では、どうぞ。
初めてお目にかかったとき、失礼ながら、レオン様の御母君は随分と高齢でいらっしゃると思ってしまった。
ボサボサに絡み合い乱れた、白髪とみまがう髪色と長い前髪のせいで、顔立ちが全く分からなかったせいだ。御入浴中に白金だと我々メイドが気が付いた御髪は、丁寧に洗って透いて梳いて香油でせっせと手入れすること数か月で、輝かんばかりの美しさを取り戻した。
お肌も同様にボロボロで、本邸のメイドにも手伝ってもらい入手した化粧品で、日々お手入れ申し上げれば、澄んだ白皙の美貌が現れた。
別棟の料理人にも協力してもらい、滋養があり美肌美髪に良いとされる食材で料理を作ってもらったかいのある絶世の美女が、我々別棟メイドの主だ。
白金の御髪を艶やかに輝かせ、碧色の瞳を煌めかせる主のご尊顔が曇らぬよう、我々は誠心誠意お仕え申し上げている。
「リオン殿の部屋の設えなのですが、どうなさいますか。別棟と同じく使用人にまかせも良いですし、ご希望があればそれに添うように用意させますが」
とんでもない案件を決定事項として突然告げるのをいい加減やめて頂きたい。
真っ白になった頭で、ここにはいない息子に助けを求めたが、先程旅立ったばかりの彼が現れるはずもなく、ただ茫然と目前にいる黒髪の貴公子を見つめた。
***
愛息子は、式の一週間後には嫁と連れ立って前線に戻っていった。夫婦揃ってワーカホリック過ぎないか。本邸の玄関先で彼らを見送り、さあ別棟に帰るかと踵を返したところを、嫁の兄君ルイス様に呼び止められたのだ。
そして、彼の執務室で出された紅茶を口に含んだところで、冒頭の台詞である。
噴出さなかった私を誰か褒めてほしい。
そもそも、話が全く見えない。
「お、お待ちください。あの、私の部屋とは?」
咳き込みながら尋ねると、そういえば言っていなかったかという表情でルイス様が、辺境伯領にある自邸に用意する私の部屋の話だと告げた。
「父から辺境伯としての実務を本格的に引き継ぐことになりました。もう少ししたら騎士団を退団して、辺境伯領に住まいを移すことになります。別棟の時は時間がなかったのですが、今回は少し余裕がありますので」
待て待て待て、そちらにあっても、こちらに余裕などない。というか、そもそも。
「あの、私が付いていく前提なのですか。王都の別棟に残るという選択肢は……」
黒色の瞳をまんまるにしてルイス様が首を傾げた。
「リオン殿には私の執務秘書官をして頂くつもりですので、同行して頂かなければ困ります」
初耳事項その二が出てきた―――!
脳内で警報がジャンジャン鳴っている。これは不味い兆候だ。前回も、貴族の屋敷にひっそりと住まえば良いのかと思っていたら、気付けばバルリング家に取り囲まれて、のんびり一人暮らしから程遠い生活を送っていた。
震える手で茶器を置いた私が口を開くよりも前に、ルイス様の腕が机の向かい側から伸ばされた。
剣を扱うからかゴツゴツと筋張った手の上に輝く、黒色の宝玉で作られた一対のピアス。手が大きいためか、やけに小さく感じるそれを凝視しながら、ゴクリと唾を飲み込む。
「あの、これは……?」
手を差し出すように促され、恐る恐る差し出した掌に転がり込んだ、いやに存在感のある宝飾品が通信具の一種だと気づいたところで、思い出した話がある。
「以前お話ししていた主級黒狼の魔獣石で作った宝玉を使った通信具です」
―――やっぱりか!
外れてほしかった予想が当たってしまった。
「大丈夫ですよ。私の独断ではありませんし、リオン殿に秘書官をして頂くことは、家族や配下の者達に話を通してありますので」
詳しい仕事内容は、後ほど説明します。しれっと言う次期辺境伯ルイス殿に、絶句するしかない。こちら側としては、何一つとして大丈夫ではないのだが。
「分不相応で、なければよいのでしょう?」
いつもの貴公子然とした微笑ではなく、悪戯っぽく口角を上げた彼に、もはや逃れる術は無いのだと悟る。
「つ、謹んで承ります」
引き攣りそうな微笑で、手中の宝玉を握りしめた。
***
「では、どうぞ」
絶対に断らせるつもりのないルイス様に、諦めと共に顔を傾けて片耳を差し出した。
首を傾げる彼に、こちらも首を傾げる。
「私は耳にピアス穴がありませんので、開けなくてはならないのでは……」
そこまで言って気付いた。阿呆か。穴を開けるにしても、医者とかメイドとか、他に頼む相手がいるだろう。後で誰かにお願いしよう。
この場でピアスをつけて見せなくてはならないと、なぜか勘違いしていた。慌てて言い訳しようとするよりも早く、ルイス様の方が側仕えに何かを命じて退出させる。
「今、用意をさせる。少しこの部屋で待っていてくれ」
珍しく敬語のとれた彼から謎の圧力を感じて、コクコクと頷くしかなかった。
***
結論から言おう。
―――滅茶苦茶痛かった。
ルイス様は5歳で開けたと言っていたが、よく子供がこんな施術に耐えられたものだ。尊敬する。
ただピアスを通すための穴ならば、まだマシだったかもしれない。だが、今回つけるのは魔道具だ。
体内にある魔力回路に接続させるために、穴周辺に疑似回路を刻む必要があった。元の世界でいうタトゥーや刺繍に似たものだ。本来魔力が通る場所でない部位に、ルイス様が魔力を通して、無理矢理に回路を焼き付けていったのだ。
繰り返しになるが、激痛が走った。
複数の護衛騎士に、肩や頭を固定された時点で嫌な予感はしていたのだ。そして始まる地獄の時間。言葉にならない悲鳴を上げる私と、額に汗を浮かべながら真剣な表情で施術を進めるルイス殿を、メイド達がハラハラと見守っていた。
終わったころには顔面が涙でべちょべちょになり、酷い有様だった。慌てて駆け寄ったメイドが、手巾で顔を拭ってくれる。温かいお湯に浸されたそれは、日本のおしぼりに近く、ほっと気分が落ち着くのが分かった。
「だ、大丈夫だろうか、リオン殿」
大丈夫ではない。彼がすることは、大抵の場合、とんでもなく大丈夫でないことの方が多いのだ。
だが、
「……大丈夫ですよ」
余りにも心配そうな顔をする彼に、文句を言おうとした気勢が削がれる。分かっているのだ。私を守るために、彼も、護衛騎士も、メイド達も、皆が心を砕いてくれているということは。
入婿のレオンの母親であるだけで、ここまで過保護にされる必要があるのかは、正直よく分からない。けれど、私を心配して、大事にしようとしてくれる、この家の人達の思いを無下にはできなかった。
この通信具だとて、私の身の安全を保持するためのものなのだろう。正直、国宝級の魔道具を常に身につけるのは、心臓に悪い。許されるのならば、今すぐに外してしまいたい。だけど、そんなことを言えば、きっと彼らは悲しむ。
悲しむ顔よりも、喜ぶ顔が、笑った顔が見たいから。
「いつも、お心遣いいただきありがとうございます。こんな素敵な品を頂いたのです。執務秘書官として精一杯務めさせて頂きますね」
まだ赤いだろう目もとで笑って見せた。
側近は戦慄した。
「今月の武具課からの会計報告ですが、数字に不備ありました。差し戻しましたので、少々お時間を下さい」
「辺境伯領への移動に伴う人員の配置転換ですが、僭越ながら、人員同士の相性と、現状の力量、今後期待される伸ばすべき能力を考慮した資料を添付しました。ご参考までにどうぞ」
「魔獣討伐部隊の配給備品要望書なのですが、形式を統一してはどうかと思い、素案を作成いたしました」
「先日の披露宴で収集した情報をもとに、前線で今後活発化する可能性のある魔獣への対策をご提案いたします」
―――この御母君、物凄く有能である。
主である次期当主が執務秘書官にするというので、形ばかりのものかと思いきや、想定を大幅に越える活躍をなさっていた。水を得た魚のように生き生きと執務をする様子は、この執務室の主が、ルイス様なのかリオン様なのか分からなくなるほどだ。
この御方が、魔獣に滅ぼされた無数の亡国のいずこかに属する王族であった可能性が高い、というのは必要な情報として把握していた。しかし、普段の口数か少なく、人との関わりを避ける姿から、この仕事振りを想像しろという方に無理がある。
呆気にとられる側仕えの横で、主たる次期領主ルイス様が呟いた。
「さすが、戦場の『死神殺し』レオン殿の母君だな。仕事に妥協がない」
物凄く納得した。
―――遺体に泣き縋る仲間の騎士に「彼はもはや死神に連れて行かれてしまった」と首を振る高位神官を、邪魔だと蹴り飛ばし、「連れて行かれたなら、死神を殺してでも奪い返してやればいいだけでしょう」と聖魔法で蘇生したのがレオン殿だ。
人を癒し治すということに誰よりも心血を注ぐ、その仕事に対する情熱は、どうやらこの母君から受け継いだものらしい。
それにしても――
「レオン様。これは真面目にやらないと、どちらが次期当主か分からなくなりますよ」
まだ年若い次期辺境伯は少し青くなった。それを横目に、私も負けていられないと、随分と楽になった仕事に戻る。御母君が来るまで連日残業していたのが噓のようだ。
(今日は、寝顔でない娘の顔が見られるかもしれない)
有能な執務秘書官の耳元で光る、主の瞳と同じ黒色の魔道具に、よき同僚ができて嬉しいが、いつまで『同僚』でいてもらえるものやら、と側近は密かに微笑んだ。