その名は『ゼロ』
世界に先駆けて、核物質が発する放射線を電力に直接変換する素子開発に成功に気をよくした幕府が、関係機関に宇宙開拓の研究を命じたのは、今から半世紀ほど前の事である。
今でこそ飛行艇として洋上を駆け、はるか天空の彼方にある月までの往復旅行すら可能にしたランダーという名のビッグ・バード。
その歴史は浅く、初飛行から2年も経っていない……
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それは2019年も七夕祭りを翌日に控えた、ある日のこと。
南極上空の静止軌道上にある第22番造船所では、一機の宇宙艇が発進準備を進めていた。その船体はくさび型をしている。まるで巨大な矢じりのようだ。
船体と一体化した三角翼が、そのイメージを強調している。
『こちらランダー・ゼロ。最終確認終わり。問題なし… 行ける!』
「管制室、了解! ゲート、解放!」
巨大な立坑のような格納庫の床が、ゆっくりと動き出した。格納庫の中に、地球からの光が満ちてゆく。
機体を固定していたアームが切り離される。
『出発ポジションに移動、よいか?』
「ランダー・ゼロ、移動してよろしい」
それまで発進作業を見守っていた老紳士がパイロットに話しかけた。
年のころは70を少し過ぎたくらい。無重力空間のなかで、凛とした姿勢でいるのは長年の宇宙暮らしの成果だろうか。
「……本郷君」
『なんでしょうか?』
「いざとなったら、機体なんぞ捨てて脱出するんだよ。いいね?」
『命さえあれば何とかなる、ですよね。わかってます、教授』
「その通りだ。宇宙艇なんか、また作ればいいんだ」
彼の名はムナトモ。
ランダー・ゼロを設計した彼は、計画全体の最高責任者でもある。
そのパイロットである本郷建彦は、彼の弟子でもあった。
『では、行ってまいります』
「道中の無事を祈っているよ」
姿勢制御ロケットを小刻みに吹かしながら、ゆっくりと降下した宇宙艇は、その巨体を床に開いたゲートをくぐり抜けた。
『発進位置に着いた。レーザーマーカー、同調』
「進路確認… クリア。発進してよろしい!」
『ランダー・ゼロ、発進します!』
ランダーはメインエンジンに点火すると、推進剤の白い煙を後に、みるみる加速を始め…
あっという間に見えなくなった。
「ランダー、予定軌道を飛行中。予定通り、20分後にIA24に最接近します」
「結構。おおむね予定通りだね」
IA…… インペリアル・エアウェイズか。たしかヨーロッパ合衆国の企業連合が開発した機体を使っていたはず。
補助ブースターを使って打ち上げるタイプの旅客型シャトルだったな。
レーダーで機体を追跡していた管制官が報告をよこしてきた。
ふと腕時計を見ると、あれから5分も過ぎていない。
「ムナトモ教授、そろそろ司令室に戻ってください。マーリン教授との約束まであと30分です」
マーリン教授は宇宙の謎のひとつを追いかけている天文学者だ。
月面基地の副司令官を拝命し、そこを拠点に観測と研究に邁進している。
なんでも、宇宙の外から『何か』がやってくるらしいと言うのだが。
いくつかの造船所に観測機材を設置してまで、いったい彼は何を探し出そうとしているのだろうね。
まあ、いい。
餅は餅屋に任せよう。
「頑張ってくれたまえ。ああ、無理してはいかんよ」
「大丈夫です、後はお任せください!」
「じゃあ、あとは頼んだよ」
管制官を激励すると、ムナトモ教授は管制室を後にした。
ここで登場するランダーは世界中で量産される事になったかも。
万能機には、ある種のロマンがあると思っています。