてもいいんじゃない?私、これから家族の誕生日会があるの」
先輩の初めて見る顔。それは怒りというよりも悲しみに近いような顔だった。
俺は、何も言えなかった。彼女の言葉が刺さっていき、体の力が段々と抜けていく。
「私、これ以上されるなら、本当に小太郎君のこと嫌いになっちゃうかも」
嫌い。違う、俺はこんなことを望んでたはずじゃ。不思議と目に涙が溜まる。
なんでこんなことをしてしまったんだ。なんで。俺は。
彼女は言葉を言い切ったようで、俯いた俺に体をじっと向けたままだった。
顔を見れなかった。見れるはずもなかった。そのまま、膠着していると。
「プルルル」
着信音。彼女のポケットからだった。
「ごめんね」
そう言ってた気がする。彼女は言葉を空に残し、電話に出た。
先程とのギャップが激しい、上品で丁寧な口調。
電話の内容は聞こえてこなかった。というより、それは言葉ではなく音としてただ耳に入ってきているだけだった。
彼女が電話を切り、こちらを向く。ベランダを開け、ラインストーンに煌めく靴を持ち上げる。
「ケーキの予約の時間、一時間間違えてたみたい。晴人君には悪いけど、もう行かなきゃ」
どこかいつも通りの声に聞こえるはずの声。だがその声は俺の中で、さっきの先輩の声に上書きされる。
彼女はバッグを持ち、廊下と部屋を隔てる扉の前に立つと一瞬立ち止まった。
「ちょっと言いすぎたわ。小太郎君も今日はありがとうね、それじゃ」
そしてバタンという音が続けて二回。
遂に俺は、部屋に二人きりになった。自分と、後悔という二人と。
思わず床に背中をつけて寝っ転がる。天井が滲んで見えてしまう。なぜ、こうなってしまったのだろうか。
先輩は最後まで気を遣ってくれていたが、正直俺はもう彼女に嫌われただろう。
後悔が募る。後悔しか募らない。なぜ、あんなことを聞こうとした。なぜ、あそこまで焦って喋ってしまった。
床に沿わせて、腕を動かす。まるで羽をもがれた蝶々のように、情けなく、ジタバタ、ジタバタと。
ふと、手の甲に何か当たる。更地となった床の上に何かが落ちている。
俺はそれを拾い上げた。
この部屋では見慣れない物体。親指と人差し指でつまめるくらいの大きさの。白く、表面の光沢が光に反射して。
「これ、先輩のワイヤレスイヤホン?」
親指を引っ掛けてその白いケースを開けると、予想通りイヤホンが二つ行儀よく並んでいた。
先輩は前にも部室に落としていたことがある。その経験で分かる、これは確実に彼女のだ。
「……届けないと」
床を手で押すようにして、なんとか出ていった力を体全体に押し戻していく。
そして、立ち。部屋を駆け、大急ぎで扉のノブに手をかける。
だが、そこで俺は一瞬手を止めてしまう。
「小太郎君のその積極性、無理」
記憶よりも酷く冷たい声が頭の中に響く。何やってんだ俺。これは、届けなきゃいけないもんだろ。
力んだ拳で膝を思いっきり叩いた。もう一回。もう一回。
それから、俺は玄関を駆け出した。まだそんなに遠くには行ってないだろう。
……先輩。