第10話:/興亡/
「この度は、娘が大変お世話になりました!!!」
そう言ってこちらに頭を深々と下げると、白髪の紳士はハンカチで目を拭いながら、激しく泣き崩れた。俺は隣に座っている晴人と思わず目を合わせる。
「ちょっと、パパ泣きすぎだって。ほら、一応私助かったんだから!」
「助かって無かったかもしれなかったんだぞ!?そんなことがあったら私は……うぅううう」
早苗先輩に慰められながらも、彼は再び目を拭う。ごめんなさいね、という先輩の声にいえいえ、と返しながら俺は辺りを見渡す。
すぐ横に暖炉。下には大きな絨毯が引かれており、壁には様々な画家の絵が点々と飾ってある。
どこかシックな雰囲気のこの部屋は、一室だけで俺達の住んでいる部屋を十軒は建てられそうな広さを誇っている。
今俺と晴人が座っているソファーは四人がかけても空白が出来てしまうほどの大きさであり、その向かいの同じソファーには、先輩と先輩の父親が座っていた。
そう、ここは紛れもなく早苗先輩の実家。俺達はあの後、男を交番に届け、先輩を病院へと連れて行った。幸い、軽い傷程度で済んでいたらしく、そのまま帰すこととなったのだった。
だが、その夜に先輩から連絡があり、父親がどうしてもお礼をしたいとのことだったため、次の日俺達は大学終わりにこのまるで宮殿みたいな家に呼び出されたのというわけだ。
「先輩ってこんなお金持ちだったのかよ」
「ああ、そうだ。だって、俺と同じコンクールに出るくらいなんだからな」
俺と晴人が囁きながら会話をしていると、先輩の父親が咳払いをしてこちらに視線を移す。
「いや、それにしても君達には頭が上がらないよ。本当に、いくら頭を下げても足りないくらいだ。だから今回は、そのお礼をしたくて君達にわざわざ足を運んでもらったんだ」
そう言って、彼はパチンと指を鳴らした。それを合図に、一人のメイドがお辞儀をしてからこの部屋に入ってくる。
メイドは赤い布で覆われた、大きな皿のようなものを運んで持ってくる。そしてそれを、俺達と先輩達の間にあるガラスのテーブルに置いて、すぐさま去っていった。
「少しばかりだけどね……」
父親は赤い布の端を持って、勢いよく引っ張る。そして、俺は目を疑った。
その鉄の皿に乗せられていたのは、ピラミッド状に積み上げられた札束の山だったのだ。
「受け取ってくれ。五十万円だ」
「……え、ええーーー!?」
俺は目玉が飛び出るかと思った。いや、半分飛び出ていた。こんなに大量のお金がある光景なんて、初めて見た。
隣の晴人はうんうん、と頷いている。なぜだ!?なぜこんな反応が出来る!?五十万だぞ!?とんでもない大金じゃないか!
「じゃあ、俺達はこれを貰っていいんだな」
「いやいやちょっと待てよ晴人!え、ちょっと、父親さん本当に良いんですか!?」
「いいんだ。逆に、これほどしか用意出来なかったことを申し訳なく思う」
「いいんですか先輩!?」
「これぐらいしか、うちには出せるものないしね」
「見慣れた額だ。何をそんな驚いている、小太郎?」
晴人の視線。なんだ、俺がおかしいのか。俺の反応が間違っているとでも言うのか。
先輩の微笑。父親さんの申し訳なさそうな顔。俺はそれから、深く考えることをやめにした。
夕焼けが、石垣へと降り注ぐ。いつもの帰り道で、俺はリュックに詰め込んだ札束の入ったケースの重みを感じながら、天を仰ぐ。
「あーあ。本当に貰っちゃって良かったのかな。こんな大金」
晴人は隣で落ちている石を小気味良く蹴りながら、俺の方を見る。
「あそこで受け取らない方が失礼ってもんだろ?何気にしてんだよ」
「いやお前はただ貰いたいだけだろ。はぁ」
風が吹き、落ち葉が舞い上がった。それらを踏んで散り散りになっていく感覚が気持ち良くもあり、どこか切なくもある。
肩にかかる重たい感触。だけど、どこかその紙幣には不思議と空洞があるように感じ、重いと感じたのも最初だけだったような気がした。
「なあ、晴人。お前はこのお金で、何か買いたいもんとかあんのか?」
彼は石を遠くに蹴る。回転したそれはちょうど排水溝の中にゴールして、ポチャンという淡麗な水の音に変わった。
「俺はありったけの替えの弦を買う。それ以外は、あまり興味がないかもな」
「ええ?五十万円分も?お前、極端だな。もっとなんかあるだろ」
「じゃあお前は何が欲しいんだ?そんな口を叩くぐらいなら、さぞ大層なものを言ってくれるんだろうな」
「そりゃそうだよ!えっと……例えば……」
まずお前と同じくギターの弦、って言いかけて狼狽える。ギター、バンド活動、早苗先輩。連想ゲーム的に思い出してしまう。
「小太郎君のその積極性、無理」
指を折ろうと取り出した手の動きが止まる。それじゃあ、他に欲しいものは。
他には。あれ……俺の欲しいものって一体。
自分で思っているほど時間が経っていたらしく、晴人は足を止めてこちらをじっと見ている。沈黙を切り裂くように、俺は声高に語る。
「そ、そりゃあでっかいものだよ!誰もが持ってないような、そんな」
「はあ?なんだよそれ」
呆れたように視線を外し、再び歩き出す晴人。俺はその後を追う。
俯きながら、西陽によって地面に現れた自分の影を見ながら思った。俺って、なんなんだ。俺って、何が出来るんだ。
今までやってきたことって、全部、全部、意味なんてないじゃないか。何も残っていないじゃないか。
「晴人」
「なんだよ」
何を求めるでもなかった。俺は、成果を身体中に身につけるそいつに、ただ思いを吐露した。
「挑戦って、本当にするべきだと思うか?」
俺の言葉を背中越しに受け、晴人は体の半分を光で橙色に染めながら前に歩いていく。
「……なんだよ、急に」
表情は見えない。それでも、困惑しているのが声から分かった。俺は続ける。
「無謀な挑戦なんて、自分だけじゃなくて他の人まで傷つけてしまう。そんなことをするくらいなら、ただ静かに暮らしていた方がよっぽどみんなの役に立つんじゃないか。特に、能力を持たない奴にとっては」
果てしなく感じた言葉の羅列。それは、晴人が相槌もしないままずっと黙っているからだった。
彼はしばらく歩いた。何も言わず、こちらを向くこともなく。思いを小さく吐き切った後は俺も何も言わなかった。ただ道を前に進む平坦な時間が、その場を支配していた。
が。
急にそいつは立ち止まった。俺に目線を向けないまま前だけを向いていて、落ちていく夕陽とそいつの姿が重なって見えたような気がした。
「小太郎。その五十万もバトルに賭けねえか?」
見えないはず。見えないはずなのに、そいつの表情が分かる気がした。
「え?」
「もう明日の昼でバトルも終わりだろ?勝った方が家も五十万も貰う。そっちの方が面白そうじゃねぇか」
でも。振り返った彼の顔は笑っていなかった。ただ真っ直ぐに俺を見る、温かくも、冷たくもない視線。
彼の顔つきは明確に、いつもと違っていた。今度は幼少期から一緒にいる俺でも見たことのないような、凛々しくも、どこか。
「いいよな?」
俺はしばらく押し黙ってから。
「……分かった、そうしよう」
「決まりだな」
晴人の声がこだまする。
明日でバトルはどのような結果であれ、終わりを迎える。勝った方は全てを得て、負けた方は全てを失う。
言葉通りの意味だ。俺は目の前のこいつに勝たなければいけないのだ。
こいつに勝てば。勝てれば、初めて俺は自分を誇れるようになるかもしれない。
眼前にあるボロボロの扉。俺達はその戦場への扉の前で、一度深呼吸をする。
「いくぞ」
「ああ」
晴人の声に俺が呼応する。彼が扉を開け、俺達は二人で最後の帰宅を果たす。
五十万の入っているリュックや持っていた荷物等の諸々を二人揃って廊下に置き、部屋に繋がる扉を通っていく。
半日ですっかり元通りになった、物で埋め尽くされた部屋。
その真ん中に俺と晴人は向かい合うように立っていた。
睨み合ってお互い視線を合わせる。そして、右手がゆっくりと動き出す。
俺はポケットに、晴人はジャケットの内側に。
「最後だ」
「ああ、始めよう」
彼の合図と共に、一気に引き抜く。青い銃身が空に残像を残しながら、二つの銃口がお互いの顔に向いた。
カチャ、という金属音だけが部屋で響く。
俺も晴人も、残り一発。部屋の真ん中ですれ違う双銃は、まるで俺達を見ているようだった。
向けられた銃口と、向ける銃口。
勝利の女神は、どちらに微笑むのか。それを知っているのは、グリップを力強く握る、その感触だけで。