第1話
見知った帰り道。だけど今日は、やけに家までが遠く感じる。
背負ったギターの重みが肩を蝕む中、俺はついさっき喰らったばっかの審査員のしかめっ面を再び思い出す。これでもう三度目だ。
「何が不合格です、だよ。こっちも真剣にやってるって言うのにさぁ」
口で愚痴を吐きながら、バンドコンテストのチラシを両手で揉みくちゃにする。次のコンテストまで、どれくらい待てばいいのだろうか。
「ワン!」
「うわぁ、びっくりした!」
近所の家の塀に繋がれた柴犬が、俺に向かって吠えた。思わず声が出てしまい、体の疲れをどっと増やす。
歩みを止めた瞬間、一瞬犬と目が合った。気まずい感じがして、そそくさとその場を立ち去る。
「はぁ〜、なんでこんなんばっかなんだよ俺の人生は!!」
ボサボサの髪を更に荒らすように頭を掻きむしる。はぁ、とまた一つため息をついいた後、ボロアパート特有の腐敗臭が鼻をつんざき、嫌でも自分を家に帰ってきたのだと思わせた。
歩きながら壁のひび割れた部分を指で少し擦って、破片を地面に落とす。楽しくもなんともないがついやってしまう。
自分の家の前を視界に捉えた瞬間、扉を半分塞ぐようにパンパンに詰まったゴミ袋が置かれているのが見えた。
「チッ、あの野郎……!」
俺はそれを見つけた瞬間、歩くスピードを上げ、即座にそのゴミ袋を掴んだ。ほぼ機能していないドアノブを捻ってドアを開け、勢いのまま靴を脱ぐ。
ドタドタと音を立てて廊下を歩き、案の定寝転んでいたそいつに俺はゴミ袋を叩きつけた。
「おい晴人!お前何回言えば分かるんだよ!朝出る時に一緒に捨てとけって言っただろ!?」
その声に反応してからまず布団から出てきたのは、そいつの茶色い髪。
次に、切れ長でこれまた茶色の目を露わにした後、置いてあった黒縁の眼鏡を拾い上げ、そのままかける。
外に出ていないことを象徴するような白い肌を纏った彼の顔だけが布団から出ており、さながら蛹のような状態で彼は顔をこちらに向ける。
「こっちこそ何度も言うが、小太郎、お前が勝手に言い出したことだろ?お前が捨てればいいじゃないか」
「はぁ?お前ふざけんなよ」
眼鏡のレンズを布団で拭きながら、大きなあくびをする晴人。俺は背負っていたギターを部屋の端にそっと置き、再び目を合わせる。
「そういうのじゃないんだよ!シェアハウスしてるんだからさ、二人で役割分担するもんだろ?それにゴミ捨てるぐらいすぐ出来るじゃん!」
「シェアハウスをしたいと言い出したのはお前だろ、それにすぐ出来るなら尚更お前がやればいい」
晴人はゴミ袋を足で部屋の端に寄せながら、眼鏡をクイっと上げる。もう一つ欠伸をしたと思ったら何をするでもなく、再び布団に潜っていってしまった。
「もう!いつもそうやって何もやろうとしないじゃん!いいよ!俺が捨ててくる!」
「……」
慣れた道順でゴミを捨てに行き、わずか二分程度で部屋に戻ってくる。
膨らんでいる布団を見ながら、ため息を吐こうとしてシンクに手をかけた瞬間。
「グゥ〜」
それより先に、情けない音がお腹から出た。俺は思わず時計を確認する。気づけば夜の九時。もう晩飯時だ。
もう白色と呼べないドアを軋ませながら冷蔵庫を開け、中をなんとなく漁る。
「なあ、晴人。お前もう飯食った?」
「食った」
「グゥ〜」
今度の音は、布団の中から聞こえてきた。俺はニヤリと笑い、まな板を取り出した。
「分かった分かった、作ってやるから待ってろって。今日はちょっと張り切っちゃおうかな」
隙間だらけの冷蔵庫から適当に食材を取り出していると、布団の中からこもった声が聞こえてきた。
「ほどほどにしとけよ」
「うっせえ」
人参の皮を剥きながら、後ろを振り返る。もう寝転ぶのは飽きたらしく、晴人は壁に足を寄り掛からせたまま手遊びをしている。
その姿を横目に、俺は部屋の隅に飾ってある賞状へと視線を移した。
「全日本バイオリンコンクール、優勝、楠原晴人」
輝かしい成績と豪華なトロフィー。晴人は昔から、そんな名声が似合う男だった。
俺は手を動かしながら、あいつと出会った時のことを思い返す。
あれは、小学校に入学して間もない頃だった。俺は友達を作りたい一心で、たまたま席が隣だったそいつに話しかけた。
「なあ、おい、おい!」
「え、何?」
思わず眉をひそめるそいつ。俺はポケットからくしゃくしゃになった折り紙を彼に渡した。
「これ、あげるよ!」
彼は戸惑いながらもその折り紙を手に持ち、見回すように両手でぐるぐると回す。
「何……これ?」
「マーラだよ!この前動物園で見たんだ!見た目はカピパラとかに似てるけど、何の動物の種類でもないんだって!」
「それの、折り紙?を君が折ったのか?」
「うん!自分で考えて折ってみたんだ!それ、あげるよ」
彼は折り紙をじっと見つめ、曇っていた顔をようやく少し綻ばせた。
「君、面白いね。ありがとう」
「俺、黄崎小太郎!あんたは?」
「俺は、楠原晴人」
「晴人かー!これからよろしくな!」
「うん、よろしく」
そんな小さなきっかけから俺達はよく会話をするようになり、気づけば授業中も休み時間に遊びに行くのも、いつも隣には晴人がいた。
でも、あいつは俺とは違った。
「楠原君の折り紙すごーい!」
「あら楠原君上手ね」
「はは、ただ鶴を折ってみただけです」
折り紙の授業中、俺の隣の席には大勢の人が押し寄せていた。俺はその隣で、自分が折った自信作をただ一人で見つめるしかなかった。
あいつの周りには色んな人が集まる。クラスメイトも、先生も。そしてそれ相応の能力も持っていた。
「それでさー、俺びっくりしちゃって」
「はは、それは驚きだね」
「晴人君!ちょっと……」
休み時間の会話中、晴人は先生に呼ばれて職員室に行った。俺はこっそり着いて行って、ドア越しに聞き耳を立てた。
「晴人君の書いた作文が、コンクールで最優秀賞を取ったの」
「本当ですか!ありがとうございます」
クラスのみんなが応募する作文コンクール。もちろん俺も応募した。
それから時が流れて行っても、俺達はずっと同じ道を歩んできた。晴人は中学校の絵のコンクールで金賞を取った。隣にあった俺の絵は、もちろんなんの飾りも無く。
高校に入ってから、晴人は子供の頃からやっていたバイオリンのコンクールで軒並み賞を取って、名誉を欲しいままにした。
特に文化祭の日の経験は記憶に新しい。俺が高校から始めた軽音部の初ライブと晴人のバイオリンの校内発表の時刻が被っていることがあった。
実際、俺の方の観客はたったの一人。演奏後、体育館を覗いたらみんながお前のことを目を輝かせながら見てた。
悔しくもあったけど、晴人にはそれが似合ってると思った。そして俺もそんな晴人の隣にいる友達としてふさわしい、能力のある人間になりたいと思って生きてきた。
だから、高校卒業と同時に晴人も俺も実家を出ることになったタイミングで俺はあいつにシェアハウスの提案をした。
一緒にいれば、何か晴人に近づけるヒントが得られるんじゃないかって。でも……。
俺は再び視線を晴人に移す。俺の思い描いていた晴人像はシェアハウス生活と共に虚しく崩れていったのだった。
布団と戯れながら体を捩らせる姿が、まるで別人のように見える。なんで、こうなっちゃったんだろう……。
「おい、なんか焦げ臭いんだけど」
「え?あ!」
晴人の声で我に返る。気づいた時には炒めていた野菜の半分は真っ黒になっていた。でも全てが黒に染まらなかっただけ、今日は運が良いかもしれない。
「大丈夫大丈夫!ほらもう出来るよ」
お互いの所有物が入り混じった床を掻き分け、部屋の中央にテーブルを置き、その上に出来立ての料理を三品並べる。
もぞもぞと毛虫のように動く布団を引き剥がし、中からうめき声を上げながら出てきた晴人のジャージの裾を引っ張ってテーブルの前へと座らせた。
「おい。なんだこれは」
眉を下げ、眼鏡のレンズを再び拭く晴人。俺は彼の対面に座り、それぞれの料理を指さす。
「なんだって失礼だなー。これが納豆のレモン炒めで、これがもやし味噌餃子で、これが焼き茹でそばだよ」
「ふざけてるな」
「大真面目だけど」
俺の言葉を聞き、晴人は瞳孔を大きく開いて勢いよく立ち上がり、料理を指さす。
「どこがだよ!揃いも揃って真っ黒じゃねぇか!なんで毎回お前はそうなんだよ!」
「お前が動かないから俺が仕方なく作ってやってんだろ!絶対食えよ」
俺は転がっていた割り箸の袋を拾い上げて立ち上がり、晴人の胸にそれを叩きつけてからもう一度座る。
納得いかないような顔で晴人は渋々俺と同じ目線に戻り、俺と同じタイミングで手を合わせていただきますのコールをする。
俺は晴人の動向をじっと見つめる。その様子に気づいた晴人が目を逸らし、もやし味噌餃子を箸で掴んで恐る恐る口に運ぶ。
「……どう?」
咀嚼を大きく一回する。その瞬間、晴人は顔色を変えて、部屋の隅にあったゴミ袋の中に口を突っ込む。
咳をしながら、振り返ったそいつの目には涙が溜まっていた。
「今までで一番だったぞ……お前レシピは!?」
「あるわけないだろ?なんてったって、俺のオリジナル料理だからな」
「ふっざけんな!いいか、飯ってのはな。普通のもん普通に作りゃ美味くなんだよ!」
「それじゃ、つまらないだろ!?ってか当たり前に不味いみたいな感じ出すな!」
俺は箸で黒い塊を掴んでひょいと口に運ぶ。涙は出るが、まあまあ食える。今回は成功と言っていいだろう。
「ああもう!」
晴人は声を荒げながら、料理の隙間に隠れていたもやし一本を持って徐に立ち上がった。
キッチンの前に立ったと思ったら、フライパンにオリーブオイル、塩、胡椒、諸々見たことない調味料を高い打点から入れる。
火を点け、フライパンをコンロの上でくるくると踊らせる。
流れるような手際で、もやし一本をフライパンに飛び込ませ、音を立てながら、勢いよく炒める。
香ばしい良い匂い。ある程度ふるってから、皿にそれを盛り付け、俺の前に差し出す。
「食ってみろ」
言われるがままにそれを口に運ぶ。その瞬間。舌の上でもやしが輝きを放つ。
あらゆる調味料のドレスを着ていて、それが絶妙なバランスでもやし本来の歯応えや風味とマッチする。
「え!?めっちゃ美味いんだけど!おい!こんなのどうやってやったんだよ!?」
「普通にやりゃ出来んだよ!この大バカ野郎!」
罵声を部屋に残すと、晴人はそのまますぐにキッチンから離れ、布団に包まった。
俺はその布団を掴み上げ、ひっぱり続けながら餃子を掴んだ箸をそいつの口にねじ込む。
「バカってなんだよ!せっかく作ったんだから俺のも食えよ!ほらあーん!ほら!」
「お前本物のバカだろ!あぁぁやめろ!それを近づけるな!」
うめき声を上げながら抵抗を続け、口を床につけたまま硬直する晴人とそれを引き剥がそうとする俺。
小競り合いは、気づいたら一時間も続いていた。