第5筆 宮廷勤めの面倒な日常
リットがあくびをした。
「ちゃんとしてください。これから、バルド宮廷書記官長にお会いするんですよ」
「わかっているさ」
涙のにじんだ目元を指でぬぐって、リットは通路を歩く。
大きく取られた窓から、午後の柔らかな日が差し込んでいる。
薔薇色の円柱には黄金の装飾。陽光と、柱の影のコントラスト。通り過ぎるたびに、リットの胸元にある白鷲の三枚羽根が光る。
「重くはないか?」
リットが振り返った。
「大丈夫です。大きさはありますが、書籍よりは軽いので」
ひと抱えもある黒檀の文箱を、トウリが掲げてみせた。
蓋が金のリボンで結ばれている。リボンを留める赤い封蝋には、主人の紋章。
「頼もしい侍従だ」
トウリが誇らしげに胸を張る。
通路の向こう側から、華やかな一団が現れた。
リットが天を仰ぐ。
通路はひとつ。
壮麗な草原の装飾掛布が掲げられた壁が続く。逃げ入る部屋はない。
「……道を譲ろう。穏便に背景となろう」
主人の言葉に、トウリがそそくさと装飾掛布の下に移動する。
リットが自然な所作で職位のマントをさばき、近づいてくる一団に進路を譲った。軽く頭を垂れる。
「あらぁ?」
口元を駝鳥の洋扇で隠したヴァローナが足を止めた。三人の侍女たちも主に倣う。
「その胸元の三枚羽根。茶髪の三つ編み。アナタ、ラウル殿下のお気に入りの、リトン様ではなくて?」
トウリだけに舌打ちが聞こえた。
「天上の白銀を支える月桂樹、聖なる柱に棲まう偉大なる翼。
フィルバード公爵家の至宝、ヴァローナ様にお声かけいただき、まことに光栄でございます。
陛下から一級宮廷書記官を任じられております、リット・リトンでございます」
胸に手を当て、リットが貴族礼を執った。その姿を、ヴァローナが頭からつま先まで、無遠慮に眺める。
「爵位なしにしては、礼節があるようね」
ばさばさと、ヴァローナは駝鳥の洋扇を扇ぐ。
「ねぇ、アナタ。恋文の代筆を請け負っていると聞きましてよ」
恐ろしく柔和にリットが微笑む。
「片手間でございますよ」
「夜会の招待状書きの?」
リットの翠の目が細められた。白い歯がこぼれる。
「ご存知でしたか。不肖のこの私が、ラウル殿下から拝命いたしました」
「ワタクシへの招待状は、もう完成していて?」
ずい、とヴァローナが詰め寄った。
「さあ? どうでしょうかねぇ」
リットは口に手を当て、悩む素振りで体を横に向ける。距離を取る。
「焦らさないでくださいまし。罪なお人ね」
洋扇で顔を隠して、僅かに目を覗かせる。完璧な上目遣い。
「ははは。何分、招待客が盛大なもので」
軽薄な主の笑顔に、トウリは思わず渋い表情を浮かべる。
公爵令嬢の前で無礼に値するが、ヴァローナには侍従ごとき、視界に入らない。
「手元に届くのが、待ちきれませんわ。アナタがお持ちなの?」
「書き終えた招待状はバルド宮廷書記官長へお渡ししています。
もう、発送の準備を整えているのではないのでしょうか? 今しばらく、お待ちください」
「ワタクシを待たせることができるのは、王族の方々のみですわ」
「光輝なるご令嬢様」
唐突に、リットが顔を近づけた。ヴァローナの耳元で声を紡ぐ。
「――焦っては事をし損じますよ」
至近距離でリットの翠に見つめられ、ヴァローナが言葉を失った。
澄み切った、翡翠のような比類なき彩色。他の緑の目とは異なる、魅惑の深淵。
「失礼。甘い言葉を囁く距離でしたね」
ご無礼を、とリットは白々しく謝罪する。
リットの瞳に見惚れていたヴァローナが、はっと正気に戻った。急いで誇りをかき集め、ツンと顎を上げる。
「よ、よろしくてよ。ラウル殿下のお気に入りですもの。多少の無礼は、目を瞑って差し上げますわ」
「寛大なお心遣い感謝いたします」
続けられる茶番に、トウリは渋面のままだった。
「ああ、そういえば」
ヴァローナが訊ねる。
「王家主催の盛大な夜会。招待客の数は、どれ程?」
「そうですねぇ。二百や三百……、いや。それ以上でしょうね」
リットはとぼけるが、ヴァローナの目は輝いた。
「まあ、とても素敵! そのような豪華で栄誉な夜会に招待されるなんて」
「そうでしょうね」
リットが愛想笑いを浮かべる。
「でも。心配だわ」
途端にしおらしく、ヴァローナが頬に手を添えた。気遣うように、侍女三人が囀る。
「どうされたのですか。ヴァローナ様」
「何がご心配ですの? 婚約者のタギ殿下も、出席なされますのに」
「そうですわ。どんなことがあっても、殿下がお守りくださいます」
小首を傾げて、ヴァローナが薄く微笑む。
「ありがとう、アナタたち」
憂いのため息をつく。
「ワタクシの心が晴れないのは――」
洋扇を畳み、右肩へ当てる。その仕草が艶めかしい。
「何も知らない小鳥が華やかな王城に迷い込まないか、心配なのです」
まあ、と三人の侍女たちが声を上げた。
リットは天井を見上げた。
「……おお、月神よ。今すぐ夜の帳を下ろし給え」
小声で呟く。
「……夜でも隠れられません。狼たちは追って来ますよ」
トウリがその嘆きを拾う。
「……しょうがない。囮になってもらおう」
「……僕は嫌ですよ」
「……お前の出番はまだ後だ」
わざとらしく、リットがトウリにぶつかった。
「おっと! ああ、そうか。バルド宮廷書記官長をお待たせしているのだった」
立派に囮にしてるじゃないですか! というトウリの突き刺す視線を手で払い、リットがヴァローナへ一礼をした。
「これにて失礼いたします。ごきげんよう、麗しのレディ」
長い脚で、リットは優雅に彼女たちの脇を通り抜けた。素晴らしき歩幅。その後を小走りでトウリが追う。
「お、お待ちになって!」
ヴァローナが呼び止めた。
前を向いたまま、リットの口がへの字になった。めんどくせえ、と顔に書いてある。
「何か?」
リットが完璧な笑顔で振り向いた。
「……こわ」
その変わり身の早さに、トウリが零す。
「スコット子爵に、招待状はありまして?」
「どうですかねぇ。何分、招待客が盛大なもので」
「とぼけないで答えなさい!」
「失礼、公爵ご令嬢。私を待たせることができるのは、王族の方々のみです」
「なっ!」
絶句するヴァローナを置き去りにして、リットはもう振り返らなかった。