第一話 迷子のお姫様
「えっと、ここ、どこ?」
薄暗い森の中にいる一人の少女は、跨る馬をゆっくりと進ませながら、周囲をキョロキョロと見回した。
薄い霧が不気味な雰囲気を醸し出し、湿り気のある冷気が這い寄るように袖口や首回りから入り込んでは、肌に滑り込んでいた。
そんな寒気は容赦なく体温や体力を奪っていき、少女は思わずブルリと身を震わせた。
少女は王家の血を引く由緒正しい名門貴族のお嬢様で、その日は狩猟の付き添いで嫌々ながらも同行させられていたのだ。
勢子にキツネやシカ等の獲物を追わせ、銃を構えた貴族がそれを撃つ。何が面白いのかと、少女には理解できぬバカバカしい行事であった。
だが、父には逆らえぬため、無理やり付き合わされた。狩猟は社交の場でもあり、貴族の娘としてそうした場所に顔を出し、そろそろ結婚相手をというのが少女の父の考えだ。
そのことには薄々感じ取っているのだが、少女は今の楽しい生活を崩されたくないため、どこの誰とも知らない相手の所へ降嫁する気など更々なかった。
少女は本が大好きで、それが生活の中心になっていた。三度の食より読書をしたい、というのが少女の願望であり、生活様式なのだ。
近親者が王立図書館の管理者という役職に就いていたため、文字を覚えてからと言うもの、図書館や書庫に出掛けては本を読み漁るというのが日課となっており、大好きな本に囲まれるという楽しい日々を過ごしてきた。
しかし、その代償として視力を落としてしまい、眼鏡を手放せぬ体になってしまった。
収まりの悪い赤い癖毛を揺らし、眼鏡をかけて図書館に入っていく姿がよく見かけられており、周囲からは『ボサボサ赤毛の眼鏡姫』などと陰で呼ばれていた。
他人の評など気にはしない少女で、そのあだ名には悪い感じを抱いてはいなかった。
名は体を表すと言うが、見たまんまじゃないかしら、という率直な感想を抱いていたりもしていたため、その評を受け入れていた。
だが、ここへ来ての危機的状況。結婚と言う名の人生の牢獄が差し迫って来たことを、周囲の雰囲気から感じ取っていた。
はっきり言って、少女は結婚など嫌だった。結婚などしてしまってはこの生活を手放すことにもなりかねないため、それだけは阻止したかった。
今でこそ割と自由に動き回っているが、自身の夫となる殿方がそれを許す保証もないし、まして図書館もないような地方に嫁いでは、本との楽しい生活も終わりを告げることとなる。
だが、少女に抗う手はなかった。せいぜい、人目に付かないよう狩猟場の隅で縮こまり、殿方の目星に掴まらないようにするのがせめてもの抵抗であった。
早く終わらないかなぁ~、と読みかけの本のことを思い浮かべながら馬に跨っていると、そこに一匹の大きなイノシシが飛び込んできた。勢子が少女の事に気付かず、誤ってそちらにイノシシを追い込んでしまったがための偶発的な事故だ。
そして、少女の馬が暴走した。すぐ近くを大きなイノシシが走り抜けたので、それはやむを得ない事であったが、乗っていた少女には不運以外の何物でもなかった。
少女はイノシシに驚いて暴走する馬に必死でしがみ付き、同時に助けを求める叫びを発したが、時すでに遅し。馬は暴走するままに森の中へと突っ込んでいった。
それでも振り落とされまいとする少女はそのまま必死にしがみ付き、ようやく馬の暴走が収まった頃には薄暗い森に身を置いていた。
人はいない。ただポツンと森の中を、自分と馬だけの組み合わせ。
これが少女の現在の状況である。
「うん、冗談抜きでまずいわね、この状況は」
少女は方角を完全に見失っていた。鬱蒼と生い茂る森の木々や漂う霧が太陽を隠し、光を遮って方角が分からないようになってしまった。
馬の足跡を辿ろうにも、どこをどう走って来たのか分からないし、馬の足跡の判別も困難ときた。
どこからどう見ても完全な迷子だ。
従者がいないのは当然としても、剣も銃もない。オオカミなどの獣に襲われたら、まず命はないと思わなくてはならなかった。
「まあ、あったところで役には立たないか」
なにしろ、少女は本の虫として四六時中、図書館や書庫に入り浸る日々を送っており、運動神経はお察しである。こうして馬に跨っていることすら、無理やりに教え込まれたからであり、できれば地に足を付けて歩きたいところであった。
それ以前に、この寒さが少女には我慢ならなかった。夜の帳が降りればさらに冷え込むのは明白であるし、今の服装では凍えることは疑いようもなかった。
火を熾そうにも道具が一切ない。
「知識はあっても、人の英知の結晶たる道具がなければ、何一つできることはなし。残念! 私の人生はここで終わってしまった! ……はぁぁぁ」
などと悲劇の舞台劇でも演じているように振る舞っても、虚しく自分の声が響き渡るだけであった。ため息とて自然に漏れ出し、しかも若干白い。
とはいえ、何もしなくては何も始まらないし、ただ終わるだけだと考えた少女は、適当に馬を進ませることにした。ひたすら真っすぐに進めばどこかの街道や川にぶつかり、そこから位置が割り出せるかもしれないと踏んだからだ。
眼鏡を指でクイッと押し上げてから最初の一歩を踏み出すのは、少女の前々からの癖であった。眼鏡はかけがえのない友であり、最も頼れる従者であり、図書館と言う名の楽園へと誘う悪魔なのだ。
そのレンズ越しに眺める森は、ただただ少女の心を陰鬱な気分にしていき、漂う空気は気力と体力を容赦なく削っていった。
~ 第二話に続く ~