選ばれし者
あれは一九〇二年の六月末のことであった。私たちは昼食をすませ一服しているとベルが鳴り、依頼人が部屋を訪れた。運動などはしないとみえて、しまりのないからだつきで背中が曲がり、度のきつそうな眼鏡をかけている中年の男である。
「ジョン・ネーサンと申します。私はめったに外出などしないのですが、今日はどうしてもあなたのご判断を仰ぎたくてやって来ました」
「伺いましょう」ポームズは椅子をすすめた。
「先ほど家のドアをノックするものがあるので、はてどなたかなと出てみると
『おめでとうございます!あなたは選ばれました!』
ついにやりましたねという表情で、大げさなくらいの握手をしてから、はて何のことだろうと思いつつもとりあえず中へ通しました。
『万歳!』と言ってからその男は椅子に座りました。
『私はライサンダー・スタールと申します。アレキサンダー・ハミルトンという老人の使いでやってきました』
スタールさんが言うにはハミルトン老人は変わり者で、莫大な財産を持っていながら親類縁者というものが一人もない。そこで電話帳を持ってきて目隠しをし、適当に開けたページに指を差し、そこに書いてあった人に全財産を譲ることにしたそうですが、それが私だというのです!
『つきましては老人が、用意をして待っているからこの件についてお話をしたいそうなので、今日の午後六時頃バーミンガムまでお越し下さい。なおこの権利は今日を逃すと無効になります』とのことです。
果たしてこんなことがありえるでしょうか?私は生来引きこもりがちでして、本来ならあんな遠方まで行かないのですが、話が話だけにですねえ」
「そんなばかな話があるものか!行くだけむだですよ」
私は言った。ポームズも呆れているだろうと思いきや意外にも興味深く聞いていた。
「老人には連絡しましたか?」
「電話をしたら、老人は朝から夕方まで自転車で気まぐれに旅をするのが日課だそうで居らず、また女中はそんな話は何も聞いていないということです」
「スタールさんは?」
「スタールさんの連絡先は聞いていません。電話帳にも載っていませんでした」
ポームズは後ろに寄りかかった。
「あなたは普段書き物をよくされますね?」
ネーサン氏は驚いて
「はい、家で小説を書いております」
「そして西区から来られた」
これにも驚いて
「住所はリトル・ライダー街一三六番です」
「普段家にはどなたかおられますか?」
「雇い女が一人いますが、夕方には帰ります」
「その家にはいつから住んでいますか?」
「五年前から借りています」
「周旋人は?」
「エッジウェア街のホロウェイ・アンド・スティール事務所です」
「家に何か高価なものがおありですか?」
「いいえ。昔趣味で集めていた骨董品は少なからず置いてありますが、それとて著しく高価なものは一つもありませんよ」
「ほう!骨董品をねえ••••••」
ここでしばらく話が中断された。ポームズは何と言おうか迷っているらしかったが決心して
「世の中悪い人だけではありませんからね。悪い人がいるからといって良い人を信じられなくなってはいけません。行ってごらんなさい」
私は驚いた。
「ありがとうございます!あなたにそう言っていただければもう迷うことはありません。これからこの足で行ってきます」
「その前に、私は骨董品のことになるといっぱし考証家でしてね。後ほど行って是非見せていただきたいのですが」
「いいですよ。四時前でしたら地下室に雇い女がいますし、鍵も持っていますから。声をかけてくだされば開けるように電話しておきますね」
ネーサンさんは電話してくれた。
「それでは行ってきます!」
「お気を付けて」
ネーサン氏が出発後に
「ぼくもちょっと出かけてくるよ」とポームズもどこかに出かけていった。
やがてポームズが部屋に帰ってきた。
「まさか君はこの件を重大視するのかい?」
「するね。これにはよからぬ陰謀があるのだよ。これからライダー街の冒険に行こう」
ネーサン氏の家に着いたのは、ちょうど四時だった。留守居をしていた雇い女が帰るところだったが、何のためらいもなく中へ入れてくれた。ドアは閉めれば自然に締まりができるようになっているので、帰りにはまちがいなく閉めてゆくからと伝えた。
ポームズは手ばやくあたりを調べた。暗い一角に戸棚が壁からすこし離しておいてあるので私たちはその後ろに隠れることにした。
「アレキサンダー・ハミルトンという金持ちのじいさんがバーミンガムにいるのは本当らしい。問題はライサンダー・スタールの方だ。こいつは我が依頼人をこの家から追い出したかったのだ。引きこもって外出をしない人物なので何とか方法を講じなければならない。そこで考えだしたのがあの話だよ。」
「それにしても何が目的なのだろう?」
「さあ、それを知るために今日はやってきたのだが、僕の考えではこの部屋に本人は知らないでいるけれど、悪いやつのねらいそうな案外高価な品でもあるのじゃないかと思う。もしくはこの家自体に何か秘密があるか。僕はあの後周旋所に行ってきた。依頼人が住み始める一年前まで別の男が住んでいたというが、そいつがこの家に何か秘密を残していき、本人か別のやつが今になって来てみたら、小説家がてこでも動こうとしないので••••••まあどんなことになるか、じきにわかるよ」
ポームズはそう言った。こうして私たちの待ち伏せは始まった。中々現れない。この前の待ち伏せは割とすぐに獲物が現れたのだが、そう毎回都合よくはいかない。それが待ち伏せなんだと心に言い聞かせた。ところが待てど暮らせど誰も来ず、とうとう朝になってしまった。
「帰ろうかワトソソ君」
私たちはとぼとぼとベーカー街への帰途に着いた。
帰って来てからどのくらいの間か分からないが、二人とも起きているのか寝ているのか分からないような放心状態になっていた。そうしている内にベルが鳴り、部屋のドアが開いて
「ポームズさん!あなたのおかげでわたしは大金持ちになれました!これはほんの気持ちです。いえ、いいのです、遠慮せずに受け取って下さい。ワトソソさんもありがとうございました。それではごきげんよう!」