第九話 ヒヤシンスの花言葉
二人は一頻り笑った後、改めて互いを見やった。
すでに剣呑とした空気も、悲哀に満ちたかつての記憶も、それぞれの笑顔で上書きされていた。
笑う事がここまで楽しいことだったのか、百年もの長きにわたり存在し続けたダキアは、その事にようやく気付くことができた。
「ねえ、アリス、最後に一つ聞いてもいい?」
「なんなりとお尋ねください」
「私の本質は“優しさ”と“愛情”だと言いましたが、それはあなたがそうだからでは?」
「はてさて、そう考えたことは一度もございません。強いて言えば、私が愛情を注ぐのは本に対してだけですから。人に対して、なんというか、その、希薄ですね」
アリスはあくまでただの本好きであると自認していたし、それを直す気も更々なかった。
「あら、そうなの? なら、このままご逗留いただいて、一夜の逢瀬を楽しみましょうか。悪魔たる私が直々に、愛を説いて差し上げるわ」
「おお、なんという悪魔の誘惑! でも、私は恋愛観にはごくごく一般的でありますので、お断り申し上げますわ」
「あら、意外とお堅いのね。もう少し柔軟かと思っていたのに。あなたの言葉の通りなら、これもまた、神の思し召しでなくって?」
少女が悪戯っぽくアリスに問いかけた。実に愛らしい姿であり、思わず抱き締めてしまいたくなるほどであった。
だが、アリスは悪魔の誘惑に耐えた。あるいはこのまま逗留してしまえば、幽世から現実の世界への扉が閉じてしまうかもしれないと考えたからだ。
なにより、アリスにとって耐えがたい誘惑を放つ悪魔の姿は、目の前のような可愛らしい少女の姿をしておらず、図書館に鎮座している平べったい大軍勢なのだから。
「神の思し召しなのかもしれませんが、なにしろ私は神に反逆する者ですから」
「そう。なら、私とあなたは反逆の同志ということね」
少女はピョンと椅子から飛び降り、両者の間に合った机を回り込み、手を差し出してきた。
アリスも立ち上がり、それを握って握手を交わした。
惜しむように手を放し、少女は机の上にあった呼び鈴を鳴らした。チリンチリンと澄んだ音が響き、僅かな時間をおいて、先程退出したイローナが部屋にやって来た。
「お呼びでございましょうか、お嬢様」
「お客様がお帰りよ。送って差し上げなさい」
「…………! かしこまりました。お客様、帰り道のご案内を務めさせていただきます」
イローナの驚きの表情を見せるも、すぐに元の無表情に戻った。
さて帰りましょうか、とアリスは扉の方を向いたが、少し名残惜しくなり、もう一度見送る少女の方を振り向いた。
そして、先程手にした髪を飾る白のヒヤシンスを手に取り、それを少女に渡した。
「ダキア様、白のヒヤシンスの花言葉、御存じですか?」
「いえ。素敵な言葉でも贈ってくれるのかしら?」
「はい。白のヒヤシンスの花言葉、それは『控えめな愛らしさ』と『心静かな愛』です。力強くも静かに、日陰者を導こうとしたダキア様に相応しい言葉かと思います」
アリスはギュッとヒヤシンスを握る小さな手を握り、少女は気恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「それともう一つ、白のヒヤシンスには言葉が込められています」
「それは?」
「『あなたのために祈ります』です」
無礼とは思いつつも、アリスは少女の頭を撫でてしまった。そして、銀色の髪を指で梳き、愛らしくも恐ろしい怪物の姿をした少女に微笑んだ。
「ダキア様、最後に一言を。あなたの御父君は悪魔と罵られておりますが、その本質は真面目で実直な統治者。そして、その気高き竜の魂はあなたの中にも受け継がれております。マティアス陛下、ダキア様、御二方のその真っすぐな信念と優しき志によって救われた者がいるのです」
神が見捨てても、それを拾い上げた悪魔が目の前にいるのだ。
イローナがまさにその悪魔に救われし者であり、恩人にして主君たるダキアに熱い視線を送った。
ダキアは少しばかり気恥ずかしいのか、照れ臭そうに頬を赤らめた。
「太陽に背を向けようとも、それを成した愛深き父、母、娘に幸あれ。そして、ダキア様が陽光の下に出て歩かれます日が来ましたらば、太陽に祈る日が来ましたらば、私もまたその隣で同じく神に懺悔をしたいと思います。同じ咎人同士、肩を並べてお祈りできる日が来ることを、私は心待ちにしております」
アリスは最後にもう一度礼をして、イローナと共に部屋を出た。
そして、扉が閉まるその瞬間、ふと振り向いたアリスの目には、大粒の涙をこぼす少女の姿があった。
黙して語らず、ただ自らを殺し続け、忍従に耐え、神への反逆を続けた小さな王様の、ようやく吐露できた感情が、そこには溢れていた。
~ 最終話に続く ~