第2筆 高貴なる方々の権謀な日常
「失礼いたします」
続きの間から足を踏み入れれば、部屋一面に様々な紋章が描かれていた。
フルミア王家をはじめ、王国に繁栄をもたらした古き貴族たちの紋章が、静かにリットたちを見下ろす。
「来たか」
窓辺にいた青年が振り向いた。
金色の髪が陽光に透ける。紫の目は王族の証。
「忙しい時に呼び出して、悪いな」
「何を仰います」
手を胸に当て、リットが頭を下げる。
「貴方様にお会いでき、光栄ですよ」
翠の目が青年を射た。
「ラウル第一王子殿下様」
へえ、とラウルの紫の目が大きくなる。
「お前が二重敬称を口にするとは。すこぶる機嫌が悪いな」
「失礼、ラウル殿下。忙しかったもので」
「ふうん。王族より忙しいのか」
「主君、南面すれば忽ち国安からず、ですからねぇ」
のほほんとした声音とは裏腹に、リットは際どい皮肉を叩きつける。王は座っていれば国が治まる、という意味に、ひい、と部屋の隅から小さな悲鳴が上がった。
「お前の主人は元気で何よりだな、トウリ」
「はっ! 有り難きお言葉」
「私の侍従を巻き込むのは、やめてください」
くく、とラウルが喉を鳴らす。トウリはきょとんとしている。
「で。ご用件は?」
率直すぎるリットに、ラウルが苦笑した。
「一応、格式高い紋章の間を選んだのだが」
「殿下と俺しかいないでしょう。第一王子たる者が、衛兵さえも遠ざけるとは」
トウリが気付く。
紋章の間は静けさに包まれている。人の気配がまったくない。
「これでうっかり殿下を斬っちゃったら、確実に地下牢行きですね」
リットの軽口に、ラウルが腰の剣を指で叩く。
「お前は帯剣していないだろう? 宮廷書記官」
「ペンは剣より強いらしいです」
「弁論で斬ってもらいたい相手は他にいる」
リットの柳眉が跳ねた。
「フィルバード・ヴァローナ嬢」
ラウルが壁の一点を見つめる。歴代より、王に忠誠を誓う大貴族の紋章がある。
「……第二王子の婚約者が、いかがしましたか?」
「お前はどう思う。リット」
「うっわ。権謀術数の用件じゃん」
盛大に顔をしかめたリットに、ラウルが呆れた。
「お前、衛兵がいなくて本当に良かったな。不敬罪で即座に討ち首だぞ」
「あ、やっぱりですか?」
リットが壁際で固まっているトウリを見た。片目をつぶってみせる。
「何だ。お前たちで謀略でも練っていたのか」
「違います!」
涙声でトウリが叫ぶ。
「まあ、戯言は横に置いて」
ひどい! と叫ぶ侍従をリットは華麗に無視した。
「フィルバード家は王妃様のご実家。つまり、ラウル様にとっても結びつきが深い公爵家でしょう。そのご令嬢が、何か問題でも? って、まさか――」
リットが驚愕の表情を浮かべる。
「横恋慕ですか! うっわ、色事不祥事!」
「そんなわけあるか」
紫の目に睨まれ、リットがため息をつく。
「デスヨネ。何だ、つまんない」
「お前の趣味に付き合っている暇はない」
「情報収集は趣味じゃないんですが」
はっ、とラウルが鼻で笑った。
「生きるのに必死なのは良いことだ」
「人の世は生きにくいですからねえ」
「リット」
ラウルが間合いを詰めた。
「世間では悪役令嬢なるものが流行っているそうだ。その筆頭が、我が弟の婚約者であると耳にした」
第一王子の指が、リットの胸を示す。
金のブローチで留められた三枚の白鷲の羽根。窓から差し込む陽光に輝く。
「真実を綴れ。一級宮廷書記官、リトラルド・リトン」
省略されない名が、紋章の間に響いた。
「うん?」
回廊から庭園を見下ろして、リットが眉を寄せた。
「リット様。そんなところに上らないでください」
回廊の基壇、唐草のレリーフが彫られた石の上に、リットが膝を立て座る。
「ご歓談のお相手は、ヴァローナ嬢じゃないな」
色とりどりの花が咲く庭園、その一角のベンチで、少年と少女が微笑み合っていた。
「……間違いなく、第二王子のタギ様ですよね」
自分の肩ほどの基壇に手を掛け、トウリが覗き込む。
「ふーむ。相手がわからん。
ありふれた栗色の髪にリボン。宝飾品は僅か。水色のドレスは一級品じゃないな。レースは……二段編み。貴族階級だったら下位だな」
「よくわかりますね」
トウリが驚嘆の息を漏らす。
「ついでに第二王子と同じ年頃だ。話し相手としては、珍妙」
「ちんみょう……」
「奇妙ってこと」
「何故です? お似合いじゃないですか」
タギが膝の上で開いた本を指差す。遠目では何が書いてあるのかわからない。
一言二言、タギが言葉を紡げば、相手の少女は口元を手で隠して上品に笑った。
「ほらな」
「いや、わかりません」
トウリが不満げに眉を下げる。
「説明を省略しないでください」
「洋扇を持っていない」
「そう言われれば……」
水色のドレスの少女の手には、何もない。
「高価な洋扇は、高貴なる淑女の証さ」
リットは続ける。
「公爵令嬢とか侯爵令嬢とか、最低でも伯爵令嬢の方々は常に携帯している。
彼女たちにとって、それは帯剣と同じ意味。選ばれた者の特権。財力の誇示。自慢。倨慢」
「倨慢ってなんですか」
「驕り侮ること」
「ひがみ入っていません?」
リットが眦を吊り上げた。
「洋扇に使うからって青鵞鳥の風切羽根を横取りされたことあるんだぞ!」
「あぁ、羽根ペンの材料ですか」
トウリが納得する。
「筆記道具の恨みは怖いですねえ」
「俺の商売道具だからな!」
「あんた十分な俸給もらってるでしょ。青鵞鳥の羽根はまた探せばいいでしょ」
「貴重な八年物だったんだよ!」
「しつこい男は女性に嫌われますよ」
「はんっ。俺の恋文で落ちないレディがいたら、是非お目に掛かりたいもんだ」
「――何やってんだ?」
灰色の髪の騎士が、回廊を通りかかった。
「おう、ジン。ちょうどいい」
「そんなところに座って。侍従を困らせてやるな」
トウリが強く頷く。
「リットに愛想が尽きたら、近衛騎士団に来るか?」
「是非!」
即答だった。
「素直な侍従を持って俺は幸せ者だナー」
ちょいちょい、とリットがジンを傍に呼ぶ。
「何だ?」
「長身のお前は目立つ。回廊の柱に隠れていてくれ」
ジンが柱の影に移動し、リットの視線の先を辿った。灰青の瞳が、花の中の少年少女を捉える。
「覗きは趣味が悪い」
「しょうがないだろ。回廊の二階、加えてこの角度でしか見えん」
それに、とリットが続ける。
「第二王子のお相手なら、お前も覗きたくなるさ。近衛騎士団副団長どの」
ジンの眉間に皺が刻まれた。
「……婚約者のヴァローナ様ではなく、スミカ嬢か」
「知ってんの?」
リットの目が丸くなる。
「当主が貴族なのに学者肌なんだと。一人娘のスミカ嬢を、学問が盛んな隣国に留学させていたと聞く。最近、帰国したらしい」
「家名は?」
「スコット家」
「あー……」
ジンの言葉に、リットの声が力をなくす。
「歴史はあるが、力も金もない。細く長く慎ましくって家柄だな」
「単なる話し相手の一人なら、そんなに悪くないんじゃないか? 学のある大国と文通する才女だぞ」
「ジン。お前は、第二王子殿下の性格を知っているだろ」
見上げるリットの翠に、近衛団副隊長が苦笑する。
「明るくて、素直で、真っ直ぐな御方だ」
「夢見る無謀とは言わんのだな」
「それは聞かなかったことにするが。お前いつか不敬罪になるぞ」
ひい、とトウリが泣きそうになった。
「有り難い友の忠告だナー」
「リット」
あくまで軽い調子に、ジンが声音を低くする。
「王家の代筆を任される一級宮廷書記官なんだ。そのことを面白く思わない輩もいる。陥れられたらどうするんだ」
「そうなったら、ひと思いに首チョンパしてくれ。ジン」
リットが唇の端を吊り上げる。
「一度死んだら、二度目も同じさ」
「ふざける――むぐ!」
リットがジンの口を左手で押さえた。
「馬鹿。大声を出すな。気付かれる」
「……ふまんふぁった」
もごもごとジンが謝罪する。
リットが手を外し、庭園のベンチを見た。
「お? 第三者がご登場。第二幕開場」
「婚約者のヴァローナ様だな」
ジンが呟く。うわあ、とトウリが驚いた。
「真っ赤なドレスに、金の宝飾品。目がチカチカします」
「公爵ご令嬢だから……、社交界の中心を担う方でもあるから……、それなりに華がないと……な」
言い淀むジンとは対照的に、リットが気色ばんだ。
「あっ、青鵞鳥の洋扇! ちくしょう横取りしたのは、あいつだったのか!」
「どうしたんだ?」
訊ねるジンへ、トウリが首を横に振る。
「全然、まったく、お気になさらず」
「そうか?」
三人の眼下では、演劇よろしく修羅場が繰り広げられている。
『――ごきげんよう、タギ様』
ばさばさと青鵞鳥の洋扇をあおぎながら、ヴァローナがベンチへ近づいた。
その後に着飾った三人の侍女たちが続く。
『よい天気ですわね。読書でございますか』
第二王子が表情を強張らせた。
『あらぁ? タギ様の横に座ってらっしゃるのは、どこの公爵令嬢ですの?』
慌てた様子で、スミカ嬢がベンチから立ち上がる。
『――し、失礼いたしましたっ。わ、わたくしめは、これで』
『お待ちなさい』
一礼して立ち去ろうとしたスミカ嬢を、ヴァローナが呼び止めた。
『アナタ、文学には詳しくて?』
ヴァローナの発したであろう言葉に、スミカ嬢が目を見張る。
『……は、はい』
おずおずと彼女が首肯すれば、ヴァローナが笑みを浮かべた。
『でも、服装には疎いようね。くすんだ水色のドレスなんて、いつの流行かしら?』
ヴァローナが侍女たちを見れば、三人がくすくす笑い出した。
『あの黄ばんだレースを見まして? みっともない』
『ルビーの一つも身に着けていませんよ』
『やだ。洋扇も持っていないじゃないの』
かっと、スミカ嬢の顔が羞恥で赤くなった。両手でドレスを握り締める。
『まあ。アナタたち言いすぎよ。下々には、下々のご都合があるのですから』
女主人の窘めに、三人の侍女たちは口を閉じた。
けれども嘲笑はやめない。
『ねぇ、アナタ。もしよろしければ、これを差し上げるわ。貴重な青鵞鳥の羽根を使っていましてよ』
ヴァローナが持っていた青鵞鳥の洋扇を差し出した。
『……い、いえ。そのような高価な品を頂くわけには』
『あらそう? ワタクシ、もっと高価で珍しい洋扇をたくさん持っていますの。一つや二つ、別に構いませんわ』
スミカ嬢が俯き、首を横に振った。
『……そのような美しい洋扇。わ、わたくしには、ふさわしく、ありませんから……』
おーほっほっほ、ヴァローナの哄笑が庭園に響いた。
『身の程を弁えているじゃないの』
ヴァローナが冷徹な目で睨む。
『わかっているのなら、さっさと消えなさい』
顔を伏せたまま、スミカ嬢が退去の礼をする。そうして、早足でベンチを後にした。
「――とまあ、こんな感じかな」
「ですねえ」
リットとトウリの二人に、ジンが頭を抱えた。
「……勝手に、吹き替えをするんじゃない」
「この距離じゃ、何を話しているのか聞こえんからな」
悪びれもせず、リットがジンへ振り向く。
「なかなか様になってただろ? 俺のヴァローナ嬢」
トウリが小さく拍手をした。
「物語に登場するような、典型的な薄幸のご令嬢ですね。スミカ様」
「スミカ嬢のパート、トウリもうまかったぞ。腕を上げたな」
「ありがとうございます!」
主従のやりとりに耐え切れず、ジンが回廊の柱に腕をつく。
「お? どうした、ジン。持ち前の頭痛か胃痛か?」
「……不敬という文字は、お前の辞書にないのか」
「不稽という文字はあるぞ」
嫌そうに、それでもジンが訊ねる。
「その意味は」
「うん? でたらめ、滑稽、コケコッコー」
ジンが剣の鯉口を切った。
「待て待て待て! 話せばわかる!」
血相を変えたリットが、回廊の基壇から飛び降りた。
「話していても、わからんのだよ」
「この真面目!」
助けを求めてトウリを見るが、顔をそらされた。
「あなたは良いご主人様でした。僕は明日から近衛騎士団になります」
「身替わり早っ! 本当に俺は侍従に恵まれたな!」
「身から出たサビでしょう」
トウリがため息をつく。
キン、とジンが剣を収めた。
「それで、リット。話を戻す」
真剣な表情で、ジンが腕を組む。
「何やってんだ?」