きっと暇だ
「おーおー。朝イチなのに、酷い顔してるね。寝れなかった? 悩み事?」
教室に入ってすぐに気が付いた。茜の目の周りにくまがある。徹夜明けのサラリーマンのようなオーラを出してるけど、一体何があったのか。
「聞いてくれるの?」
「そりゃ、そんな顔して見詰められたら、聞かない訳いかないでしょうよ」
「ありがとう! さっすが親友だわ」
「その代わり五分な。五分で頼む」
茜の前の椅子を引いて、私はまたいだ。スカートが持ち上がって、一瞬男子の目が気になる。茜はニヤリと笑ってから、私にだけ聞こえるような声で言った。
「ハルくんてさ」
「うん」
「やっぱ、イケメンじゃん。ほんとに彼女いないのかな?」
「いないらしいよ。前にも言ったでしょ」
それはもう調べた。私の情報網に引っ掛からないのだ。ハルくんは白だ。彼女はいない。
「でも、ちょっと時間経ってるじゃん。もしかしたら、今はいるかも」
「大丈夫。私の情報は常に最新よ。私に隠れて付き合ってるなら、ハルくんはマスタークラスのプロよ。ジェダイもびっくり」
「ジェダイは分かんないけど、そうだよね。絶対いないよね?」
結局、寝不足の原因はハルくんだ。茜は、ゴリラみたいにメンタルが強いのに、ハルくんの事になると弱気になる。もう何度、このやり取りをしたことか。暇な女子高生の自覚はあるけれど、そろそろ、はっきりしてよね。あ、ゴリラは言い過ぎたか。ごめんよ親友。え? ゴリラは意外と繊細なの? じゃあ、それもごめん。
「ハルくんに告白したら、付き合えるかな?」
「知らんよ。いっぺんやってみ」
少しの勇気を持つだけなんだ。私の子分からの報告によれば、ハルくんの想い人は茜だ。だから二人は両想い。やったぜハッピー。ハッピーエンド。
だったら教えてやれよって思うでしょ。だけど、万が一。だけど万が一、私の子分がポンコツで、間違った情報を仕入れてきていたら、大変な事になる。ここは慎重に、茜が自分から告白出来るように、そっと後押しする事に私は決めていた。
「それが出来るなら、もうやってるって」
茜は溜め息をついた。そのまま机に突っ伏すかと思いきや、急に背筋を伸ばして目をパッチリと開いた。見ると茜の想い人。うちの学校では、イケメン扱いのハルくんが歩いて来るではないか。
「お前の母親さ~」
ハルくんは茜をチラッと見てから、私に向かって言った。
「レジ、ちょーおせぇよ。万引きしちゃいそうだったわ」
何が面白いのだろう。ハルくんは大袈裟に笑った。きっと好きな茜の前で、テンションが変に上がったのだろう。知らんけど、多分そうだろう。
「あー、コンビニ行ったんだ」
私の母は、駅前のコンビニで働いている。名字が珍しいから、すぐに私の母だとばれてしまった。早番の時に会ったのかな?
「それで? 早くやれって私に文句を言うの?」
母は二年前に脳梗塞で倒れてから、左手に軽い麻痺が残った。コンビニのオーナーがいい人で、リハビリもかねて母は働かせてもらっている。
「いや、文句じゃねえけど、遅刻しかけた」
私の言い方がきつかったのか、ハルくんは笑いを引っ込めると、すぐに離れて行った。すると、氷の彫刻が溶けたみたいに脱力した茜が言った。
「なんか、ハルくん冷めたわ。全然笑えないんだけど」
「そう? うちの男子って、みんなあんな感じ。慣れといた方がいいよ」
「てか、なんか怒りすら感じるわ。もういいかも」
「ちょっと待って、ちょっと待って」
何? 何? この急展開。私は急いで茜の耳元で囁いた。
「ハルくんの好きな人はあなたです」
「え?」
「だから、ハルくんの好きな人は茜らしいよ」
茜はキョトンとしたが、すぐに笑って手を振った。
「へぇ~。そうなんだ。でも、もういいかなぁ」
「本当に?」
「うん。なんか急にどうでもよくなった」
茜は両腕を伸ばして、大きな欠伸をした。ついに睡魔が、本格的に攻撃を開始したに違いない。もうすぐ一限目なのに、この人はやっていけるのだろうか。
「あ、そうそう」
目を擦りながら茜が言う。
「一緒に吹奏楽部入らない?」
「へ?」
唐突だなぁ、と私は思う。その後で?マークが一杯頭に浮かぶ。
「めちゃくちゃカッコいい先輩がいるんだ」
「ああ、そうなの」
ハルくんよ。もう茜の中から完全にドロップアウトしちゃったのね。短いが、意味のある蝉みたいな人生だったと信じたい。
「私はサックスするからさ~。一緒にやろうよ」
「吹奏楽かぁ」
私の部屋のクローゼットの中には、二年ほど使っていないクラリネットがある。母から譲り受けた品だ。上達しないからやめちゃったけど、また吹きたいな、と思った。茜と一緒なら楽しそうだ。それに暇だし。
「まずは、見学しに行かない?」
「うむ。では今日の放課後で」
と茜は言ったが、いつ眠る気なのだろう。体力もゴリラなんだ。あ、ゴリラは言っちゃ駄目だった。
誰かが開けたままの窓から、気持ちのよい風が入ってきた。きっと仲良くそろって、入部する事になるだろう。眠たそうな茜を見守りながら、私はそう感じていた。