第七話 それぞれの視点
アリスの考察混じりの言葉とは言え、その中身はダキアにとっては認めがたいものであった。
怒りや不機嫌さを隠すことなく、その荒れる感情を椅子の肘置きを握る手に力を入れ、メキッという音ともに亀裂を走らせるほどの力が込められた。
「そんなのおかしい! 間違ってるわ! 父は国のために尽くしたのでしょう!? それなのに、怪物だなんだと……!」
「それがヤノーシュ王には必要だったからでしょう。現に、遠征計画は取り止めになり、無理な出兵で国が疲弊するのを回避できたのですから。……ああ、ついでに申しておきますと、ヤノーシュ王は名君の代名詞的な存在になっておりますわよ。なんでも、身分を隠して国内を巡察し、悩める民衆をその知略で救い、国民全てから慕われ、皆に惜しまれながら天に召されました」
「父に濡れ衣を着せておいて、なにが名君よ!」
「先程も申しましたが、視点の問題です。ダキア様から見れば仇となれど、そこの国の民衆からすれば英雄となるのです。ダキア様にとっては残念で無念ではありましょうが、これが現在の“事実”なのでございます。納得しがたいという顔をしておいでですが、これが理不尽極まる地上の習わしなのでございます」
人の世界とは違う、幼きままに人外の領域を闊歩した目の前の少女には、決して納得できぬ事であった。
まして、自身の父を貶めた者が英雄だと持て囃されているなど、許されざる暴挙に感じられた。
もし、目の前の少女が見た目通りの可憐な少女であったならば、これを抱き締めて怒りを宥め、ガラにもなく優しさで包み込んだかもしれない。
しかし、アリスはそれをしなかった。
怪物にして“王”たる少女に対してそれを行うのは、恐怖であり、不敬でもあると考えたからだ。
(むしろ、ここからが本番。さて、私は生き残れるのだろうか)
再び気合を入れ直すため、また眼鏡をクイッと動かし、同情心を押し殺した。
そして、目の前にある少し冷めた豆茶を飲み干し、気分を切り替えた。苦みが頭を冴えさせ、知識の泉から必要な情報があふれ出た。
「さて、不快な歴史の授業はこれまでにして、本題に入りましょうか」
本題という言葉に反応してか、少女は落ち着きを取り戻し、アリスを見据えて次なる言葉を聞き漏らすまいと真剣な面持ちになった。
感情任せに行動しても、少女の本質は真っすぐで真面目な性格。ならばと、アリスもまた全身全霊を以てその姿勢に応えねばならないと考えた。
「ダキア様、御母君のことは覚えてらっしゃいますか?」
「母は……、いつも怯えていた。いつ幽閉が解かれるのか、いつ国に帰れるのか、そればかりを考えていたわ。そして、私を恐れていた」
母親としては当然の反応であった。なにしろ娘が怪物になっていく様を、ずっと見続けているのだ。どれほどの苦悩が締め付けていったのか、アリスの想像力には及ばないことであった。
だが、その苦悩がその後の展開に影響を与えたことだけは理解できた。
「そして、ある日、私が怪物になり始めてから、初めて母に抱きかかえられた。力強く抱きしめられ、大粒の涙が私の顔に落ちてきて、そのまま塔から身を投げた。何がどうなったのかを私は理解できなかったけど、地面に叩き付けられて潰れた母を見て、私は初めて死というものに触れた。でも、死は私の中には入ってこなかった。怪我はしたけど、私は死ぬことはなかった」
「ダキア様は人々の歪んだ想いが生み出した怪物。怪物ならば、塔から落ちた程度では、死を迎えることなどありませんわね」
少女はアリスの言い様が気に入らなかったのか、思い切り睨んだ。嫌な記憶を口にしてしまい、挙句に怪物呼ばわりでは気分も害して当然かと、アリスは踏み込み過ぎたことを反省した。
ゆえに、神妙な面持ちで頭を下げて詫びを入れた。
「……そして、私は初めて人の血を啜ったわ。心も、体も、そのときに完全な吸血鬼になった。力を得た私はそのまま必死で逃げ出したわ。見つかれば殺されると感じたから」
「なるほど。それが始まりですか」
悲しいことであった。目の前の少女は人々から蔑まれ、母の血肉を喰らい、本物の怪物に成り果ててしまったのだ。
(ああ、人間のなんと愚かしい限りの所業の数々。何も知らぬ少女にこのような罪過を背負わせるなんて、無知と偏見こそ悪魔を生み出す土壌じゃないの!)
アリスの内において、同情が逆に怒りに転じていた。自身も含めて、人間のなんと愚かなることかと後悔し、憤激した。
そして、目の前の少女はその重みに、小さな体で耐え続けてきたのだ。
(そうだ。迷子なのは私じゃない。目の前の女の子こそ迷子なんだわ。救いを求めて彷徨い、今もまた暗がりと進む。太陽に身を焼きながらも、何かに掴まりたくて、必至で手を伸ばしている!)
ようやく小さな暴君の本質が見えてきたアリスは、ここぞとばかりにたたみ込んだ。
少し深呼吸をして力をため、そして、持てる知識と思いの丈をぶちまけた。
「耐えられなかったのでしょう。自分に降りかかる不幸に、そしてなにより、怪物へと変じていく娘の有り様に、耐えられなかったのでしょう。それゆえに、自分と娘を殺すことを選んだ。それは大いなる罪。命は神より与えられし贈り物。それを自らの意思で自らの命を散らせるのは禁忌。しかし、その罪過を背負い込もうとも、地獄の業火で焼かれることになろうとも、あるいは氷に閉ざされた底辺の世界に押し込まれようとも、娘を抱きしめて世に決別しようと塔より飛び降りた。炎から娘を守るため、あるいは凍えることがないようにと抱き締めたまま、死を迎え入れた」
「まるで見てきたかのように語るわね、あなた」
「まあ、私の推察に過ぎません。ですが、ダキア様、あなたの心の内には、確かなものが脈打ってはいないでしょうか? 御母君より受け継いだ血と魂、宿してはおりませぬか?」
ダキアは急に俯いてしまった。何かを感じたのか、あるいは思い出したのか、なにかがドクリと少女の止まっているはずの心臓を押し上げた。
「……私は必死で逃げて、気が付いたらどこかの森の中にいたわ。そして、イローナと出会った。イローナは数人の男達に嬲られていたわ。代わる代わる痛めつけられ、嬲られ、辱められ、気が付けば虫の息。男達は下品な笑い声を上げながら、ズタボロのイローナを打ち捨ててどこかへ行ってしまった。私は怖くて何もできなかった。木の陰からそれを見ているだけしかできなかった」
「まあ、いくら力に目覚めたと言っても、何をどう使うのかを理解していなければ、どうにもなりませんからね」
「そして、私は虫の息のイローナに近付いた。虚ろな目のまま、私に何かを訴えかけていた眼差し。ああ、私の役目はこうなのかと理解した。私はイローナの血を吸い、私というお城に住む最初の住人に、家族になった。それから彼女はずっと私の側にいる。人ならざる者として、私の従者として」
そして、少女は顔を上げ、両の手を大きく広げた。
見ろと、自分を含めた暗がりに存在する世界を見てみろと、そう言わんばかりの態度だ。
「この屋敷には大勢の見捨てられし者がいる。全員が理不尽な仕打ちを受けたり、あるいは望まざる状況に追い込まれたりして、世と決別する道を選んだ者達ばかり。私がそれらを引っ張り上げた。片っ端に手を差し伸べた」
「それでは増える一方でございますね。ご苦労も多いでしょうに」
「目に付いたんだから仕方ないでしょう! 私は誰も見捨てたりなんかしない! 世界があの者達を見捨てたから、私が代わりに拾い上げたのよ!」
怒り混じりとはいえ、最初の威厳が消え失せ、困惑する少女の態度に戻っていた。
そして、アリスは気付いた。ようやく目の前の少女の本質を捉えることができたのだ。
時に同情し、時に怒りを煽り、殺されない程度に揺さぶって必要な情報を探り当てる。それがようやく実ってきたのだ。
そして、アリスは頭を垂れ、深々と礼をして敬意を示した。
~ 第八話に続く ~