第3筆 現世と物語の狭間で
「おっ。〈白雪騎士物語〉じゃないか」
リットの執務室で、ジンが書棚から本を引き抜いた。
「トウリのものか?」
「はい。リット様から頂きました」
トウリが湯気の立つ紅茶をカップに注ぐ。
「よく手に入ったな、リット。最新本だろう」
「いろいろと伝手があるんだよ」
ぱらぱらと、ジンがページをめくった。
「おれが知らないものか?」
「秘すれば花ならず、ってな」
リットが紅茶のカップを受け取り、口をつける。
「言えない類か」
「心配するな、ジン。俺たちのためさ」
「灰の時も炎の時も、友は共にいる……だっけ」
「おい待て、実はお前も〈白雪騎士物語〉読んでいるな?」
「近衛騎士団でも人気だぞ」
本を元に戻し、ジンがリットの向かいに座った。トウリが紅茶を差し出す。礼を言って受け取る。
「他にも〈世直し伯爵~この紋章が目にはいらぬか~〉や、〈獅子王が参る!〉とか。
意外と恋愛ものの〈花の名は〉や〈世界の果てで真実を誓う〉の人気が高いな」
「全部、読んでいます!」
トウリが瞳を輝かせた。
「僕も白雪騎士や世直し伯爵みたいに、悪い奴を懲らしめてやりたいです!」
「そう言って、騎士団に入団する若者が増えた。いやあ、助かる」
「リット様! 近衛騎士団へ紹介状を――」
「誰が書くか」
へっ、とリットが鼻を鳴らす。
「ひどいですっ」
「ひどくない。つーか、良いのかよ。副団長」
「うん? 何がだ」
紅茶を飲むジンへ、リットがびしりと指を突き付けた。
「〈世界の果てで~〉は平民と貴族の駆け落ちものだ。市井はともかく、近衛騎士団の中で読まれていて、風紀が乱れないのか」
「ああ、一人はいたな」
けろりと答えるジンに、トウリの手元が狂った。かしゃん、とポットの蓋が床に転がる。
「し、失礼しました!」
「ははは。そんなに動揺するな、トウリ。若手団員が、有力商人の娘と駆け落ちするって譲らなかったから、条件を出した」
「条件……ですか?」
きょとんとするトウリの一方で、リットが顔をしかめた。
「勝ったんだろ」
「ああ。勿論」
頷き合う二人に、トウリが叫ぶ。
「僕だけ幕の外ですか!」
「結末が決まっている話を聞きたいか?」
リットが椅子の背に深くもたれる。
「どうせ『駆け落ちするならお前一人で彼女を守れる技量がないと無謀だおれを倒してから行け』とか言って、剣で完膚なきまでに負かしたんだろ副団長」
「打ち身三十六カ所、切り傷無数、アバラのひび二カ所で、駆け落ちは諦めたな」
「こわ」
「こわ」
リットとトウリの声が揃う。
「相手の彼女の気持ちも冷めたらしい。その程度で終わる愛なら、それまでだったということだ」
ジンが遠い目になった。
「世の中の厳しさを教えるのが、年長者としての務めだ」
ひそひそと、主従たちが声を交わす。
「……ジン様って普段は温厚だから、務めに対する温度差が激しいですよね」
「……国内随一の剣の使い手だからな。良くも悪くも自律心が強いんだよ」
「……剣を抜くと、人が変わるのですか?」
「……トウリはまだ実戦を見たことがなかったな。見ないほうがいい」
「……見たことあるんですか。何やらかしたんですか」
「……ちょっと、それは、言えない」
「何かやったんですね?」
トウリの非難の視線に、リットはわざとらしく話題を変えた。
「それでだ、ジン。輝ける二等星に、華やかな赤い鳥と水色の小鳥がいただろ」
「ああ」
隠語の意味を理解して、ジンが神妙に頷く。
「赤い鳥は前からいたな」
「近衛騎士団なら、赤い鳥の囀りを聞く機会も多い。どう思う」
「うーん。難しいな」
カップを両手で包み持ち、ジンは言葉を探す。
「血統は申し分ないだろう。フィルバード公爵家だ。歴史も財力もある。王家としても無視はできん」
「そこに水色の小鳥が現れた。夢見る無謀サマには、幸せの青い鳥に映る」
「まさか――婚約破棄か。馬鹿な!」
驚くジンに、リットは息を吐く。
「わからんぞ。〈白雪騎士〉や〈花の〉や〈世界の果てで~〉などの物語を愛読する、夢見る無謀サマだ」
「二回も言うなよ」
「空想と現実の区別がつかないお坊ちゃんとでも言おうか?」
「お前の斬首はおれがやると誓おう」
「そりゃどーも」
椅子の肘かけに、だらしなく肘をつき、リットは翠の目を細めた。
紅茶を飲み干したジンが、小卓にカップを置く。
「リット」
「ん?」
「ピルオードという物語書きを知っているか」
「んー、なんだっけ。貴族令嬢が周囲を蹴落としまくって、最後に自身も村娘に蹴落とされる物語だっけ」
リットが話を振れば、トウリが頷いた。
「悪役令嬢ものですね」
「おれは三ページで頭が痛くなって読むのをやめたが。どうやら、そういう物語が好まれている」
「近衛騎士団の中で?」
リットの問いに、ジンは首を横に振る。
「いや、主に城下だ。民にはウケがいいらしい。団員の何人かが、巡回でそう耳にした。あと……、下級貴族のご令嬢たちだな」
「一種の勧善懲悪だからか。ふーん」
「興味なさそうですね。リット様」
トウリが、お代わりの紅茶をカップに注ぐ。
「お前は読んで面白かったのか?」
「僕ですか? うーん……」
困惑したように、トウリが眉を寄せた。
「勧善懲悪なら、トリト・リュート卿のほうが好きです」
「ああ、〈白雪騎士〉とかの物書きだな」
うんうん、とジンが頷く。
「……ただの物書きに卿とか、つけるなよ……」
「嫉妬か、リット?」
「そんなんじゃない」
「リュート卿も優れた文才に博識だ。名前だけで、その姿を見た者はいない。ミステリアスで夢があるな。実は貴族、もしくは王族だったりして」
楽しそうに言うジンに、リットが噛みついた。
「うるさい唐変木! お断りの恋文を代筆してやった恩を忘れたのか」
「何故それを持ち出すのかわからんが、できれば忘れたい」
「持つべきは友人だな。墓石に刻んでやる」
「お前の美しい筆跡で刻むなら、もっと気の利いた文句にしてくれ」
さらりと言うジンに、リットが額に手を当てた。頭が重い。
「……おま、そういうところだよ。女性に惚れられるのは」
「何がだ?」
「この唐変木!」
リットの声に、トウリがわざとらしく耳を塞いだ。
「そんなに騒がないでください。ご親友のジン様が天然貴公子なのは、今更でしょ」
「ああ、トウリ。この世でお前ほど、できた侍従はおるまい」
「芝居打つ暇があるなら、招待状書きの続きをやりますか?」
侍従が指差す執務机には、紙の束。
「残り百八十五枚です」
リットが顔をしかめた。
「おー、先は長いな」
「追い打ちを掛けるな、ジン。俺の麗しの右手が、鉄の蛇に喰われてしまう」
「腱鞘炎な。お前の独特な言い回しにも慣れたよ」
ジンが肩をすくめる。
「しかし、見るからに量が多いな。他の書記官に仕事を振っていないのか?」
「どこぞの第一王子のご命令だ」
「何?」
怪訝そうにジンが眉を寄せた。
「今回の夜会の招待状は、すべて、一級宮廷書記官であるリトラルド・リトンが代筆すること、だそうだ」
「嘘だろ!」
「そうだったら、どんなによかったか」
リットが椅子に座り直す。長い脚を組み、天井を仰ぐ。
「ラウル様は何をお考えだ?」
ジンが唸る。
「王家主催の夜会の招待客は、百や二百ではないはず――」
「五百五十六組だ」
リットの答えにジンが絶句した。
そのすべてが手書き。
普通なら、他の宮廷書記官たちと協力して作成する。そうでなければ、期日までに招待客へ届けることは不可能。
どのような種類の招待状でも、当日の一カ月前に届くことが世の原則。
いくら早馬を飛ばしても、肝心の招待状が完成していなければ意味がない。
王家主催の夜会の案内が遅れるなど、失態も甚だしい。責任者は断罪される。
はっきりと、命が懸っている。
「そんなに心配するな。ジン」
宝石にも似た翠の目が友を映す。
「俺の速記を知らないわけじゃないだろ」
「しかし……、リット」
招待状の代筆だけが、宮廷書記官の仕事ではない。
王族の私的な手紙の代筆はもとより、外国との書簡。各領地への指示書、その清書。政務官たちが起草した政策の推敲。王の名の下に発行される誓約書や契約書など、多岐に渡る。
「リット様の文字を見ない日はない。というのが、高貴な方々の評です」
大人びた、それでいて少年の声音。
侍従であるトウリの瞳は揺るがない。
「嬉しいことじゃないか。それに、面白い」
「面白い?」
ジンが訊き返せば、宛然王侯のごとくリットは嗤った。
「内容はともかく、俺の文字で世の中が回っている。――面白いとは思わないか、ジン?」