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短編集『桜歩道』

亜麻色画家

作者: 宮本颯太

 丘の上にある広場からは街の景観を一望する事ができる。

 僕は親戚の(まど)()と二人で広場に置かれたベンチに座りながら売店で買った昼食のホットドッグを黙々と食べていた。

「何か……塩味が強いよな。いつもの事だけど」

 ホットドッグの味についての僕の批評に円花は、

「ん?そうかね。私には丁度いいんだがね……」と返した。


 こんな風に独特な喋り方をする円花は僕より2つ年上の21歳。僕の母の従姉妹の一人娘で父親はオランダ人だった。とはいえ顔立ちは日本人寄りでオランダ語を話すこともなかったが、172センチの長身とライトブラウンの瞳、透き通る白い肌、それから背中の半分くらいまで下ろされた亜麻色の長髪は確かに西洋(ヨーロッパ)の血統を感じさせた。


「よし、やるか」

 円花は食べ進めたホットドッグの残りを口に押し込んでモゴモゴとそう言うと、手についたケチャップとマスタードを適当に紙ナプキンで拭き取ってから亜麻色の長髪を一つに束ね、足元に置いたバッグから画材を取り出し、それらを傍らに置いた。

 鉛筆、絵筆、水彩絵の具、パレット、水を閉じ込めたガラス瓶……。

 丘の上から見渡した街のパノラマを得意の水彩画にしてスケッチブックに描写すべく考案された配置だ。


 幼い頃から卓越していた円花の絵心と画力。

 今は美大に通い、それらの才に磨きをかけている彼女には、自分の感じた世界を常に何かに模写していたいという本能的な欲求がある。そしてそれに対する実現性を深める為に色んな画法を自身に取り込んでいた。

 大学では油絵をキャンバスに描き、プライベートでは情報化社会に適応すべくタブレット端末でポップなイラストを練習する事もある。今日のスケッチブックと水彩画の組み合わせは円花の代名詞。水彩画法は彼女の根源的なアイデンティティである。


「本当に好きなんだね。水彩画」

「うむ。文明社会の機械化がどれだけ進もうと、絵を志したる者は虹彩と網膜より視覚に得た空間と色彩と造形と、それによって刺激された己の感情と心境とを指先に伝えながら筆圧の繊細な調節をもって紙やキャンバスの真っ白な皆無の中に世界を表していくべきだと、そうは思わないか?」

「あ、うん。そうだね……」

 まあ理解できなくもないけど……。妙に偏った円花の持論にたじろぎつつも僕は適当に相槌を打って、白い虚無に創世が成されていくのを鑑賞する。


 才人が何かを創作する時の様子は見ていて心地の良いものだ。並の感性では捉え切れないものを捉え、特異とさえ思える感覚でそれを色彩の造形として紡ぎ出すのを、あたかも当然の如く表情ひとつ変えずにやってのける。そして決して自身の才能に(おご)る事は無い。ひょっとしたらこの人達には、それが特別な才能であるという自覚も無いのかも知れない。少なくとも僕の目の前にいるこの一人の才人は本当に自分の心に素直に、情熱の赴くままに、活き活きとした綺麗な顔をしている。


 鉛筆を使って『丘の上から見渡す街の風景』の下描きを終えた画家は、その驚異的なピッチの速さと異常なまでの写実性の高さに息を呑む僕を尻目に、今度は練り消しゴムを使ってそれを極限まで薄め、遂に彩色に取り掛かった。

 この筆使い。時には豪快に筆を走らせ、時には神経を集中させて細やかに筆先を踊らせる。それは正に『描写』とか『表現』と言った行為そのものを体現していた。

 僕は絵を学んではいないが、画法に身を委ねている時の円花の姿にいつも()()れてしまう。


 水彩ならではの淡い優しさと力強さが同居する色合いにスケッチブックのページが彩り尽くされようとした、その時であった。


『ワンッ!!』

 と僕たちを包み込んでいた静寂の繭に亀裂を入れる犬の鳴き声が耳を貫いた。

「ぬっ……!!」

 円花が息を詰まらせた声で呻き、筆の動きがピタリと止まった。

 僕もびっくりして後ろを振り向くと、そこには若い夫婦が散歩に連れて来ていた2頭の犬が楽しそうに(じゃ)れ合っていた。

「はは……まったくもう」

 その直後、ポトリと絵筆の落ちる音がした。

 ハッと我に帰った僕は慌てて円花の方を見た。

(しまった……!)

 犬の存在に早く気づいて、事前に知らせてやる事ができなかった。僕はそれをしてやるべきだった。


 円花は両腕に握り締めたスケッチブックを胸に抱え込みながらブルブルと震え、見開いた眼を白黒させながら乱れた呼吸に口をパクパクさせて苦しんでいた。白い肌からは血の気が引き、冷や汗が吹き出している。

 僕は咄嗟に円花の足元のバッグを手繰り寄せて奥にあるイヤーマフを引っ張り出し、彼女の頭に掛けた。耳を覆われて聴覚が絞られると少しばかり動揺がましになったらしく、目の焦点が合ってくる。

「あ、あっ。な、なあ……き、君……」

 全身の緊張が発声筋の働きを阻害している様だ。

「こ、こ……これを、持って……てくれない、か」

 円花はスケッチブックを持つギリギリの握力を何とか調整しながら、震える腕を胸元から離した。

「ああ」

 僕はそれを受け取って、すぐ横に置いた。

「ううっ……!」

 さっきまで冷静に水彩画を描いていた長身の画家は、今はベンチの上に自らの重心を定める事すら出来ずに、両手で口元を抑えながら芝の上に滑り落ち、へたり込んだ。

 僕もその隣にしゃがんで、円花の背中をさすりつつ先程の夫婦の様子を伺った。どうやらあの二人はこちらの異変に気づかなかったらしく、もう帰ろうと背を向けていたので、それにはホッとした。

 問題はここからだ。

「円花、大丈夫?」

 と呼び掛けると、口に手を添えたまま小さく頷いた。


 実は円花はアスペルガー症候群を抱えていて、聴覚過敏も持っていた。犬の鳴き声でパニックに陥ったのは、そう言った生来の発達特性から引き起こされる発作であった。


「ごめん……、座り直したい、から、手を貸してくれないか」

 再び話し始めたのはそれから更に時間を少し空けてからだった。僕は辛そうな才人の肩を支えながら一緒にベンチに座った。

「ああ、すまない」

 円花は長身をぐったりさせながら言った。

「いや。それは僕の方だ。犬が来たのに気づけなくて……」

 身内としての不注意を悔やむ。こういう事は今までにもあったけど、どんなに注意してても起きてしまう。

 俯く僕の頭を円花は撫でて、慰めてくれた。自分もまだ苦しいのに。

「君が教えてくれても、ああいう時の私には聞こえなかったかも知れない。それに君がいてくれると立ち直りも早いんだ。だから……助かったよ」

 落ち込む僕を円花はそう気遣ってから、

「スケッチブックをもらってもいいかな。どうしても完成させたいんだ。今日のこの瞬間の景色は今日のこの瞬間にしかない。日を改めればそれはもう今日を描いたものでなくなってしまう。この絵の立つ瀬が無くなってしまう。今日という日はそれほどに、代替の効かないものだから」

 こだわりを全開にした。正直に言うともう制作を止めさせて、家まで送って休ませたかったが、

「……ああ、でもその前にバッグを寄越してくれないか。お茶が飲みたい。いや、その前にこれを取ってくれ。あまり好きじゃない」

 と畳みかけられ、中断させるタイミングを逃した僕は何も言い返せないまま円花の耳を覆うイヤーマフに手をかけた。

「取るよ。3カウントでいいか?」

「いや、せーので頼む。カウントは迫ってく来る感じがして苦手なんだ」

「分かった。じゃ、せーので行くよ」

「ああ、頼む」

「よし。せーの……」

 徐々にイヤーマフを外していく。次々と押し寄せる世界の音に円花が瞬間的に全身の痙攣を起こしたので、僕は思わずその肩に手を添えた。

「……大丈夫だ。さあ、お茶が飲みたい」


 僕はバッグの中からペットボトルのお茶を取り出して、キャップを外してから差し出した。

「ああ、悪いね。ありがとう」

 受け取ったお茶を一口、むせそうになりがらも喉に通した円花は冷静さを取り戻していく。

「珍しく味が濃く感じる……」

 手に持ったお茶を見つめながらそう言うので、

「水の方がいいか?」

 と僕は少し離れた場所にある自販機を()して聞いた。

「ううん。いいんだ。美味しいって意味だよ」

「そうか」

「うん……まーでもこれが本来の味なのかな」

 円花は目を閉じて天を仰ぎながら呼吸を整えた。やがて開かれた瞼に、薄茶色の虹彩が再び世界を捉えたのを僕は察した。

 もう普段通りにして大丈夫そうだ。いやむしろその方がいい。僕は完成の近い水彩の風景画をその作者に返した。

「ありがとう」

 才人は自身の描いた絵を不思議そうに見つめて、

「……へえ。こんな風に見えてたのか」

 ぽつりとそう呟いた。

「え?」

「うん。(かん)を起こす前と今とでは、全くこの景色が異なっている……ように見える」

 発作の疲労を感じさせつつも、円花は自分の身に起きた不思議な感覚について思索を巡らせていた。

「それはつまり、どういう変化なの?」

 と聞いてみると、鋭敏に世界を感じ取る才人は言った。

「うん。つまり……私は私と言う記憶と自我を持ったまま別人になってしまった気がする。或いは別の世界に移行したと言ってもいい。何気ないきっかけで、この世界は変わってしまうものなんだな」

「ああ、それなら僕も似たような話を聞いた事があるよ。心理学だったか、それとも量子力学だったかな。それとも――、」

「なあ、この絵!君に見える景色と比較してどうだろうか?」

 柄にもなく弾んでいる円花は無遠慮に話を遮り、水彩画とベンチから望む実際のパノラマを僕にも見比べさせた。

 数分前に円花の描いた水彩画には丘の上から見渡せる街の風景が的確に描かれていて、全体的に明るい色調からはまったりとした空気感が伝わってくる。

「どうだろう?」

 重ねて聞いてくる円花に僕は、

「僕が見ている景色よりも……明るい感じがする」と答えた。

「へえ!そっか!やっぱり違うのか。面白い、凄く!!」

 声を上げる円花であった。この画家からこんなに大きな声を聞いたのは何年ぶりだろうか。

「でもまあ、そういうもんじゃない?」


 ここからが長かった……。


「いや、それが『そういうもん』として認知されるほど身近な現象である事もまた面白いんだよ。つまりだね、私と君が捉えた世界が違うという事は私たちは同じ場所にいながら別の世界にいるという事にはならないか?そして、それでも同じ場所に存在しているという事はそう言った別々の世界が重なり合って、異世界の住人同士がこうして干渉し合って、あろうことか各々の世界の感覚を共有してそれを互いに比較し合っている。これを『そういうもん』としてごくごく当たり前に行っているのは何と不可思議で素晴らしい事だろうか!」


 何かのスイッチが入り、才人は街の景観を眺めながら取り憑かれた様に超常的な論理を立ててみせた。

 こういう時にはいつも反応に困るけれど、でも回復して楽しそうにする円花の姿に僕は胸を撫で下ろした。良かった、と思った。

「なあ君、もう少し付き合ってくれないか?重ね塗りをして、数分前の私と今の私の世界を共存させてやりたんだ」

 一種の創作意欲なのだろうか。こういう感性は大切にしてやらねば。

「もちろんだよ」

「よし!……あっ!バッグをくれ!!パレットを換える」

「ああ、そうだった。ごめんごめん」

 はい、と僕はバッグを返した。

 円花は手早く取り出した予備のパレットに絵の具を乗せると、足元に落としていた絵筆も忘れずに拾い上げて、スケッチブックに食い入る様に重ね塗りを施し始めた。


 絵筆の疾走は躊躇することなく適切に色彩を重ねていく。何か解き放たれた様な、より明るい色調のもう一つの世界が同時に展開されて行く。


「できた!できたぞ!!」


 画家は達成感による歓喜の雄叫びを上げた。

「見せて」

 僕が覗き込もうとすると、

「いや、待て待て。すぐ乾くから」

 と言ってサッと隠されてしまった。

「そう?まあ君が言うなら」

 僕はベンチに深く背を預けて、周りに意識を向けつつ一人パノラマビューを決めた。空気と風が水彩画に息吹く間、風景の明るみが増していく気がした。


「さあ、乾いた。どうだろうか?」

 頬と頬がつくくらいの勢いで体を寄せながら、円花は満を辞して絵を見せてくれた。


 見事の一言だ。

 スケッチブックに描かれた風景画はその輪郭と陰影に世界の物的なあるがままを高度な緻密さで描き写し、色彩には心の眼で捉えた実像……、幾重にも織り成される世界が互いに尊重し合い共存する本当の在り方が現されていた。


(こんな風に見えてるんだ……)


 この才人の描く風景画にはいつもいつも驚かされる。目に焼き付けていく内に、僕は思わず泣き出してしまった。

「えっ、どうしたの?」と画家は戸惑う。

「いや何でもない。ごめんよ。ただ……」

 僕は円花の才能と苦しみにあまりにも苛烈で残酷なバーター取引の様なものを感じて、言葉を失ったのだった。


 特異な感性によって円花は人の輪から孤立し、抑制できない感覚の鋭さに今も苦しめられている。でも――、


「ただ本当に、いつ見ても綺麗だなって」

 そう。円花の絵がこんなにも人の心に届くのは、その感性と感覚で他の人とは違う感じ方ができるから。他の人には見えない世界を見ることができるから。

 僕はポロポロと零れる涙に素直になった。

「エルミタージュやルーヴル美術館にあっても違和感がない。こんな……これ程のものをよくこの短時間で描いてしまえるもんだ」

 すごいよ、としか言えない僕に円花は照れ臭そうにしていたが、

「あ、それなら……」

 と、出来立ての水彩画をスケッチブックから切り取り、バッグから取り出した大きめのクリアファイルに入れた。

「プレゼントするよ」

 差し出された名画に僕は、

「いいの?」と微笑んだ。

「いいさ」

「ありがとう。ふふ、あと何年かしたら物凄い高値が付くんだろうな。ま、そんな価値のあるものを手放したりはしないけどね」

 冗談めかして言うと、

「どうかな」と円花も笑った。それから再びお茶を飲み、

「うん、味が薄い!!元通りになってる!」

 と声を張った。

 彼女なりの冗談だ。

 街を見下ろす丘の上の広場に、僕たちの笑い声が響いた。


 ◆


 10年後……。

 円花はプロの画家となり、今はフリーランスで仕事をしている。僕はマネージャーとしてその手助けをしながら、相変わらず一緒にいた。

 美大在学中から既に才覚が注目されていた円花は卒業後すぐに売れっ子の仲間入りを果たした。僕の役目は決壊したダムの様に押し寄せて来てしまう仕事の依頼をセーブして、円花が『描きたい絵』を描く時間を保証する事だ。この才人にとって絵は本来、ビジネスじゃなくてもっと大切な……人生そのものなのだから。


「なあ、君。ちょっとこれを見てくれないか」

 都内に借りてるオフィスの昼頃。その日の作業がひと段落してデスクの上でコーヒーを飲んでいた僕に、円花はスケッチブックに水彩で描いたビーチの絵を見せてくれた。

 太陽の照る青空には雲がなびき、その(もと)に広がるコバルトブルーの海は穏やかな波を寄せては返し、サラサラとした白い砂浜に潤いを与えている。アングルの手前を飾る椰子の木がこれまた良い味を出していて、カラッとした陽気と波の音が爽やかに伝わって来る、そんな絵画だ。

「これはどこのビーチなの?」僕が聞くと、

「さあね。適当に検索したネット画像をそのまま模写しただけなんだよ、それ。多分ハワイかグアムじゃないか?」

 あっけらかんとしながら言った。

「ほう……もらってもいいかな、これ」

「いいとも」

「ありがと」と僕は言ってからページを切り離し、引き出しの中にしまってあった額縁に入れた。

「アパートの部屋に飾ろ」 独り言を漏らすと、

「なんだ。それならもっと気合い入れて描いたのに」と円花が笑って返した。

「いやいや、僕はこの絵が気に入ったんだから。……なあ今度さ、何処か海の綺麗な場所に行かないか?スケジュールは調整するよ」

「本当に!?」円花は僕の提案に顔を輝かせた。

「ああ。どこに行きたい?」と聞くと今度は、

「その絵の場所に行きたい!」と即答した。

「なるほどハワイかグアムだな」僕は笑った。

「あ、そうだ。さっきの画像がどこだったのかもう一度検索して調べてみよう。もしかしたらセブ島かも知れないし」

 タブレットを操作し始める円花の姿に、彼女が亜麻色の長髪をビーチの風になびかせて、スケッチブックを彩る様子が重なって見えた気がした。

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― 新着の感想 ―
[一言] 見ているのが同じ風景でも違ったように見えるという感覚は不思議ですね。絵というものを通してコミュニケーションをとる二人の関係がとても素敵でした。
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