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前編

一、


 森山直人は、それまでの 40 年の人生で人一倍、心に傷を負いながら生きてきた。森山の父親は絵に描いたような毒親であり、定職に就かずに、競馬やパチンコなどのギャンブルやアルコールに依存し切った生活をしていた。ギャンブルに負けた鬱憤にアルコールが加わると、森山にとっては最悪だった。そういう時の父親は森山に馬乗りになって、意識が飛ぶまで殴り続けた。父親が好きだった日本酒の一升瓶で殴られたことがなかったことが唯一の救いだったが、父親の暴力のために彼は中学生になるまでに前歯を三本失ったし、鼓膜が破れたこともあった。


 母親はすでに他界しており、森山に身よりと呼べる存在は、父方の祖父母くらいしかなかった。中学一年の時に学校の教師の通報で、森山が児童相談所に保護されたことをきっかけに、彼は父親のもとを離れて、その祖父母が彼を引き取ることになった。こうして、ようやく父親の魔手から逃れられたと思ったら、今度は学校でいじめにあった。森山は小学校の頃から劣悪な家庭環境のために勉強どころではなかったので、簡単な読み書きや計算もできなかったし、運動も苦手だった。悪い意味で目立ってしまっていたのである。中学二年になる頃には不良グループのターゲットにされ、家にアザを作って帰ってくることも、しばしばだった。


 その後も彼は悲惨な人生を送ることになるのだが、ここで彼のその後の人生について、詳しく触れることはしない。彼がどういう種類の人間であるかは、もうすでに十分に伝わったはずだからである。ただ、森山についてもう一つ付け加えておきたいことがある。それは、その壮絶な生い立ちのためか、いつからか、彼の精神が異常をきたし始めたということである。そのプロセスは、彼が小学生の頃にはすでに始まっていた。父親に殴られている時に不意に、「このまま大人しく死ね」と言う声が聞こえたことがあり、やがてその声は至る所で、彼に付いて纏うようになった。その声のメッセージはネガティブなものが大半であり、その声を耳にすることは、森山にとって身の毛がよだつような、嫌な体験だった。


 またその頃には、四六時中夢の中にいるような奇妙な感覚に、襲われるようにもなっていた。誰でも朝起きた時に、夢と現実の区別がつかなくなる体験をしたことがあるかと思う。宙に浮いたり、怪物に襲われたり、現実ではありえないような体感を伴った夢を見ることは多いと思うが、普通は睡眠中にいくらそういう夢の世界に浸っていたとしても、目が覚めた瞬間に現実感を取り戻していくものである。しかし森山の場合は、常に夢の中にいるような感覚に、支配されていたのである。森山は自分で自分が誰なのかがわからなくなることもしばしばだったし、自分の行動をコントロールしている感覚も、ほとんど失われてしまっていた。そして20歳頃に問題行動を繰り返し、精神科を受診することになり、統合失調症や解離性障害などの診断を下されることになった。


 彼はそういう不完全な意識、幻想と現実の狭間で、もう何十年も生きていた。ただ、彼が「生きている」という感覚を強烈に感じられる瞬間があった。それは、父親や中学時代のいじめっ子たち、さらには自分をそういう境遇へと追いやった社会全体への激しい怒りと憎悪に、身を震わせているときであった。そういう時、彼の心臓の鼓動は動悸のように激しくなり、全身の毛穴から脂汗が滲んでくることを感じた。このように、怒りに身を委ねた時の身体感覚だけが、彼に「自分は生きているのだ」という自覚を与えてくれる、唯一のものだった。


二、


 2015 年 10 月のある日。40 歳の森山は登山用の大型のリュックサックを背負って、都心から少し離れた住宅街を歩いていた。彼は午前11時頃の人が少ない大通りを、脇目もふらずに(リュックの重さのためか)前傾姿勢になって、黙々と一直線に歩き続けていた。ひょっとすると見る人が見れば、その時の彼のじっと前方を見据える鋭い眼光に、何かしら正常ではないものを察知できたのかもしれない。しかしなにぶん、平日の午前中の閑静な住宅街でのことである。目つきの鋭い中年男性が、中に何が入っているともつかない大きなリュックを背負って歩いていたとて、咎める者は誰もいなかった。


 森山は大通りのある地点の、横断歩道の前で立ち止まった。横断歩道の方向に身体を向き直した彼の前方には、大通りを挟んで、15階建てくらいの真新しいマンションがあった。その一階にはガラス張りの自動ドアがあり、その上方には、「西田皮膚科クリニック」と書かれた看板も見えた。そのクリニックは、森山が持病のアトピー性皮膚炎の治療のためにもう何年も通っていた、彼のかかりつけのクリニックだった。


 彼は、大通りの向こう側にあるその看板をじっと見つめた。いや、「見つめた」というよりは「にらみつけた」と言った方が正確だったかもしれない。そして何か決心を付けたかのように大きく深呼吸をすると、信号が青に変わった横断歩道を一歩一歩、歩みを確かめるかのようにゆっくりと歩いていった。


 彼は横断歩道を渡り切った後も歩みを止めず、そのまま前述の自動ドアから、クリニックの中に入った。いつの間にか、それまで彼が背負っていたリュックを、前方に抱え直していたようだった。そして、クリニックに入った彼を受付の女性が目にするかしないかのタイミングで、前方に抱えていたリュックから、小さなドラム缶を素早く取り出した。


 もちろん、受付の女性がこのような事態に遭遇することは、生まれて初めてのことだっただろう。ドラム缶など、皮膚科のクリニックの診察を受ける際に必須の持ち物ではないことは、言うまでもない。また、この時点ではそのキャップも閉じられていたので、内容物の臭いを感知できたわけでもない。しかし彼女は即座に、そのドラム缶の内容物の正体と、森山がそれをクリニックに持ち込んだことの意味とを悟り、


 「きゃあーーーー」


 と後ずさりしながら、叫び声を上げた。そのときにはすでに、森山はドラム缶のキャップを外し、内容物の液体を、ドアから入ってすぐの待合室の床一面にぶちまけていた。灯油に特有の硫黄系の臭いが、辺りを包んだ。そして、女性の叫び声を聞いた他のスタッフが待合室に駆け付ける前に、即座にライターをリュックのポケットから取り出し、待合室のフローリングを汚していた灯油の水溜まりに向かって、奇声を発しながらそれを投げ捨てた。


 次の瞬間、「ドカン!」という強烈な爆発音と共に、火柱が一面に立ち昇った。着火した張本人の森山自身も、猛烈な勢いで立ち昇った火柱に吹っ飛ばされた格好になった。その後、火は一階のクリニックのみならず、マンションの二階、三階まで瞬く間に飲み込んでいき、クリニックの従業員を中心とする、15人の死者を出す大惨事につながった。幸か不幸か、この大惨事を引き起こした張本人である森山は、火柱が立ち昇った際に自動ドアが開いて建物の外に吹っ飛ばされたことで、全身に大火傷を負いながらも、一命をとりとめた。


 これが、精神病患者が罪を犯した際の責任能力について全国的な論争を引き起こすことになった、「西田クリニック事件」の顛末である。


三、


 男女15人が落命し、他にも多くの重傷者を出したこの事件の引き金を引いた森山の処遇は、当然、全国的な注目を浴びることになった。前述のように森山は重傷を負いながらも生き永らえたので、まずは彼に火傷の治療を施して、法の裁きを待つことになった。


 案の定と言うべきか、世論の概ねの反応は、「こんな大罪を犯した人物を、税金を使って生き永らえさせるのか」というものだった。しかしそれ以上に世間の人々の感情を逆なでしたのが、森山が複数の精神疾患を抱えており、それがゆえに仮に裁判の結果、彼に「責任能力がなかった」ということになれば、罪に問われない可能性もある、という事実だった。森山が、「皮膚科の医院長に、軟膏という名目で毛穴から入る毒薬を処方された。その復讐だった」という現実離れした内容の供述をした、という報道もあったのである。


 大まかに言うと、刑法の基本理念の一つとして、罪(ここでいう罪とは、違法行為のことである)を問われている者が、その罪を犯した際に「罪を犯すという選択肢」と「罪を犯さないという選択肢」の両方があり、その者が自らの意志で「罪を犯すという選択肢」を選んだ場合に限り、刑罰を科す、という考え方がある。この理念があるおかげで、例えば「たまたま人にぶつかってしまって、その相手を傷つけてしまった」というような、不可抗力による行為に刑罰が科されることが、防がれているのである。


 この考え方は、心神喪失状態の者が罪を犯した際にも適用される。つまり、「統合失調症の妄想に支配されて罪を犯してしまった」というような、罪を犯した時点で心神喪失状態にあった者は善悪の判断ができる状態になく(責任能力がなく)、いわば不可抗力のような形で罪を犯してしまった、という扱いになるのである。


 とはいえ、例え刑法上はそうであったとしても、こうした処遇は被害者やその遺族からすれば到底納得がいくものではないこともまた、事実である。それがゆえに、精神疾患の既往歴を持つ者が罪を犯すたびに、この手の議論は何度も俎上に上げられてきた。そして「西田クリニック事件」の場合は、その被害の大きさと残虐性、さらにはその罪を犯した張本人である森山を、公的な資金を注入して治療するという事態の複雑さが、議論を他の事件以上に白熱させる結果をもたらした。


 テレビのワイドショーは連日、この事件を取り上げ、識者たちが森山の責任能力の有無について、議論を交わした。インターネット上でも、被害者の感情を考慮して、森山の治療を即座に中止するように求める声が、多く上がっていた。このように、日本中がこのショッキングな事件について喧々諤々としていたときに、一人の精神科医が書いたあるブログ記事が、世間の注目を集めることになった。そのブログの著者は精神科医という立場でありながら、「森山が灯油やライターを計画的に準備していたこと」や「森山は事件の2年前に、持病の統合失調症について『寛解状態にある』という診断を受けていたこと」を論拠に、事件当時の森山に責任能力があったことは、「疑いの余地がない」と断言していた。さらには、森山の経歴には彼の「心の弱さ」が垣間見られるとして、その彼の弱さこそが、このような罪を犯す本当の理由になったのだ、とまで言い切っていた。


 そのブログの著者(仮名だが、本田大と呼ぶことにする)は、「誰もが言いたくても言えない、本当のことを言ってくれる」という、いわば「世論の代弁者」のような形で、テレビに引っ張りだこになった。彼もまた、このように世間に担ぎ上げられることで正気を失っていく運命にあったのだが、ここからは彼がどのような背景でそのような過激なブログ記事を書くことになったのか?ということに、焦点を当てたいと思う。


四、


 本田大の父親はサラリーマンだったが、いわゆる「転勤族」で、本田は小学生の頃に数回の転校を経験した。言うまでもなく転校は、子供にとって一大事件である。住んでいる土地が違えば方言も違うし、人間関係もすべて一新される。とくに、本田が小学校四年のときに関西から関東に引っ越したことがあったのだが、そのときのストレスは計り知れないものだった。


 近年では日本全国で言語が標準化されてきているというか、地方ごとの方言の違いは薄まっていきつつあると思うのだが、本田が少年だった1990年代にはそういう違いはまだまだ色濃く残っていたし、とくに関西弁と関東弁は同じ日本語でも、別の言語と言えるくらいの違いがあった。


 まず、関西人と関東人とでは話すときのイントネーションが違うし、関西人は「~やで」という語尾で会話を終えるが、関東人は「~だよ」と言ったり、「頭が悪いこと」を関西人は「アホ」と言うが、関東人は「バカ」と言ったりと、同じ事象を指しても使う語彙が異なることもある。


 本田少年は小学校四年生のときに関東に住みだした際に、大きなカルチャーショックを受けたし、方言の違いのために、いじめの対象とまではいかなかったが、しばらくの間同級生から、からかわれたりもした。それまでにも転校の経験はあったのだが、このときほど周囲に溶け込むのに時間がかかったことはなかった。さらに本田少年が、それほどスポーツが得意ではなかったことも災いした。小学生のうちは多少性格に難があってもスポーツが得意なら、周囲から一目置かれるものだし、スポーツで方言の違いが問題になることもまずないから、友人とのスポーツに積極的に参加することで、人間関係を円滑にすることができたはずだったのだが、彼は色白で小柄な少年で、どちらかと言うと鈍臭い部類に入ったから、そういう抜け穴も塞がれていた。


 彼はそのときの転校まではどちらかというと外向的な少年で、授業中に他の子供とおしゃべりをして先生を困らせたこともあったくらいだったのだが、関東に引っ越してからは、下手にしゃべると方言のことでからかわれるし、彼を守ってくれる友人も誰一人いなかったので、かつての彼を知っていた者からすれば驚くくらいに、大人しくなった。そして一人で図書館に通い、読書に耽って学校での苦痛な時間をつぶすようになった。


 このように少年時代に人間関係で苦労した経験が原体験となって、彼は人間の心や社会の在り方について、関心を持つようになったと言えよう。自らが抱える生きづらさを、人間という社会的動物が持つ習性によるもの、と考えることで説明できないだろうか?と考えたのである。この意味で彼は早熟な少年だったし、理系的な素養がもともと備わっていたとも言えた。理系的な素養がある人間は、世の中のあらゆる事象を要素要素に分解して、それらの要素の関係に、なんらかの系を見出そうとする。宗教的な価値観が強かった時代に人体を解剖して観察していたレオナルド・ダ・ヴィンチなどはその極端な例だが、本田少年にも少なからずそういう思考回路が備わっていたと言える。


 そういう彼の知的探求は、小学校の図書館に置いてあったシャーロック・ホームズ・シリーズの本を読むことから始まった。物語りの中でホームズが、犯人が残した痕跡から鋭く犯人の行動や心理を見抜いていく様に、強い憧れを持った。もちろんシャーロック・ホームズはフィクションであり、よくよく読んでみるとストーリーの矛盾点も多いのだが、ホームズが、自身が「推理の科学」と呼ぶ独自の手法によって、様々な事象を各要素に分解し、それによって普通の人が見落としてしまうような手がかりを得て、事件を解決に導く様は、一つの完結した「系」のようであり、本田少年にとっては非常に美しく思えた。


 とくに、本田少年は運動が得意ではなかったから、「自分が他人よりも抜きんでることができるものがあるとしたら、それは頭脳しかないだろう」と思っていたところがあり、だからこそホームズの明晰な頭脳に、強い憧れを抱くようになった。


 彼は、そのまま関東の公立中学校に進学した後は読書だけではなく勉学にも励み、成績は常に学年トップクラスだった。中学三年のときに、同じ中学校に新入生として入ってきた妹から、「お兄ちゃん、部活の先輩に『ガリ勉野郎』って言われてたよ」と伝えられたときには若干のショックを覚えたが、逆にそれが「自分は勉強でとことんまで上に行って、自分を蔑んだ連中を、将来見返してやろう」という原動力にもなり、高校は都内トップクラスの公立の進学校に進学することになった。


五、


 本田少年は前述のように、小学生だった頃から興味の方向が人間の心や社会の在り方に向いていたので、高校生になると心理学の入門書を読むようになっていた。そして理系的な素養の持ち主でもある彼は、当然の帰結として、はじめは行動心理学や認知心理学に惹かれていったのだが、次第に、人間の心はそれらの学問で試みられているほど、簡単に説明できないのではないか?という思いが強くなり、その反動で、当初は「オカルト的なもの」として敬遠していた精神分析にのめり込んだ、という経緯があったのである。


 精神分析家たちの症例集に見られるような、自由連想法によって神経症患者の過去のトラウマやコンプレックスを炙り出し、症状を解消していく様は、小学生のときにシャーロック・ホームズの小説を読んだときに感じたのと同じ興奮を、本田少年に与えた。それまでカオスのようにしか見えなかった人間の心を説明するための「系」が、そこに存在するように思えたのである。人間の心に強い関心を持ち、「頭脳派」であると自認していた本田少年にとっては、精神分析はこの上なく魅力的な学問領域に思えた。


 本田少年が精神分析の本を読み始めたのは高校二年の夏だったのだが、そのときに彼は、フロイトと同じ精神科医になろうと決心を固めた。しかし、彼は進学校の生徒だったとは言え、医学部受験、とくに国公立の医学部の受験は、そう簡単なものではなかった。彼はそのことを百も承知だったので、「精神科医になる」という誓いを立ててからは、すべてを投げうって受験勉強に励み、一浪の末、地方都市の公立の医科大学に入学することになった。


 医大生になってからも彼の精神分析に対する情熱は揺るがず、6年間の学生生活を無事に終えて医師免許を取得し、研修医を経て、晴れて精神科医になることができた。精神科医になってからは、「さいとうメンタルクリニック」という都市の郊外にある小さなクリニックに勤務するようになった。最初のうちは、(独学してきた精神分析の知識を実践してみたいという野心をぐっと堪えて)クリニックの医院長の斎藤を始めとした先輩医師たちの忠告に素直に従い、日々の臨床を無難にこなしていた。患者からの評判も、概ね良好だった。


 だが、数年も経ってくると、同じルーチンの繰り返しの日々に辟易するようになった。本田はそれなりに頭が良い青年だったし、コミュニケーションに難があるわけでもなかったので、先輩医師のいいつけを忠実に守っているうちは、患者の評判も悪くなかったことは、すでに述べた通りである。しかしそういう順調な日々も、本田にとっては慣れてしまえば退屈なものに過ぎなくなってしまっていた。


 本田がもともと少年時代に精神科医という職業に期待していたものは、シャーロック・ホームズが事件を解決に導くときのような、あるいは、本の中の精神分析家たちが複雑に絡み合った患者のトラウマを解決に導くときのような、刺激的な頭脳ゲームだった。ギリギリの緊張感の中で、複雑に交錯した問題を解決に導くという、いかにもドーパミンが脳内であふれ出るような、そういう体験を期待していたのである。


 ところが彼が経験した実際の精神科臨床の現場は、マニュアルに従って薬を処方したり、心理士や作業療法士といったコメディカルと連携してリハビリに当たったり、ということの繰り返しで、(少なくとも彼にとっては)刺激的なものではなかった。


 そして勤務医とは言え、彼は同世代のサラリーマンとは比較にならないくらいの給料を貰ってもいたから、単純なルーチンをこなしているだけの人生は、彼にとっては「イージ-モード」のようにも思えるようになっていた。こういう慢心が若いうちに生まれてしまうと、その人の人生はろくな方向に向かわないものである。もっとも大概の場合は、蓄積した日々の鬱憤の発散先は、ギャンブルやアルコール、女性などに相場が決まっているものなのだが、幸か不幸か本田の場合は、そういう類の欲がそれほど強くはなかった。


 そのために日々の鬱憤の発散のための方法として、イージーゲームになった人生を破壊するかしないかのスレスレのラインで、どこまで逸脱行為が許されるか?という(彼なりの)「ゲーム」を楽しむようになった。それは、優等生の仮面を被った精神的に問題を抱えた中高生が、大人の目を盗んで悪事に走るときの心理に似ていたかもしれない。そもそも本田は少年時代に反抗期らしい反抗期を経ていなかったし、大した苦労もせずに人並み以上のお金を稼げる立場になっていたから、(もちろん表には出さなかったが)他人を心の底から見下していたところがあった。その対象にはクリニックの先輩医師も含まれており、こういう行動に走り始めたのは、彼の遅ればせながらやってきたささやかな反抗期であった、という見方もできたことだろう。


六、


 邪心に取りつかれた本田は、患者を本気で怒らせないギリギリのラインで、からかったりきつい言葉を浴びせたりするという、彼なりの「ゲーム」を始めた。当然のことながら、先輩医師の前ではそのことをおくびにも出さず、好青年として振る舞い続けた。本田はそれまでの人生でこれといった挫折を経験したこともなかったから、精神疾患の患者の状況を、「普通はそうはならないよね」と、馬鹿にしきっていた。彼が臨床で接する患者の多くは、様々な事情からまともに仕事ができていなかったし、中には生活保護などの福祉に頼っている者もいたのである。


 例えばあるとき、彼が診ていた中年の統合失調症患者が、


 「先生、この間大物芸能人のAが離婚したでしょう。あれは、私が彼の最近の暴走を戒めるために、お天道様(その患者は、自らの信仰の対象をこのように呼んでいた)に願をかけたからなんですよ。」


 と、ふとした会話の拍子に口にしたことがあった。それを聞いた彼はわざとらしく高笑いをして、


 「それはあなたの行動とは、何の関係もありませんよ。そういうありもしないストーリーを脳が作り出すことを、私たちは『妄想状態』と呼んでいるんです。大丈夫ですか?そんなことを平気で口にするなんて、薬が足りないのかなあ?」


 とおどけた様子で返事をした。それを聞いた患者は目を充血させて本田の方を睨んだが、本田はどこ吹く風で目の前のパソコンのキーボードをせわしなくたたき続けていた。


 別のときには、仕事の要領が悪く、転職を繰り返していた30代の発達障害の患者に「将来が不安だ」と相談をされて、


 「私は職業カウンセラーではありません。相談する相手を間違えていませんか?そういうことだから、『空気を読めない』と言われるんじゃないですか?」


 と突っぱねる回答をしたこともあった。こんなことを繰り返していれば、色々なところで「問題がある医師」としての評判が立つのは、当然のことである。しかし彼は、大きな騒動にならないようにこういう逸脱行為を行う頻度を巧妙に計算していたし、彼が逸脱行為を行うのは、決まって患者と二人きりのときだった。また、患者から話を聞いた上司の医師から注意されても、


 「そんなことを言った覚えはありません。患者さんが勝手に何かを取り違えたのではなかったのですか?」


 と、異常なのは患者だということにして、言い逃れることを繰り返していた。すべての精神科医療の現場がそうだとは言わないが、医師をはじめとした精神科のスタッフたちは、患者たちを「普通の理屈が通じない、困った人たち」のように見ている部分が、少なからずあるように思う。とくに、本田の場合は最初の数年間は真面目に勤務していたし、上司の医師の前では絶対に邪心を見せずに「素直な好青年」として振る舞っていたから、患者の言い分よりも、本田の言い分が通ってしまうことが常だった。


 こうした本田の「ゲーム」は、しばらくの間は彼に何の問題も、もたらさなかった。ところがあるときから、患者が彼に向ける敵意を、敏感に感じるようになっていった。本当に患者がそのような敵意を感じていたのかは定かではなかったのだが、(自らが撒いた種とでも言うべきか)彼自身が、多くの患者に対して疑心暗鬼になっていったのである。


 人間の面白い心性の一つとして、自分が敵対している(あるいはそうみなしている)相手がいたとしても、自分には無条件で味方になってくれる別の人たちがいる、と感じられれば、それほどストレスにはならないのだが、例えそれが閉鎖された空間であったとしても、周囲の人間が全員敵に回ったと感じると、心身に異常を生じさせるほどのストレスになることが挙げられる。だからこそ、いじめに遭った子供が、ときに自ら命を絶ってしまうこともあるわけだし、統合失調症の被害妄想に苦しむ患者は、「ムンクの叫び」が表現しているような絶望感に襲われるのである。


 本田には上司の医師たちに対しても欺いているという自覚があったし、そのクリニックの中では心の底から信頼を置ける人間が、誰もいなくなってしまっていた。そのような空間に毎日身を置き続けることで、彼の心身が徐々に蝕まれていったのかもしれない。統合失調症のように脳の異常によって引き起こされたわけではないという意味で、それを「被害妄想」と呼べるのかは定かではないが、いずれにせよ彼の場合は「人を欺いて悪事を働いている」という罪悪感から、病的な被害妄想に近いものを抱えるようになっていたのである。

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