第8筆 城下町の日常
翌日は曇りだった。
「湿気がある。インクが乾きにくい」
白嶺門から城外に出たリットは、不平をずっと言い続けている。
「光量が少ない。手元が見にくい。やだな」
石畳の道を抜け、街の大通りを歩く。
「リット様……」
荷袋を背負ったトウリが、手を額に当てる。
「なんだ?」
「爵位なしって言っても、あんた上級職位なんですよ。どうして裏門を使うのですか?」
「身の丈に合っているし、それに貴族連中に知られていないからさ」
悪びれもなく言った。
「表の白銀門を使ってみろ。招待状は完成したのか、誰が招待されているのか、と貴族の方々から質問攻めに遭うぞ」
「それは確かに嫌ですが。馬車を使えば回避できませんか?」
一級宮廷書記官は、私事でも王城の馬車を出せるはず。
「うん? 歩いた方がネタ探しになる」
「ネタ探し」
トウリが思わずオウム返しする。
「……何の、ですか」
「話のネタに決まっている。夜会でも使えるぞ」
「はあ……?」
気まぐれなのか勤勉なのか図りがたい。
目を離せば、焼き菓子屋の娘に話しかけていた。
二言三言、言葉を交わし、小さい紙袋と銅貨を交換する。
「ちょっと、リット様! インクを仕入れに来たんでしょ!」
トウリが主人の外套の裾を引っ張れば、くすりと看板娘に笑われた。羞恥で頬が熱くなる。
「リット様!」
「聞こえている。ほら、行くぞ」
自由気まま、己の調子で歩き出した。さっさと角を曲がり、路地へと入って行く。
「ああ、もうっ。待ってください!」
悲しい歩幅の差を見せつけられた。
嘆きながら、トウリは後を追う。
路地には、いくつもの店が軒を連ねていた。インク壺の看板を掲げる店にリットが入る。
「いらっしゃいませ」
店のカウンターに、黒髪のくせっ毛が特徴的な青年が座っていた。店内に他の客はいない。
「リトン様へ、月神のご加護がありますように」
青年が手元の書籍を閉じた。
「クード。元気そうだな」
カウンターにリットがもたれる。
おや、とクードの手元に目を留めた。
「〈悪役令嬢は~〉じゃないか。そういう趣味だったのか?」
「ご冗談を。私は何でも読みますよ」
ふふふ、とクードが柔和な笑みを浮かべる。
「トリト・リュート卿の最新本の〈白雪騎士物語〉は、もうお読みになりましたか?」
「ああ。こいつが」
トウリを指差す。
「はい! 面白かったです!」
目を輝かせるトウリに、クードは眩しそうに目を細めた。
「それについて、また歓談いたしましょう」
「是非、クードさん!」
クードが本を片付けると、リットがカウンターの上に小さな紙袋を置いた。
「そこの焼菓子屋で。土産だ」
「お気づかい感謝いたします。紅茶を淹れましょう」
「あっ、僕がやります」
カウンターの戸を潜ろうとしたトウリを、クードが言葉で制す。
「いいえ。貴方も我が店のお客様です。お手を煩わせるわけにはいけません」
「でも……」
「いいから、トウリ。紅茶はクードに任せておけ。お前は俺たちが座る椅子を持って来い」
リットが指の腹でカウンターを叩く。
むっと、トウリが眉間を寄せた。
「どこの王族ですか」
はん、とリットが鼻を鳴らした。
「フルミアだったら、どうする?」
「逆らったら、討ち首ですね」
「わかっているじゃないか。早くしろ」
クードがポットを炭火に掛け、振り返る。
「トウリ。そこの、木椅子を使ってください」
「はい。クードさん」
「おいこら、トウリ。どうして主人より、クードに従順なんだ」
「この王国の主なので」
しれっと、トウリが小さな木椅子をリットの前に置く。
「あ、クード国王どの。紅茶は温めで構わない」
リットが木椅子に座りながら言った。
「承知いたしました。リトン一級宮廷書記官様」
「皮肉で返すなよ」
カウンターの上の、自分が置いた小さな紙袋をがさがさ開ける。リットの長い指が薔薇の形をしたクッキーを摘まみ出した。
「お行儀が悪いですよ、リット様。それに、自分が買って来たお土産へ一番に手をつけるとは!」
「なかなか美味いぞ」
椅子に座ったトウリの口へ、リットがクッキーを突っ込んだ。
「むぐ!」
両手で口を押さえ、もっぐもっぐと咀嚼する。
クードがトウリへ紅茶のカップを差し出した。
頭を下げて、紅茶を一気飲みする。熱くはない、温かな紅茶が喉から腹へとすべり落ちる。
「ぷっは!」
急に何をしやがるんですか、という侍従の声なき視線の訴えを、リットは軽やかに無視した。
「さすが商人たち。便乗根性たくましい」
もう一枚、薔薇の形のクッキーを摘まみ、リットがクードへ見せる。
「城下では、〈悪役令嬢は深紅の薔薇と散る〉のウケが良いですからね」
「……えー? そうなんですか?」
クードにお代わりの紅茶を注いでもらいながら、トウリは眉根を下げた。
「貴族のご令嬢が周囲を蹴落としまくるのが、そんなに面白いですか?」
「さんざん好き勝手やっていたのに、物語の最後で王子から婚約破棄されて、元・村娘であるご令嬢に婚約者の地位を奪われる。
その結末が、胸の空く思いで、人気なのでしょう」
リットがクッキーを食べる。紅茶を啜る。
「勧善懲悪。自業自得だな」
うーん、とトウリが首を捻った。
「クードさんは、どう思います?」
「私もリトン様に同意です。あと、トウリ。物語の中に、もう一つ軸があります。何だかわかりますか?」
「えーと……。民の声の代弁、とか?」
ぶっは、とリットが吹き出した。
「あいつがそんなこと書くかよ!」
ぶはははは、と笑い続けるリットに、トウリが顔を赤くする。
「もう! そんなに笑わないでください!」
「リトン様。トウリの答えも、当たらずともに近からず、ですよ」
「全然駄目だろ、それ」
滲んだ目元の涙を指で拭って、リットが息をつく。
「もう一つの物語の軸は、村娘の成り上がりだ」
「あ」
トウリが目を見開いた。
言われてみれば、そうだ。
村娘が、最後には王子の婚約者になる。村娘の視点に立てば、ハッピー・エンド。
クードが頷く。
「二人の女性の運命を対照的に描いた、一冊で二度美味しい物語だから人気が出たのです」
「おお!」
感心したトウリが声を上げた。
「こちらも、美味しそうですね」
クードが皿に薔薇のクッキーを並べる。
どうぞ、とカウンターの上に置いた。さっそくリットの手が伸びた。くすり、と笑ってクードが薔薇のクッキーを摘まむ。口に運ぶ。
「ああ、美味しい。幸せです」
「そりゃ良かった」
リットが相好を崩す。
「幸せを与えた分を、俺のインク代から引いてくれると有り難い」
「さすが、リトン様。値切りの口上も優雅ですね」
「インク王国クード王への懇願だからな」
ちょいちょい、と指先でトウリに指示をする。
主人の意を正しく読み取って、トウリが背負っていた荷袋から文箱を出した。カウンターに乗せる。
「頼まれていた長い恋文の代筆。俺が書いたことは伏せてくれ」
「もちろんです」
クードが文箱を受け取った。
カウンターの最奥にある重厚な棚を鍵で開け、文箱をしまう。
「さて、リトン様。本日のご用命をお訊ねしても、よろしいでしょうか?」
「……と、言いながら。俺のインクを出してくるのは、さすがだよ」
「光栄です」
こん、と大きいインク瓶がリットの前に置かれた。
握り拳ほどのサイズ。黒い液体が僅かに揺れている。
リットが四角柱の瓶の蓋を捻って開けた。
すかさず、羽根ペンと試し書き用の洋紙をクードがカウンターに出す。
「ん、ありがとう。時にクード。青鵞鳥の風切羽根は手に入ったか?」
「え、まだ執着しているんですか」
「トウリうるさい!」
「僕、リット様より騒いでいませんよ」
「トウリうるさい!」
「二回も言った!」
リットが羽根ペンの先をインクに浸す。
さらさらと、洋紙の上に自分の名を書く。インクの色は、明け方の少し軽くなった闇色。
「王城で、夜会が開かれます」
「うん?」
唐突な話題に、主従たちがクードを見た。
「招待状が届く前から、気合いが入ったご令嬢方々は、ご準備なさるでしょう」
「うっわ。また洋扇か!」
リットの筆跡が乱れる。腹立たしげに、洋扇、洋扇、洋扇、と洋紙に殴り書く。
「なんという運命のいたずらか! 青鵞鳥の羽根を逃すために、生まれついたとは!」
青鵞鳥、と未練たらしい筆跡でリットが文字を書き上げた。
「試し書きじゃなくて、呪いの書になっていますよ。リット様」
「トウリうるさい」
「三回目!」
「とても仲がよろしいですね」
ほわ、とクードが笑った。